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第6話

 イロハさんを追って泳ぎ続けていると、突然パッと視界が開けた。

 眩しさに目がくらみ、一瞬、足が止まる。明るさに目が慣れてきたところで、目を開けると、目の前に大きな船があった。

 触れたらほろほろと崩れてしまいそうな、ずいぶんと古い船だ。

 は破れ、一部破損した船体にはこけ珊瑚さんごたちが繁殖して、小魚たちが楽しそうに鬼ごっこをしている。

 船の中では既に、天然の生態系が確立されているようだった。

「すごい。これは、沈没船?」

「いいでしょーっ! ここは私の隠れ家なんだ。ここに住んでるのは、みんな私の友だち!」

「本物なんですね! さすがです! ハルさん」

 初めて見る大きな船に、私とナツメさんが瞳をキラキラさせていると、

「あっ、イロハっちいた!」と、ハルさんが叫んだ。

 ハルさんの視線を辿った先にイロハさんがいる。

 私たちは急いで沈没船の甲板かんぱんへ向かった。

「イロハさん」

 沈没船の甲板の先に佇むイロハさんに声をかけると、彼女は一度ちらりと私たちを見たものの、すぐに視線を外した。

「なんだ。説教でもしにきたのか」

「まさか」

 イロハさんのとなりに並ぶ。私たちの目の前を、すいすいと優雅に色鮮やかな魚たちが泳いでいく。

「ただ、心配になったから来ただけです」

「心配? まさか、私が心配だとでもいうのか?」

「そうですよ」

「呆れて言葉も出ないな」

 イロハさんは深いため息を漏らし、私を拒絶するように背を向ける。

 その態度に、それまで大きくなっていた自信は風船が萎むかのように勢いを失っていく。

 私は、歯を食いしばった。

 ここで引いちゃダメだ、と。

 私は震える声で言った。

「……イロハさんは、きっととても真面目で、仕事もきっちりできてしまうから、きっと甘えることが苦手なんです。いつもひとの上に立っていたから、甘えかたを知らないまま今まできてしまったけれど、本当はずっと、だれかに甘えたかったんじゃないですか? 本当は、今のじぶんを変えたいんじゃないんですか、イロハさんも」

「……私は、べつに……」

 それまで強かったイロハさんの声が、わずかに動揺に揺れる。私は畳み掛けるように続けた。

「ナツメさんのこともそうです。イロハさんはべつに、責めたかったわけじゃないですよね? ただ、励ましたかっただけなんですよね? ナツメさんと、それからじぶんのことを」

 イロハさんが驚いた顔をして、私を見る。

「なんだ、いきなり」

 あのとき、イロハさんはくだらないと言った。でもそれは、ナツメさんにではなく、じぶん自身に向けた言葉だったのだと、私は思う。

「なんとなく、そんな感じがしたんです。わざと言葉にしてじぶんに言い聞かせて、奮い立たせようとしてるっていうか」

「……ふん」

「違いましたか?」

 イロハさんは黙ったまま、瞬きをする。そして、静かな声でぽつりと漏らした。

「……お前は、変わってるな」

「よく言われます」

 イロハさんは降参だというように手を挙げて、小さく笑った。

「……そうだよ」

 それは、どこか溜め込んでいた空気をぷはっと吐くような言いかただった。

「……本当は、私も迷っていたんだ」

 目の前を、大きなクジラがゆったりと横切っていく。それを眺めながら、イロハさんは話し出した。

「今の仕事は、じぶんがやりたくて就いた仕事だ。上司に期待され、後輩に頼られ、それなりに充実している。だが……仕事への向き合いかたや後輩への指導に息苦しさを感じていたのも事実だ。私は白鬼。ハーフとはいえ、完璧な存在として周りからは認識されている。だから私は……生まれたときから、だれかに頼るということを許されなかった。無論、仕事で迷っても、相談できるひとなんていなかった。だから……迷いながらも、己の道を突き進んできた。たまに周りにとやかく言われることがあったが、結果は出ているし、今のスタイルこそが完璧なのだと、疑問や不満の声を無視して貫き通した。私は白鬼……完璧でなければならない。弱音なんて吐いてはいけない。厳しすぎるときらわれても、それが結果に繋がるなら気にすることはないのだと」

 本気でそう思っていた、とイロハさんは話す。しかし、つい先日一番近くで成長を見てきた後輩が、突然辞めてしまったのだという。

「辞めた後輩が、最後に言ったんだ。ずっとそばにいるのに、イロハさんの視界に入ってる気がしない。このままイロハさんのそばで働き続けるのは、体力的にも精神的にも辛い。……そう言って、辞めていった」

