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第7話

 実家に戻ってから、数週間が経った。

 涙も枯れ果てた頃、彩葉はようやく部屋を片付け始めた。家のあちこちに、両親や礼葉の生活の跡が残っている。礼葉が作っていた押し花や、父親の趣味の木彫りの鳥。台所に行くと、今でも母親の背中が見えるような気がしてしまう。

 がらんとした部屋を見るたび、枯れたはずの涙があふれ出してくる。

 涙を拭いながら遺品の整理をしていると、不意にほとほとと玄関の戸が鳴った。

「礼葉、いるか?」

 聞こえてきたのは、楊の声だった。もしや、礼葉を連れ戻しに来たのだろうか。一瞬出るか迷ったが、彩葉はそろそろと立ち上がり、玄関に向かった。

 戸を開けると、そこに立っていたのはやはり楊だった。

「礼葉。彩葉さんの具合はどうだ?」

 彩葉は楊を呆然と見上げる。

 そうか。そういえば、まだ姉が亡くなった報せを出していなかったのだった、と彩葉は今さらになって気付く。

 楊は続ける。

「実は、京の山には大蛇がいるんだが、その大蛇の鱗は万能薬なんだそうだ。時間がかかってしまったが、ようやく手に入れたんだ。すりおろして飲ませるといい」

 言いながら、楊は彩葉の手に紙袋をのせる。

「それから……この前は、無理に引き止めて悪かった」

 楊はそれから、さめざめとした様子で言った。

「たったひとりの妹を大切に思うのは当たり前のことなのに、俺はあまりに身勝手だった。ごめん」

「…………」

 ふと、黙り込んだままの彩葉に、楊が首を傾げる。

「礼葉? どうした?」

「……ました」

「ん?」

「死にました、昨日」

「…………」

 楊は黙り込んだまま、何度か瞬きを繰り返す。そして、ひそやかな声で言った。

「……そうか。それは……残念だった」

「……いえ。せっかく持ってきていただいたのに申し訳ありませんが、これはお返しします。もう、必要なくなってしまったので」

 そう言って、彩葉は紙袋を楊へそっと押し返す。戸を閉めようとすると、「待て」と楊が戸を押さえた。

「礼葉、少しだけ中に入れてもらえないか。彩葉さんをちゃんと悼みたいし……それに礼葉、少し痩せたんじゃないか? ちゃんと食べているのか? 握り飯くらいなら俺も作れる。よかったら……」

