午前の授業を終え、ランチルームで食事をとっていると、校内放送で僕の名前が呼ばれた。至急、医務室へ来るようにとのことだった。
心当たりのない僕は、訝しく思いながら、残りのスープをあわてて飲みこんだ。医務室は西棟にある。昼休みで生徒があふれる廊下を通り過ぎ、エレベーターで十階まで上がった。
扉が開くとエレベーターホールにレキシアが立っていた。
「レキ……エヴァレット先輩」
「こっちだ、ミハエル」
前置きもなく、レキシアが「ついて来い」と歩き出す。
「どうして先輩がここに?」
「俺が保護したからだよ」
「犬? 猫を……?」
「違う、人だよ。女の子」
話が見えず僕は聞き返した。レキシアが振り返り立ち止まる。
「フィーネという子を覚えてるか?」
レキシアがその名前を口にした瞬間、全身が凍りついた。
フィーネが……どうして、ここに。なにかの間違いじゃ……。
「どうした、ミハエル」
言葉を失くした僕の肩にレキシアの手が触れた。無意識に一歩後ずさった。
「その子が……どうしたんですか。保護したってなんですか」
「正門前で倒れたんだ。ひどく衰弱してる。俺は今日
歩哨補佐は生徒が持ち回りで担当する軍の疑似業務のひとつで、正門の警備と訪問者対応が主な仕事だった。
「フィーネはミハエルを訪ねてきたと言っていた。だからおまえを呼んだんだ」
医務室に入ると、左右に並んだベッドの一番奥に女の子が眠っていた。点滴の調整をしていた校医のメアリ先生が手招きする。室内にいるのは僕たちだけ。とても静かだ。心臓が不穏に騒ぎ出す。
息をつめて近づいた。肩で切りそろえられた金髪と、まつ毛の長い愛らしい顔立ちは、確かにフィーネだった。
「この子はいくつかしら」
「十五歳です」
「そう……体つきからして栄養が足りてないみたいね。あるいは、病気なのかも」
メアリ先生は自分の子供を心配するように言った。
フィーネと出会ったのは母さまが亡くなったあとだ。わずかな期間、一緒に過ごした。士官学校の入学報告をして以来、会うのは二年ぶりだった。時間は経ったけれど、フィーネの外見はあまり変わってなかった。
着ている服は以前会った時と同じものだ。襟にあしらわれた赤いリボンは色あせ、ベッドの下に揃えられた黒のエナメル靴は、ところどころ擦り切れている。
「リルシュくん、フィーネさんのご両親を知っている? 連絡が取りたいのだけど、お財布も身分証も持ってないのよ」
「フィーネに両親はいません。連絡するなら、孤児院に」
「まあ、そうだったの。もしかして、コルヌは孤児院の名前?」
僕は混乱していた。コルヌは店の名前だ。なにから説明を……いや、しないべきか? 逡巡していると、不意にフィーネが目を覚ました。僕を見とめ、安堵に顔をほころばせる。
「ミハエル……嬉しい。やっぱりこの学校だったのね」
「久しぶりだね」
普通ならここで元気そうだねって声をかけられるのに、フィーネの顔は青白く声も弱々しい。差し出された手も骨ばっていて、健康から遠いところにいるのがわかった。
僕はそっとフィーネの手をとった。
質量がないんじゃないかと思えるほど、軽かった。
「どうやってここに来たの? 荷物は?」
「夜行バスに乗ってきたのよ。荷物はね、今朝ターミナルに到着したら、お財布と一緒になくなってたの。寝てる間に盗まれたみたい。ごめんね、ミハエルにおみやげを用意したのになくなっちゃった」
フィーネは寂しげに微笑んだ。僕は胸の奥にひりつくような痛みを感じた。
「ここまでターミナルから歩いてきたの?」
「ポケットに残ってたお金でタクシーを拾ったの。ここは素敵な街ね。ストルテの田舎とは大違い」
地方都市のストルテは僕たちの故郷だ。緑豊かな景色と港町が目の前によみがえり、瞬きとともに消えた。
「……わたし、孤児院から逃げてきたの」
「どうして……?」
「さよならを言いに来たの。最後に会いたくて……。わたしは思うように生きられなかったけど、ミハエルは新しい道を見つけた。寂しかったけど、嬉しかった。あなたはきっと、なんにでもなれる。ミハエルはわたしの誇りよ」
「ねえ、さよならって、どこへ行くの? 当てはあるの」
僕と同じ天涯孤独の君が。
「天国へ行くのよ。わたし、病気なの」
「治療は」
「したわ。でも治らないみたい。前の仕事が原因だろうって、お医者様が……」
「そんな」
「ミハエル、わたしの分まで生きてね。立派な軍人さんになって、デミトリオスを守って。ずっと、応援してるわ……」
そこまで話すとフィーネは意識を失った。少し遅れて救急隊員が到着し、病院に搬送する準備を始めた。
「リルシュくん、最後に声をかけてあげて」
促されたけど、僕はひと言も発することができなかった。ただ、フィーネと握手するのが精いっぱいだった。
最後の力をふりしぼって会いに来てくれたフィーネに感謝を伝えるどころか、ほかのことに気を取られ、僕の思考は飽和していた。