「――さぁて、到着!」
洞窟の中は、一面青色に光っていた。
――これは、なんの色なんだろう。
疑問に思ってその光を眺めていると、ハルさんが教えてくれた。
「その光はね、ウミホタルっていう生き物なの」
「ウミホタル……」
「これは見事だ」
「きれい……」
「海には……こんなにきれいな生き物がいるんですね」
ほう、とため息が漏れる。
神秘的な空間に、それぞれ無意識に声を漏らした。
淡い青色の光を見つめたままぼんやりと佇んでいると、ハルさんに手を取られた。
「ねー、きれいだよね。でもこの子たちは、私たちを楽しませるために光ってるんじゃないんだよ」
「え?」
「そうなのか?」
「うん。この子たちは、敵を威嚇するために光ってるんだ。もしかしたら、私たちを警戒してるのかもね」
「へぇ……」
「……そうなんですか」
生き物って不思議だ。
淡い光をそっと両手で包むように掬うと、発光が強くなった。
「大丈夫。怒らないで。私はなにもしないよ」
そっと呟くと、光が少し弱まったような気がした。気のせいかもしれないけれど。
「さっ、こっちだよ」
ハルさんに手を引かれ、そろそろと奥に進む。
まるで、見えない結界があるようだった。
――どぷんっ。
入った瞬間、世界が、いや、それまでの常識がぐるりと変わる。
そこには、この世とは思えないほど神秘的で鮮やかな
洞窟は、水の中に沈んでいた。
それなのに、息ができる。目の前を、たくさんの色鮮やかな魚の群れや、イルカたちが通り過ぎていく。
まるで、自分が魚になったかのような感覚になった。
「なんだこれ……人魚の魔力が強いことは知っていたが、まさかここまでとは」
戸惑いの声を漏らしたイロハさんに、ハルさんが得意げに言った。
「ま、海は人魚の
「すごいわ……なんだか、夢を見ているよう」
「あはは。夢だなんて! フェアリーにそんな言葉をもらえるとは光栄だよー」
ハルさんが不思議な空間をすいっと優雅に泳ぎながら、仰向けになって目を閉じた。
いつの間にか彼女の姿は、人間の女の子から、銀青色の髪とうろこを持った人魚の姿に変わっている。
「すごい……」
ハルさんの身体はしなやかで、水の中をすいすいと自由自在に泳いでいる。
ヴェールのような半透明の尾びれがひらひらとなびく姿は幻想的で、夢でも見ているかのようだった。
――いいなぁ……私もできるなら、あんなふうに。
そう思って、私もハルさんのように泳いでみようとするけれど、泡が生まれるだけで上手く前に進まない。
すると、「無理に泳がなくていいんだよ」と、ハルさんが笑った。
「私ね、いやなことがあったときとか、寂しくなったとき、いつもここにくるの。ここはどんなときでも、どんな私でも受け入れてくれるからさ。だから、ミオりんはミオりんのままで大丈夫なんだよ」
――どんな、私でも……。
「……はい」
泳ぐことをやめて、水の流れに身を任せてみる。
ハルさんの言うとおり、ゆっくりだけど私の身体はちゃんと流れに乗って、先へ進んでいた。
「ねっ?」
「はいっ」
ふうっと息を吐くと、自然と身体から力が抜けていく。それで自覚する。
私は少し、力み過ぎていたのかもしれない。
「私ね、ずーっと人間に憧れてたんだよ。だから、頑張って魔法の勉強して、人魚をやめて陸に来たの」
「……どうして? ハルさんはどうして、人間に憧れたんですか? 人間なんて、人魚と違って魔力もなにもないのに……」
「まあ、それはたしかにそうだけどさ。でも、ミオりんは、私にはない足を持ってるでしょ?」
「足?」
「そ。足。だから、憧れたんだ」
「へぇ……」
私にとっては、広い海の中で自由に優雅に泳げる人魚のほうが、よっぽど羨ましいのに。
「私ね、高校ではね、念願の陸上部に入ったんだ!」
「陸上! すごいです。ハルさん、足速そうですもんね!」
「うん! ずっとやりたかったことができてて、今はすごく楽しい! ……だけど、たまにちょっと寂しくなるんだ。海の世界が、海のみんなが恋しくなる」
ハルさんは、ほんの少し声のトーンを落としてそう言った。
分かる気がする。
「ま、好きなことやってるだけなのにって、みんなには思われるかもしれないけどね」
わがままだよね、と自嘲気味な笑みを漏らすハルさんに、私はぶんぶんと首を横に振る。
「……そんなことないですよ。好きなことをやっていたって、辛いときはあります。好きだからこそ、周りと比べて落ち込んだりとか……」
私の周りを行ったり来たりと忙しなく泳ぐ魚たちを見つめながら、ぼんやりと思った。
コツン、と音がした。
驚いて振り向くと、私のすぐそばにナツメさんが立っていた。
「……うん。その気持ち、私も分かるわ」と、ナツメさんが静かに頷いた。
「ほんと?」と、ハルさんが嬉しそうに訊く。
ウェービーなセミロングの髪は透明感のある黒色で、長いまつ毛に縁取られた瞳は憂いげに伏せられている。
――きれい。
初めて見たときも思ったが、ナツメさんはとてもきれいなひとだ。
