「……イロハさん」
イロハさんは厳しい顔つきで、ナツメさんを見つめていた。
「初めに自分を偽って友人関係を築いたのは、他でもないお前自身なのだろう。それならば、皆の思うお前がたとえ偽りの姿だとしても、最後までそのうそを貫き通すのが筋というものだ」
「それは……」
水温が数度下がったような気がした。
ナツメさんはわずかに頬を赤くして、俯いた。イロハさんに対して萎縮しているように見えた。
その姿が職場でのじぶんを見ているようで、私まで悲しくなってくる。
「ちょっとちょっとイロハっち! そんな言い方しなくてもいいじゃん!」
重い空気を壊してくれたのは、ハルさんだった。
「みんながみんな、イロハっちみたいにズバズバ本音を言えるわけじゃないんだよ」
しかしイロハさんは、ハルさんの言葉に眉をひそめた。
「言えないんじゃない。言わないんだろう? 周りにきらわれることを恐れて」
その瞬間、ナツメさんがかすかに表情を変えた。パッと顔を上げ、イロハさんを睨むように見つめる。
「……そうよ。言えないの。きらわれたくないから。それのなにが悪いの?」
震える声で小さく、しかしたしかにナツメさんはイロハさんに言い返す。すると、イロハさんが鼻で笑った。
「くだらない。他人にどう思われるかなんて気にしていたら、社会では話にならない。仕事も勉強も、スポーツだって、すべてが競争で成り立っているのだから」
それは、たしかにそのとおりだ。
だけど、社会がそうであるからといって、みんながその波に乗れているかといえばそうではない。
その競争が苦手なひとも少なからず一定数はいるのだ。
私や、ナツメさんみたいなひとが……。
じぶんが言われたような気になり、心が沈む。
「…………」
ナツメさんは黙り込んでしまった。
「でもま、イロハっちの言いたいことも分かるけどね。ライバルがいればいるほど、やったるぜ! って燃えるし」
負けるとめちゃくちゃ悔しいけどなーと、ハルさんがにっと笑ってイロハさんを見上げる。
どうやら、ハルさんもこの意見には同意らしい。
ハルさんはからっとした笑みを浮かべて、私とナツメさんの周りをくるくると泳ぐ。彼女なりに気を遣ってくれているのかもしれない。
「……あなたには、悩みとかないの?」
ナツメさんがイロハさんに訊く。すると彼女はやはり「くだらない」と言って笑った。
「悩んでいる暇があるなら、ほかにやるべきことがあるだろう。周囲にどう思われているか気にして悩むなど、時間をドブに捨てているようなものだ」
そう力強く言い捨てて、イロハさんは洞窟の奥へ行ってしまった。
「…………警察庁に勤められるようなエリートのイロハさんに、私の気持ちなんて分からないわ」
ナツメさんが、イロハさんの背中に向かってぽつりと呟いた。
イロハさんはナツメさんの声は聞こえなかったのか、こちらを振り返ることはなかった。
「まあね……そうだよね。いやでも、イロハっち、さすがだわ〜。私もイロハっちを見習いたいや」
魔力主義のこの世界では、魔力が強ければ強いほど権力を持つ。
現在のトップは鬼の一族だと聞いたことがある。つまり、白鬼であるイロハさんは生まれながらのエリートだ。
現に、彼女の背中は絶対的な自信にあふれていた。
けれど……気のせいだろうか。その背中は、とても寂しそうに見えた。
「あの、私……イロハさんのところ、先に行ってますね」
「えっ? ミオりん?」
不思議そうな顔をするハルさんを振り返る。
「私も……その、ナツメさんと同じで、競走とかそういうのは苦手で、いつもひとの目ばかり気にしてしまうタイプで……だから、ちょっとイロハさんのことは苦手っていうか……最初怖いなって思ったんですけど……でも……イロハさんって、生まれながらに高貴なかたで、エリートじゃないですか。周りからの期待もすごくて……どちらかと言うと、ナツメさんと似た境遇のひとですよね」
ナツメさんがハッとした顔をする。
「それは、そうね……」
「だから、もしかしたらイロハさんも……強がってるだけで、本当はだれにも頼れなくて、本心を言えなくて、でも、期待されてるから無理しなきゃいけなくて……頑張ってるんじゃないのかなって」
生まれが偉大なひとの苦労は、凡人の私には分からない。だから、私の感じた思いは間違っているかもしれない。
でも……あの背中は、とても寂しそうで、儚げに見えた。今、彼女をひとりにしてはいけないような気がした。
……と、思って、水を掻き分けて必死に泳ぐのだけど、景色は一向に変わらない。
――そうだ。私、泳げないのだった。
