そこには何が広がっていただろうか。生い茂る草木と石造りの壁、その上に敷かれた赤っぽい土。
田舎に帰ってきた。キラキラとした都会に澄んだ瞳を向けて塗りつぶした青春の象徴。あまりにも青臭いあの風土。そんな地にもう二度と帰るつもりはないと心にまで誓っていたものの帰らずにはいられなかった。
あの日々の出涸らしを味わいながら景色に目を落とす。冗談を言い合っていた友だち、走り回り教師に怒られても反省することなくただ教室を戦場へ、ごっこ遊びの競技場へと変えていたクラスメイト。それを馬鹿馬鹿しいと蔑むことで悦に浸っていた自分自身。
結局のところ青臭かったのは他ならぬ自分、この中の誰も彼も。そんな知りたくもなかった事実を社会に出ることで思い知らされた。
電車はいつもにましてゆっくりと進む、いつもとは比べものにならないほどスムーズに進んでいた。何もかもが電車の意のままに、人々が降りる時間さえ後れを取るには足らないということ。
それほどまでに事故も予想外も割り込んでこないそこで郷雄はただ肘をついてあくびを噛み殺しながら外の景色に目を移す。
そこは昔から何も変わらない。変わっているということさえ思い至らせない、そんな田舎。
やがて電車が動きを止める。流れるように視界に映り目の許さないところへと移りゆく文字を追って頭は理解した。
目的地へとたどり着いたのだ。
理解を視界の表層にまで浮かせて腰を浮かせる。立ち上がるその時の感覚がこの上なく心地悪い。
あれほどまでに帰りたくないと思っていたそこへと戻ること、未だに抜けきれない思考は癖になって足を引っ張り腰を下ろそうとする。そうした想いの圧に耐えながら、そうした想いを絶やしながら電車を降りて歩みを進める。
見渡す限り広がる田畑、その半分以上は赤い土で覆われていた。
作物は作っていないのだろうか。
疑問を頭に浮かべて回し続ける郷雄に対して態度を変えることもない赤っぽい田畑の真ん中に添えられたついで程度のメインディッシュ。その正体は見るからに人。
そこにある姿、それこそが郷雄を迎えに来た男のものだった。
「よお久しぶりだな、郷雄から街雄にでも進化できたか」
訊ねて来たこの男、それこそがあの青臭さの鮮度が高かった青々とした高校時代の友人。
「いつまでもここに住んでるつもりか、茂」
その男の名は茂という。これまでもこれからも初めて会う人物からは苗字だと思われるであろう。そんな彼の顔は五年という時間を経ても変わりが見えない。まさに進歩というものを知らない、育つことさえ知らないあの頃のままの友人だった。
「いいじゃないか、俺は快適で好きだぜ、血の繋がった家政婦がいるような印象だ」
話しても諭しても変えようのない性格、こればかりはどのような色をした努力でも変えることができない。底にこびりついたカビのような性格をした彼を今でも変わらない目で見るだけ。
結局のところ郷雄も人として大して変わることができていない、そう結論をつける他なかった。
「それでどういう用事なんだこんなとこまで」
「親にたまには顔を見せろと言われた」
そう、この里帰りは親の言いなり。所詮は従っているに過ぎなかった。親の意図で糸を、寂しさの鎖を巻き付けられ縛られているだけのことに過ぎなかった。
そんな中で茂は笑いながら郷雄の肩を叩いて豪快な声を交わらせていく。
「いいことじゃないか」
この男に褒められたからといって何があるのだろうか。心の動きは何処までも穏やかと錯覚してしまうほどに冷め切っていた。
そんな郷雄の顔を覗き込み、無邪気の文字以外に表しようもない幼子色のニヤけを見せつけながら茂はひとつの提案をその手に収めて差し出した。
「親だけじゃ折角こんな田舎まで帰って来たのにもったいないだろ。ひとつ遊ぼうぜ」
いったい何をしようというのか、つかめない。彼の考えはいつの間に遠くまで行ってしまったのか。なにひとつ分かることができない迷いの霧が辺りを覆い尽くした。
「近くの神社の奥にな、古い祠が新しく見つかったんだ」
その言葉の意味することは郷雄にも理解できた。変わっていないように見えるこの田舎の中でも変化はあるのだと。
そこから断る時間も返事を述べる隙も与えずに茂は差し伸べた手でそのまま郷雄の手をつかみ取り、否応無しに引っ張ってみせた。
親に顔を見せて退散しようと考えていた頭は観念を得た。これ以上断ろうとしても無理がある。
結論はすでに草木となって芽生えていた。
歩かされ、進まされ、たどり着いたそこは見覚えしかない風景。入り口の見えない扉を思わせる空っぽの入り口の鳥居、石造りの灰色の入り口に同じ色をした玄関を思わせる道が伸びていて青空と深緑のカーテンが神社の姿により一層深い非日常感を与えていた。一見して昔となにひとつ変わりを見いだすことのできない風景を揺らす風に激しく揺られた手が導いていた。
「向こうだ、あっちにある」
茂の言葉と身体の示すまま、森のざわめきでは掻き消しきれない存在感に意思を持って行かれた。
砂埃が風に撒かれて視界に不快な揺らぎを作り上げる。舞う葉は集中力を見事に奪い去って自らの演舞を見せつける。
石のカーペットの外側へ、手水舎を右の視界に擦り付けながら進む。その先に待ち構えるものは本殿の迫力を強める緑の背景。大きなそれは賽銭を集める神の居城を囲んでいながらも決して本殿よりも目立つことのない自然の不思議を体現した存在だった。
やがて木々の幕の向こう側へ、自然という人の手で支配することなど叶わない美しさへと飲み込まれていく。支配できないからこそ森のどこかに小さな祠が眠り続けていたのだと、それを頭の中でしっかりと唱えて意識に塗り付ける。
進んで潜って木々の海の底へ、上へ上へと明るみをもたらす空の近くへと足を進め続けていく。
手をつかむ手、そこに込められた力は森の傾斜が厳しくなっていくとともに強くなっていた。
湿り気を纏った空気は森の香りと混ざり合いながら郷雄の鼻と口を通り抜けて身体の中へと、更に肺の中へと、生きた独特の鼓動を送り込む。
一見するとただ美しい味わいと香り、しかしながらその中に何故だか不穏な気配を感じざるを得なかった。美しい中にも宿る残酷、綺麗な言葉だけでは語り尽くすことのできない自然の脅威、そういった至極まともなものではなかった。
訴えかけてくるのだ。森の中に収まる気配が、ずっとずっと隠され忘れ去られてしまった禍々しい気配が緑豊かな地を這いずってその手を伸ばしてつかんでくるのだ。
肺が満たされる。暗い影に溺れてしまう。息苦しさ、早まる鼓動、全てが喉を通る空気を水に変えているようで、ほろほろと緩やかに崩れる地面に膝をついてしまいそうになった。
「情けない、立てよ」
脚の不安定な様は茂にも伝わってしまっていた。それはもう鮮明で透明な事実を。
「もうすぐ着くからよ」
気がつけば子どもだと内心で見下していた人物に励まされていた。
それから数十分にも感じられるひと時を乗り越えて、時の経過に相応しいだけの歩みを刻みつけられたかどうか、迷いを抱きはするもののそこは自身の行動、己の歩んだ道を信じて進んだ。