その日は大雨だった。予報によると、今日から関東地方は梅雨入りらしい。
重い雫がアスファルトに叩きつけられてざあざあとやかましい音を立てている。
空は真っ暗で、道路脇にある自動販売機が唯一の光だった。
いつもはその光に虫が無数に群がっているのだが、今日はこの雨のため一匹も姿が見えない。
きっと虫たちは自分の住処にいるのだろう。
そう思うと、虫でさえ雨に打たれずにすむ場所をもっているというのに、と苦い感情が広がった。
彼女はバス停に座っていた。バス停といっても、それはただベンチとバスの停車位置を示す看板が立っているだけの場所なのだが、そこが彼女に許された場所だった。
薄いTシャツにジャージの長ズボンはもう雨に濡れて体にはりつき、気持ち悪い。
さっきまでは髪だけはぬらさぬようにしようとスクールバッグの中から下敷きを取り出して雨を防いでいたのだが、その努力ももうやめてしまった。
ぽたりぽたりと、彼女の髪から水滴がしたたりおちる。
彼女――
一時間前、巡は母にずっと抱えていた気持ちを打ち明けた。
「学校をやめたい?」
「……うん」
母は昔から娘に関心がなかった。それで、いつも娘が相談を切り出すときはものごとが大きくなりすぎてどうにもならなくなってからだった。
巡は二か月前の四月に通信高校に入学したばかりだった。通信高校を選んだのは、中学不登校だった巡にその選択肢しかなかったからだ。
そうして気が進まないまま入学した高校で、彼女は派手な服装の同級生――もちろん中には年上もいる――たちに宿題をおしつけられたり、飲みかけのペットボトルをぶつけられたりする毎日を送っている。
娘がどんな学校生活を送っているのか知る由もない母は眉をつりあげた。
「冗談でしょう? どうしても高校に行きたいっていうから行かせてやったのに」
「だって……」
「たいして勉強もできないくせに、余計に学費をかけて。通信高校っていっても、それなりにするんだからね。私は女手ひとつで頑張っているのに、あんたはちっとも親のことを考えないのね」
「……ごめんなさい」
「それでどうするつもりなのよ」
「働こうと思って」
「その顔じゃあ夜職はできないわよ。そもそも、あんたなんかに勤まる仕事があるのかしらね」
それは、わからない。正直なところ、働くということがどういうことか、まだよくわかっていない。しかし、学校に行かないのだから、働くのがいいのだろうと漠然と思っていた。
答えないでいると、母はため息をついて話を切り上げた。
「まあ、いいわ。巡、手続きはあんたが済ませちゃってよね。私、忙しいんだから」
「うん」
「働いたら、この家も出てってよ」
「え?」
「あたりまえでしょう? 働くならもう大人じゃない。いつまでも世話になろうなんて、図々しいと思わない?」
「そう、だよね」
「ほら、さっさと出てってよ。客が来るから」
「うん」
「まったく、変な子なんだから」
追い立てられるように、小さなアパートの部屋を出る。ばん、と音を立てて玄関のドアが閉められる。曇天の空からはぽつりぽつりと雨粒が落ちてきていた。
「雨が、母さん、傘……」
ドアの向こうにいる母親に聞こえるように言ったが、玄関はもう開く気配がなかった。
客、というのは母親が働いている夜の店の客のことだ。彼女は店で個人的に親しくなった客を家に招いて個人的な営業をしている。
母娘が住んでいるのは1LDKの小さな部屋だ。昔、巡がまだ幼かったころは押し入れやリビングで息を殺して母親の仕事が終わるのを待つことを許されたのだが、最近は追い出されるようになった。
母親も気が付いているのだ。客の男たちが舐めるような視線で16歳になった巡の体を見ていることに。
しかし、母親が巡を追い出すのは親心からではなく、女としての対抗心だ。
母は巡が女になるのを嫌った。巡は母の嫉妬の炎を宿した瞳を思い出し、肩を落とした。
――そうして彼女はいつものバス停へ行く。
バスは18時が最終便だ。日が暮れたいま、このバス停に近づく人影はない。
狭い田舎町である。この時間に空いているのはコンビニくらいだ。しかし、そこにも中学時代の同級生の女子がアルバイトを始めてしまい、行きにくくなってしまった。
きっと向こうは中学の半分以上を保健室で過ごした巡のことなど覚えているはずがないのだが、それでも巡は彼女に姿を見られるのが嫌だった。
――まともに中学を卒業して、まともに高校に進学して、まともにアルバイトをして、楽しそうな同級生に自分のみじめな姿を見られたくなかったのだ。
そして人目を避けているうちにたどり着いたのがこの人気のないバス停だった。
巡はため息をついた。
どうしていつもうまくいかないのだろう。
うまくやらなくては、と思うけれど、どうしてもうまくいかない。
巡は頬に触れた。それは彼女の癖だった。
(これさえなければ)
彼女の右頬には大きな切り傷がある。傷は直線で、そこだけ皮膚がもりあがり、ぼこぼこしている。それは顔も覚えていない彼女の父親が割れたビール瓶の破片でつけたものなのだと聞いた。
(気持ち悪い)
その傷を見た人間はみんなそう言った。そして、彼女をさげすんだ。
(これさえなければ、もっと……)
顔にこんなに大きい傷がなければ、もっとうまく人と付き合えたかもしれない。
巡は夢想する。顔に傷がない自分。その自分はもっと明るい性格で、親に愛されて、信頼できる友達がいて、夜までメッセージをやり取りする恋人もいて――。
幸せな想像は強制的に打ち切られる。
「巡ちゃん?」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには母親の客のひとりが傘をさして立っていた。40代後半くらいのその男は、いつもすえた臭いがするジャンパーを着ている。
「お母さんは?」
「家に……」
巡は膝の上に置いたスクールバッグをぎゅっと抱きしめる。男に近づいてきてほしくなかった。しかし男はそんな巡の気持ちに気が付かないふりをして、ベンチの隣に腰掛けた。
男がさしている傘で雨が遮られる。
あれほど望んだ傘だったが、いまは傘の下から逃げ出したかった。巡はベンチの端に体を寄せた。
「またあの女は男を連れ込んでいるのか。まいったもんだねぇ」
「……」
男はなれなれしく巡の肩を叩く。
「この雨じゃあ、大変だろう」
すえた臭いがした。男の黄ばんだ歯が見えた。
「うちに来るかい?」
男の手が、太ももに触れた。
巡は体を硬直させた。
――ああ、この世は地獄だ。
巡が男の手を振り払おうとしたそのとき、第三者の声がした。
「見つけた」
巡と男は同時に振り仰いだ。
「……え」
自販機の傍に、青年が立っていた。見覚えのない青年だった。
「探した……」
青年はまっすぐに巡を見ている。二十代前半くらいだろうか。彼は奇妙な風体をしている。見上げるほど背が高く、鮮やかな赤いマントを羽織っている。プラチナの髪を肩下でひとつにまとめ、そして――。
「耳?」
それが目に入って、思わず声に出してしまった。
男の頭にはふたつの、犬のような耳がひょこりと生えていた。それは雨に濡れそぼり、力なくたれている。
「だ、誰だ……? 巡ちゃん、知り合い?」
男が言う。巡は首を振った。
青年はふたりの戸惑いを意に介せず、巡に手を伸ばした。
「迎えに来た……」
「え……」
巡は目を瞬いた。自分に手が差し伸べられている。暗い夜道で、悪い男にかどわかされそうになっている自分に。
それは優美な手だった。
巡の目にはその手が光り輝いて見えた。
巡はためらわずにその手をとった。それはあたたかかった。