だが、ただ漂うだけでは先に行ってしまったイロハさんには追いつけないし、今は無茶でも泳ぐしかない。
ばたばたと手足を動かすが、そうこうしているうちにイロハさんの姿は暗闇の向こうに溶けて見えなくなってしまった。
「むぐぐっ……」
私の行く手を阻むように、いくつもの泡がはじける。
次第に息が切れ始めた。
――どうしよう。
これじゃあイロハさんには追いつけない。
途方に暮れていたときだった。
「……キミ、もしかして泳げない子だね?」
いつの間にか、ハルさんが私のすぐ横にいた。呆れたように私に問いかけてくる。
「う……運動は、ハイ。ちょっと苦手です」
「ちょっとではないよね。うん、まぁいいや。仕方ないよね」
手伝うよ、とハルさんが私の手を取り、泳ぎ出す。ぐんっと、一瞬にして景色が流れていく。
「わっ! すっ、すごい、早いです!」
「そりゃそーよ。私、これでも人魚だからね。もっと早くだって泳げるよ!」
泳ぐ快感を初めて味わった私は、思わず感動で声が出た。
「いいなぁ……海の中でこんなに早く泳げたら、きっと気持ちいいんでしょうね……」
私には、ハルさんのような美しいひれはないし、運動神経もないからきっと一生無理だろうけれど。
「結局、隣の芝生は青く見えるってことなんじゃないかな!」
「え?」
となりを見ると、ハルさんが穏やかな笑みを浮かべていた。
「私もミオりんと同じ。ミオりんは、足のひらで砂を踏む感覚ってどんな感じだろうって想像した私と一緒なんだよ」
「……そっか」
じぶんにとっては当たり前。でも、ほかのひとにとっては特別のもの。
私たちはわがままだ。ないものねだりばかりしてしまう。
「……たしかに、そうかもしれませんね」
「私も手伝うわ」
ハルさんと繋いでいないほうの手を、ナツメさんが握った。ナツメさんの背中には、半透明の羽根が付いている。その羽根がひらひらと動くたび、銀色の
「わ……きれい」
思わず漏れた言葉に、ナツメさんがふっと微笑む。
「ありがとう」
「あ、いえ! こちらこそ、ありがとうございます」
礼を言うと、ナツメさんは優しく微笑んだ。
「元はと言えば私のせいだし……。それに、ミオちゃんに言われて気付いたけど、イロハさんにもイロハさんなりの悩みがあるのよね」
「ナツメさん……」
「私もイロハさんのこと、放っておきたくない」
「あのひと、弱音とか吐くの下手そうだもんな〜。そのくせプライドだけは超高そうだし」
「ふたりとも……」
なんて優しいひとたちだろう。
「……ナツメさんの印象、やっぱり間違ってました」
「え?」
「ナツメさんは容姿だけでなく、心までとってもきれいなかたです」
ナツメさんの頬が、ぽっと薄紅色に染まる。白い肌に浮かぶ薄紅色は、まるで幻の花のように美しい。
「……ありがとう」
「おや。なっちゃんが照れてる」
「……ミオちゃんの言葉ってまっすぐでうそがないから、素直に受け入れられちゃうの。不思議ね」
「え、そ、そうですか?」
「分かる。悪意がないっていうか。初対面なのに、無条件に信じたくなるんだよ」
ふたりの言葉に、胸がきゅっとなる。
「そんなこと、初めて言われました……」
「うそ? みんなそう思ってると思うよ。わざわざ口にしないだけでさ」
「そうね。だからつい、こうやってかまい過ぎちゃうのかな」
「かまい過ぎちゃう……」
そうなのだろうか。
とろくて不器用な私は、いつも職場の先輩たちに怒られてばかりで、すっかりきらわれてしまっていると思っていた。
――でも、もしかしたら。もしかしたら、先輩たちは私を育てようと……助けようとしてくれていた?
涙が滲んで、私はぎゅっと目を瞑った。目を開き、ふたりを見る。
「……だれかに自分を見せるのは、こわいです。否定されるかもしれないと不安になります。でも……今日こうしてナツメさんやハルさんや、イロハさんと出会えて、みなさんのことを知ることができてよかった。もっと知りたいって思います」
「……ほんと?」
「はい!」
「……ありがとう」
恥ずかしそうにはにかむナツメさんに、ハルさんがにっと歯を見せて笑う。
「私も、ふたりに出会えてよかった! この夜があってよかった」
本当に、この夜があってよかった。この夜がなかったら、私はきっと、職場の先輩たちの優しさに、愛情に気付けないままだっただろう。
落ち込むのも、案外悪いことではないのかもしれない。
「さて、イロハさんのところに行きましょう」
「……そうね」
私たちは光るクリスタルの花畑を抜け、さらに先へ進む。
そしてイロハさんのいる洞窟の奥へと向かった。