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エピローグ

 下山しながら、楊は異様な身体の気だるさに襲われていた。全身が鉛になったようだ。

 足元がふらふらとおぼつかない。妙薬を得るために京の山を巡った疲れが出たのだろうか。

 そういえば、大蛇の棲家は霊山だった。あやかしの気配も多かったし、もしかしたらなにか悪い妖気に充てられたのかもしれない。

 従者をつけてくればよかったのだが、一刻も早く薬を礼葉へ渡したかった楊は、九条家へはひとりで来ることを選んだ。

 溶岩がごろごろと転がる道に差し掛かったところでふと、足が沈むような感覚に陥る。もはや歩けそうにない。

 楊は、ひとまず岩陰で休むことにした。

 岩に寄りかかり、しばらくうとうとと船を漕いでいると、ふと、さわさわと木の葉が風に擦れる音が耳についた。

 ――木? 近くに木などあっただろうか。

 ふと気になって、ゆっくりと目を開ける。視界の端で、なにかが光った。

 ひゅん、と風を切る音がして咄嗟に身を翻すと、肩になにかが刺さっていた。

 枝だ。でも、いったいどこから。

 周囲を見るが、あちこち転がる岩に鋭い日差しが反射しているせいで、状況がよく見えない。

 次第に、枝が突き刺さった肩がじんじんと痛み出す。枝から妖気を感じる。

 あやかしの仕業であることに間違いなさそうだ。

 楊は小さく舌打ちをした。

「くそ……」

 こんなときにあやかしに遭遇するとはついていない。

 肩に刺さった枝を乱雑に引き抜くと、楊は集中して音を聞く。楊は今、なんらかの原因で視界がぼやけている。いくらか目眩もあった。

 今は視力に頼るより、聴力に頼ったほうがいいだろう。と、思ったのだが。

 痛みのせいで、耳さえ遠くなっているようだった。

 肩は、異様なほどの痛みを覚えていた。やはり、なにか術でも施されているのだろうか。

 ぐらり、と足元が揺れた。楊は地面に片膝をつく。

 さわさわ、さわさわ。

 風の音か、あやかしの囁きか。今の楊では、それすら判断がつかない。

 そのときだった。

「――死ね」

 はっきりと、その言葉だけ聞こえた。直後、とてつもない衝撃が、楊の身体を駆け抜けた。

 なにかに貫かれたのか、と思ったが、一向に痛みがやってこない。

 どういうことかと思っていると、身体全体が浮遊感に包まれた。

 目を開くと、美しい黄金色の毛並みが目に入った。

「ご無事ですか、楊さま」

「え……」

 耳を撫でたのは、愛しいひとの声。妻である礼葉の声だった。

 ――いや、そんなわけはない。だって、礼葉の姿はどこにも見当たらない。

 状況が分からず混乱していると、遥か下のほうから舌打ちのような声がした。

「妖狐め。邪魔をするな」

 見ると、先程まで楊が寝ていた場所に、黒い影が見えた。

 おそらくあやかしだが、視界がぼやけて姿かたちはよく分からない。

「あなたは、何者?」

 楊を背負っている獣のあやかしが、影に問う。

「お前に名乗る必要などない」

「なら、このひとは渡さない」

 影が舌打ちをした。

「それは祓い屋だ。かつて、わしの子を祓った忌々しい奴……。お前もあやかしなら、わしの気持ちが分かるだろう。その男を庇ったところで、お前も祓われるだけだぞ。分かったらその人間を寄越せ」