雪女も、妖精も、容姿端麗の種族だと聞く。そのハーフともなると、やはりその美しさは別格だった。
魅入っていると、ぱちりと目が合った。
ハッとして、慌てて前を向く。すると、ナツメさんがくすりと笑った。ちらりと目を向けると、その笑みは思いのほか柔らかくて驚いた。
ナツメさんは私のとなりに佇んで、魚を見つめたまま、言った。
「……私、よく誤解されるの」
現在大学三年生だというナツメさんは、雪女と妖精のハーフということから、容姿がとても整っている。
そのせいか、周りに勝手なイメージを持たれがちで、自分を偽る毎日を過ごしているという。そんな日常がたまに息苦しくなると、ふらりと見知らぬ街に来て、海辺や森を散歩したくなるらしい。
「私、あまり笑わないし口数も少ないから……よく、冷たいひとって思われる」
「あぁ〜たしかにね。きれいなひとって、笑ってないとツンとしてるって思われがちだよねぇ。美人あるあるってやつ?」
「……でも本当は違う。ただ人見知りだから……上手く笑えないだけなの」
「わ、私も人見知りなので、その気持ちはすごくよく分かります!」
共感して大きく頷く私を見て、ナツメさんは優しく微笑んだ。
「家ではよくお笑いを見て、笑うのだけど」
「えっ!?」
「ナッちゃんお笑い好きなの!? 意外過ぎ〜!!」
ハルさんがけらけらと笑う。そんなハルさんを見て、ナツメさんはわずかに眉を寄せた。
「お笑いは好き……だけど、大学の友だちはみんな私を大人しくて上品な子って思ってるから、イメージと違うって思われるのが怖くて……お笑いの話とかできない」
「あぁ……」
ハルさんが頬を掻く。
「分かるー……イメージ作られちゃうと、本音とか話しづらいよねぇ。私も顧問からよく、お前は叩いて伸びるタイプだからとか勝手に決め付けられて、結構厳しく言われるんだ。男友だちからも女の子扱いされなかったり……でもそれ、いやって言えなくて。空気壊すし」
ひとは、それぞれ勝手にイメージを抱く。
たとえば、ハルさんは元気で無邪気な女の子。
ナツメさんはきれいで物静かなお嬢様。
イロハさんはまっすぐで強いひと。
私が今抱いている三人への印象だ。
でも、それはきっと間違っているのだろう。
ハルさんは、緊張とか萎縮とかとは無縁のムードメーカーだから、周りは少しくらい悪ノリしてもいいだろうとか、雑に扱ってもいいだろうとか思って接されがち。
本当はそんなことはない。
ハルさんだって、周りと比べられたら落ち込むし、からかわれたりしたら傷付く。なんでもないふりをして、笑っているだけなのだ。
ナツメさんだってそう。
外見に恵まれていて、みんなから羨ましがられる。みんなに優しくしてもらって、愛されている。だけど、だからこそみんなからの期待に応えなきゃいけないと思って、本当のじぶんを出せないでいる。
好きなことを好きとすら言えない。もしイメージと違ったら、じぶんを愛してくれるひとたちを裏切ることになってしまうから。
――気付かないうちに、私もそうしてしまっていた。
そのひとのなにも知らないというのに、服装とか声のトーンとか、肩書きなんかで勝手に人物像を想像する。
そして、自分が構築したそのイメージが崩れると、ギャップを感じる。ときにはそれがマイナスに働いて、裏切られたと思うこともあるかもしれない。
「私は、好きなものを好きって言えない自分がきらい。勝手なイメージを押し付けてくる周りがいやになることもある。……だから、日常に窮屈になったとき、こうやって宛もなくひとりで散歩をする。私のことをだれも知らない場所に行きたくなる」
ナツメさんの言いたいことは、とてもよく理解できた。
私も、すぐ落ち込むじぶんがきらい。不器用なじぶんがきらい。言いたいことを呑み込んでしまうじぶんが、だいっきらい。
変わりたいけど、変わるのは怖い。
周りに変な目で見られるかもしれないと思うと、足がすくんで動けなくなってしまう。
だからつい、我慢してしまう。
けれど、その我慢はいつまでもは続かない。埃のように心に降り積もって、いつか、キャパを超える。
その我慢が限界になったのが、今夜だった。
だって、家に帰ったら、また諦めてしまうから。
家に帰りたくなかった。いつもと同じようにお風呂に入って、ベッドで眠れば、また、いつもと同じ朝が来てしまう。
だから、バスを降りることができなかった。
ふと、ナツメさんのそばに、小さな生き物がふわふわと近付いてきた。
「可愛い……」
「クリオネ? 初めて見ました」
「私も」
ナツメさんはひっそりとした笑みを浮かべて、クリオネを両手で包んだ。
「あなた、もしかして慰めてくれてるの?」
クリオネはふわふわとその場で漂って、ずっとナツメさんから離れない。
「わぁ……可愛いですね。ナツメさんに懐いてるみたい」
ナツメさんの心に共鳴しているのかもしれない。ハルさんとナツメさんと、三人で海の妖精に和んでいると、
「――くだらない」
水を割くような鋭い声がした。と同時に、どろり、とその場で凝っていた水が動いた。