 これまでの自分を、全否定されたような心地だった。私は、彼女の人生を狂わせかけていたのかもしれない。そう気付いて、恐ろしくなった。

 イロハさんは私たちにそう打ち明けながら、静かに涙を流していた。

「ナツメには散々なことを言っておいて、情けないだろう。……笑いたければ笑えばいい」

 自嘲気味な笑みを漏らすイロハさんを、ナツメさんは静かに見つめて……首を横に振った。

「情けなくなんてない。そもそも、完璧であろうとするイロハさんは間違ってないわ。私にはとても真似できないし、かっこいいと思う」

「よしてくれ。余計惨めになるだろ」

 イロハさんが背を向け、船内へ歩き出す。その背中に、私は叫ぶ。

「そんなことありませんよ!」

 イロハさんが顔を上げる。

「惨めだなんて、そんなことぜったいにないです! 私も完璧であろうとするイロハさん、かっこいいと思います」

 イロハさんに微笑みかけるが、彼女は戸惑うような表情のまま。

「……かっこいいもんか。結果、私は後輩を守れなかった。私のやりかたは間違っていたんだ」

「違うよ」

 今度はハルさんが言った。

「イロハっちは間違ってない。ただちょっと、言葉が足りなかっただけだよ」

「こと、ば……?」

 イロハさんが眉を寄せる。

「……私もそう思う。その子は、じぶんが頼りにされていないと思ったんじゃないかな。完璧なイロハさんに憧れてたからこそ……ただ、イロハさんに認めてもらいたかっただけなんだと思う」

 ナツメさんの言葉に、イロハさんはハッとしたように瞬きを繰り返した。

「そういうものなのか……?」

「心の声は、相手には届きませんから……。たったひとことの労いや笑顔で救われることだってあると思うんです」

 言葉は、ときにひとを傷付ける。しかし逆に、救うこともあるのだ。私はそれを、今夜知った。

「…………」

 イロハさんは黙り込んだ。その頬はこころなしか、じんわり赤くなっているような気がする。

「つまり、イロハっちは愛情表現が足りなかったってことだな」

「そういうことね」

 イロハさんは唇を引き結んだ。

「……でも、そんなのは私のキャラではない」

「あれ? だれにどう思われても気にしないと言ったのはだれでしたっけ?」と、ナツメさん。

「ぐっ……」

 今度こそ、イロハさんが言葉に詰まった。

「なぁんだ。イロハっちも結局、イメージに囚われてたってことなんだねぇ」

「ふふっ。なんだかちょっとホッとした。イロハさん、可愛いところもあるんじゃない」

 ――ナツメさん、楽しそう……。

 ナツメさんは案外Sっ気があるのかもしれない。

 新たな一面を見て、少し心が弾む。

「くそっ」

 イロハさんは悔しそうに顔を背けた。

「……あの、イロハさん」

「なんだ? まだなんかあるのか」

 身構えるイロハさんを、ナツメさんがまっすぐに見つめる。

「ずっと完璧じゃなくてもいいんじゃないかな? 少なくとも私たちはイロハさんの上司じゃないし、後輩でもない。イロハさんになにかを期待したりしないわ」

「そーそー! ただ同じバスの乗客ってだけ」

「ですね」

「……まぁ、それもそうか」

 イロハさんはふぅ、と息を吐きながら、ぐるりと周囲を見回した。

 赤やオレンジ色の珊瑚礁、イワシの群れや、それを追いかけるイルカたち。船体や岩についた苔をのんびり食べるジュゴンに、ふよふよとただ海の中を漂うだけのクラゲ。

「……きれいだな」

「ですね」

「本当はな、寝過ごしたというのはうそだったんだ。どうしても、降りるボタンを押すことができなかった。仕事を、辞めたくなってた」

 これまでのじぶんをすべて否定されたような気がして。

 イロハさんは目を閉じ、ふうっと息を吐く。

「……こうやって、気負わず、本当のじぶんに戻れる時間というのはいいな」

「……はい」

「バスに乗ったときは、正直明日のことなんて考えられなかった。でも、今は少し……夜明けが怖くないよ」

「……私も。悩んでるのは、私だけじゃないんだって思えたし、本当の私を受け入れてくれた、みんながいるから」

 そっと微笑むナツメさんに、私も頷く。

「はい」

「私たち、なんだかんだめっちゃ相性いい気がするんだよね! ねっ? 思わない?」

 ハルさんが明るい声で言う。

 ナツメさんがぎゅっと私の腕に絡みつく。

「そうね! ね? ミオちゃん」

 すぐ間近にナツメさんの美しい顔があって息を呑んでいると、ナツメさんは美しい顔をくしゃっとさせて、あどけなく笑った。

 それまでの品のある微笑みとはまた違って、とても可愛らしい笑みだった。

「ですねっ!」

 ナツメさんと笑い合っていると、ふとイロハさんの視線を感じた。

 見ると、イロハさんは神妙な顔をして、ナツメさんを見つめている。

 イロハさんはナツメさんに歩み寄ると、唐突に言った。

「……お前、なかなかいいな。警察庁受けてみる気はないか? 若しくは警視庁でもいい。案外取り調べに向いてそうだ」

「へっ? い、いや! 私は……」

 慌てふためくナツメさんを見て、イロハさんが笑う。

「冗談だ」

「……じょ、冗談なの? もう、心臓に悪いわ……」

 げんなりするナツメさんを見て笑うイロハさんは、とても美しかった。

 その横顔に、私は小さく呟く。

「でも、ちょっとイロハさんの下で働いてみたいかも……」

「ミオちゃん?」

「あ……いや、なんていうか、厳しそうだけどちゃんと面倒見てくれそうだなって」

 ちょっとしゅんとした私を見て、イロハさんが目を開く。

「なんだ。もしかしてお前、転職を考えてるのか?」

 図星を付かれ、きゅっと唇を引き結ぶ。

「その……実は、今日……ここに来るまでは、私もイロハさんと同じくちょっと思ってました。仕事、辞めようかなって。でも、辞める勇気も持てなくて……」

「まぁ。どうして?」

「……それは……」


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