 影は楊を睨みつけたまま、憎々しげな口調で言った。

 やはり影は、祓い屋である楊の命を狙っていたらしい。

 朦朧とする意識の中で、楊は獣に言った。

「俺を下ろせ。このままでは、君も狙われてしまうぞ」

「いやです」

 にべもなく、返された。

 楊は困惑する。

「君もあやかしだろう……? あのあやかしの言うとおり、俺は祓い屋だ。あやかしを祓うのが仕事だ。それなのに、なぜ俺を助ける……?」

「それは……」

 凛とした、どこか聞き覚えのある声を遠くで聞きながら、楊はゆっくりと意識を手放した。


「――楊さま。楊さま」

 波が砂浜へ優しく押し寄せるように、楊はゆっくりとまどろみから覚醒した。

 目を開けると、まず目に入ったのは、礼葉の顔だった。心配そうな顔で、楊の顔を覗き込んでいる。楊はゆっくりと身を起こし、何度か瞬きを繰り返した。

 見知らぬ天井。どこか懐かしい香り。

「ここは……」

「楊さま。よかった、ご気分はどうですか?」

 身を起こすと頭を鋭い痛みが巡り、楊は一瞬よろめいた。その背中を、礼葉が支える。

 次第に意識がはっきりしてくる。楊は布団の上にいた。後ろから礼葉に抱き締められる形で、支えられながら座っている。振り返ると、すぐ近くに礼葉の顔があった。

「そうだ。俺は下山中にあやかしに襲われて……なんで礼葉がここに?」

「ここは私の家ですよ。天狗を追い払ったあと、この家に運びました」

「天狗……」

 楊を突然襲ってきたあの影は、天狗だったのか。と、そこまで思い出して、ハッとする。

 肩を見ると、傷口には丁寧に包帯が巻かれていた。わずかに消毒の匂いがする。

「手当ては、君が?」

「はい。楊さまが先程くれた大蛇の鱗をすりおろして傷口に塗りました。じきよくなると思うのですが」

 すべてを思い出し、楊は訊ねた。

「もしかして、さっき助けてくれたあやかしは……君なのか?」

 楊はまっすぐに礼葉を見つめる。その視線に、礼葉はわずかに唇を引き結んでから、こくりと頷いた。

「……私の正体は、妖狐というあやかしです。もともと父、九郎に拾われ、姉の礼葉とともにこの家で育てられました。そして……十五のとき、楊さまとの縁談が持ち上がって、病弱な姉の代わりに、私が嫁ぎました。……ずっと騙していて、申し訳ありませんでした」

 楊はわずかに驚いた顔をしつつも、

「礼葉が姉、ということは、君は……」

「彩葉です」

「……しかし、それならなぜ、縁談を断らなかった? 祓い屋のもとへ嫁ぐなんて、気が休まらなかっただろう。もしかして、両親は君の正体を知らなかったのか?」

 礼葉――彩葉は首を横に振り、

「いいえ、知っていました」

 と、答える。

「なら、なぜ……」

「家族のためです。両親は花嫁姿を見たがっていましたし、それに、縁談を断ってしまえば礼葉が気を揉みます。だから、代わりに私が」

 楊はため息を漏らす。

 ――家族。

 彩葉の口癖だ。

 花嫁姿を見せるためだけに、彩葉は命懸けの婚姻をしたというのか。

 楊は彩葉を複雑な思いで見つめる。

「家族家族と……君はいつもそればかりだな」

 言ってから、口を噤む。まるで子供のような口ぶりになってしまった。

「家族を大切に思うのは当然のことじゃないのですか?」

「それなら俺は、家族ではないのか?」

「…………それは」

 言葉につまる彩葉を見て、楊は苦々しい顔をした。

「……いや、すまない。今のは忘れろ」

「……楊さまを、ずっと騙していたことに罪悪感はありました。ですが、話せば殺されるかもしれなかったので、どうしても言えなかったのです」

「……そうだな。俺も、あやかしを嫁にしたことが露見したら、仕事に支障が出てしまうかもしれない」

「はい。ですので、離縁を……」

「……なぜ、俺を助けてくれた?」

「え?」

「さっき、なぜ俺を助けに来てくれたんだ? 離縁を拒んだ俺は、彩葉にとって邪魔でしかなかっただろう? ここで死んでいたほうが、むしろ彩葉にとっては都合が良かったんじゃないか」

 今さらなのですが、と彩葉は前置きしてから、

「楊さまのことを、愛していました」

 と、小さな声で言った。

 楊は思わず彩葉へ目を向けた。

「愛……してるのか? 俺を?」

「……はい。むしのしらせのようなものがあって、もし楊さまになにかあったらと考えたら、いてもたってもいられなくなって――」

 話を遮って、楊は彩葉を抱き締める。彩葉は驚いて、身を固くした。布越しにゆっくりと楊の体温が伝わってきて、彩葉の体温もゆっくりと上昇していく。

「よ、楊さま、離してください」

「いやだ」

 腕の中で身動ぎをする彩葉を、楊はさらに強い力で腕の中に閉じ込める。

「……もう一度言ってくれ」

 楊は掠れた声で彩葉に言う。

「離してください?」

「違う。好きだと言えと言っているんだ」

「……いえ、あの……さっきはああ言いましたが、楊さまが祓い屋であることに変わりはありませんし……離縁の話は」

 おろおろとする彩葉を、楊は顔を寄せて覗き込んだ。目が合うと、彩葉は口を閉じた。顔を近付けたまま、楊は言う。

「俺は、彩葉以外なにもいらない。祓い屋であることを理由に離縁をすると言うのなら、家を捨てよう」

「な、なにを言うのですか……!?」

 驚く彩葉に、楊は微笑む。

「愛してるから、君を離したくない。……結婚当初、俺は君にひどい仕打ちをしていた。今さら信じられないと言われても仕方ない」

「い、いえ……そんなことはありません。そもそも出会ったばかりの人間を信用しろなどと言うほうが間違っていますし」

「俺は……女はずっと、汚いと思ってきた。触れられるだけで、吐き気がした。だけど……君だけは違う。君にだけは、触れられる。触れたいと思う。俺には生涯君だけだ。君の代わりはいないんだよ」

「でも、私はあやかしです。ひとですらありませんし……時代も変わっています。きっとこの先、あやかしはどんどん幽世かくりよに帰っていくことでしょう。そうなればやはり、天月家の当主の妻に私は相応しくな……」

「そのことなんだが、彩葉。彩葉が妖狐だということを知っている人間は俺以外にだれがいる?」

「えっと……家族だけです」

「つまり、今は俺だけなんだな?」

 彩葉は少し考えてから、頷く。

「俺は、彩葉のことはだれより素敵な人間の女の子だと思っている」

「へっ?」

 彩葉が間の抜けた声を上げる。

「彩葉は人間。俺の最愛の妻だ。彩葉の肩書きはそれだけだろう」

「あ、あの……?」

 困惑した眼差しを向けてくる彩葉に、楊はため息混じりに告げる。

「……君の秘密は俺しか知らない。それなら、このさきもずっと隠し通せばいいだけだ」

「そ、そんな簡単に……! 私、おっちょこちょいなんですよ。うっかりしたらどうするんですか」

「幸い、俺にはあやかしの知り合いもたくさんいる。証拠隠滅に困ることはないよ」

 茶目っ気たっぷりに言う楊に、彩葉はとうとう笑みを見せた。

 久しぶりに見た彩葉の笑顔に、楊も思わず表情を崩す。ふたりのあいだに、穏やかな空気が流れる。

「……それで、いちばん重要な話になるんだが」

「はい?」

「これでもまだ、離縁したいと駄々をこねるか?」

 一瞬、彩葉はぽかんとした顔をした。すぐに我に返ると、

「駄々……いえ、こねません! 楊さま、私は……」

 楊が彩葉の手をぐっと引く。バランスを崩した彩葉は、楊の胸にもたれかかるような体勢になる。

 彩葉は息を呑んだ。

「あ、あの……楊、さま」

 楊は彩葉の手を掴んだまま、自身の背中に手を回した。自ずと彩葉は楊に抱きつくような姿勢になる。

 カチコチになる彩葉を見つめ、楊はにこりと微笑む。

「ごきげんよう、俺の花嫁」

「……へっ?」

 再び、間の抜けた声が出る。

「さっそくですが、離縁の件は撤回していただけますか?」

 どこかで聞いたようなフレーズだ。ふと、彩葉は離縁を申し出た日のことを思い出す。

 意趣返しをされたのだと気付き、彩葉は思わず苦笑した。まっすぐに楊を見つめ返し、言う。

「はい。離縁はいたしません」

 頷いた彩葉の唇に、楊は素早く口づけをした。

 甘い水音に、彩葉は耳まで真っ赤に染めて、楊を見上げる。

「よ……楊さま!?」

「誓いの口づけだよ」

 楊は涼しい顔をして、言った。

「そんな、いきなり……!」

「できれば、彩葉さんからも誓いの口づけがほしいんだけどな」

「わっ……私からですか!?」

「さんざん振り回されたからな。それくらいの誠意は見せて頂いてもバチは当たらないんじゃないか?」

「そっ……それはそうなんですけど……」

 わたわたとする彩葉を、楊は優しい眼差しで見つめる。

「冗談だよ」

 そう言って、楊はもう一度、最愛の花嫁に口づけをした。


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