「すみません。まだ、いろいろと整理がつかなくて。今日はお帰りください」

 彩葉は楊の声に被せるようにして言った。

「礼葉」

 彩葉は引き止める楊を無視して、無理やり戸を閉めると、鍵を閉めた。そのまま、戸に背中をつけ座り込む。

 彩葉の両目の端から、再び大粒の涙があふれた。


 どれくらい、そうしていたのだろう。いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。

 また、夢を見た。

 満開の藤の木の下に、大好きなひとが立っている。礼葉だ。

 礼葉は見たことのない着物を着ていた。きれいな藤色の着物だ。それに、白い袴。まるで藤の花の精霊のようだと彩葉は思った。

「礼葉……!」

 彩葉は思わず駆け出し、礼葉に抱きついた。勢いよく飛びついた彩葉を、礼葉は優しく抱きとめる。

「礼葉、会いたかった!」

 しかし、抱き締めながら、彩葉は違和感を感じた。

 感触がないのだ。礼葉を抱き締めているのに、ぬくもりがない。礼葉の背中へ腕を回しても、力が入らない。

 礼葉はどことなく悲しげな眼差しのまま、彩葉を見つめた。青白い顔をしている。

「礼葉?」

 困惑したまま、彩葉は礼葉を見つめる。

「彩葉、ごめんね。せっかく帰ってきてくれたのに、ひとりにしちゃって」

 礼葉はそっと目を伏せ、彩葉から離れた。

「私、あなたには迷惑かけてばかり。あなたから、いろんなものを奪ってばかりだった」

「そんなことない!」

「でもね、彩葉、私、今はとてもすっきりしてるのよ」

「……どうして?」

「あなたにとってなにより大切な名前を返せた。それから、自由も」

 どうしようもないくらい、悲しくなる。どうしてそんなことを言うのだろう。それではまるで……。

「なによそれ。死んでよかったみたいなこと、言わないでよ」

「彩葉とのお別れは寂しい。だけど、身体が軽いの。呼吸が楽なの。こんなの初めてよ」

 礼葉はそう言って、その場でくるりと回転して見せた。その動きは、たしかに羽のように軽く見える。

「彩葉。私はただ、これ以上あなたに悲しんでほしくないだけ」

「そんなこと言ったって……」

 無理だ。最愛の家族を一度に亡くして、それを悲しまないなんて。

「私ね、彩葉にお願いがあるの。最後の最後まで頼みごとばかりで申し訳ないのだけど。だけど、これは私だけじゃなくて、お父さまとお母さまのお願いでもあるから、言うわね」

 礼葉は一度言葉を切ってから、言った。

「彩葉は、今までずっと私たち家族のために生きてきてくれたでしょ。だから、これからはじぶんのために生きて。彩葉の人生を生きるのよ」

 思いもよらないことを言われ、彩葉は困惑する。

「ねぇ、よく考えてみて。あなたにはまだ、大切なひとがいるじゃない」

「大切なひと? いないよ、そんなの」

 首を振る彩葉を、礼葉は優しく見つめる。

「いるわ。楊さまよ」

 彩葉はハッとした。

「楊……さま?」

「そうよ。今の彩葉の家族は、楊さまでしょう?」

「そ、それは違うわ。お父さまやお母さまが死んで、私はあの家にいる理由がなくなった。私はもう、楊さまとは離縁するの。他人になるの」

「まだよ。まだ愛は残ってるでしょう」

「愛……?」

「そうよ。彩葉はまだ楊さまを愛しているし、楊さまも彩葉を愛してる。でなきゃ、離縁した妻のために、九条の実家までわざわざ妙薬を届けになんてきてくれないわ」

「そ、それは礼葉のためであって……」

「違うわ。彩葉を取り戻したいからよ。私が元気になれば、きっと彩葉は安心して戻ってきてくれると思ったのよ。楊さまって、とっても可愛いところがあるのね。噂では冷酷なひとだと聞いていたけれど、ぜんぜん違うみたい」

「……楊さまは優しいわ。でも……」

 ふと、ふたりを囲んでいた藤の花が淡く輝き出した。ぽうぽうと光るそれは、消えそうで消えない。次第に、礼葉の身体も輝き出した。

「もうそろそろ、時間みたい。行かなきゃ」

 礼葉が言う。

「行くって、どこへ?」

「お父さまとお母さまのところよ」

「そんな……お願い、待って。もう少しそばにいて」

 思わず手を伸ばすが、彩葉の手はもはや、礼葉に触れることはできなかった。まるで煙に映る幻に手を伸ばしているかのように、掴もうとすればふっと消えてしまう。

「彩葉、最後にひとつ忠告よ。楊さまを追いかけて」

「え?」

「彼、私の病を治す薬を手に入れるために、かなりの無茶をしたみたい。もし今あやかしに襲われたら、間違いなく死んでしまうわ」

 ハッとする。そういえば、家に訪ねてきたときの楊は、どことなくやつれていた。心に余裕がなく、気遣いの言葉ひとつかけてやれなかった。

「今楊さまを守れるのは、彩葉だけよ」

「私には……無理だよ」

 よろよろと首を振る彩葉に、礼葉は姉の慈愛がこもった眼差しを向ける。

「彩葉、大切なものというのは、失ってから気付いても遅いの。あなたはそのことをだれよりよく分かっているはずよ。今ならまだ間に合う。だから急いで、お願い」

 次の瞬間、ふたりを包んでいた光がふっと消えた。


 彩葉は目を開けた。静かに瞬きをする。

 彩葉は、じぶんの手のひらを見つめた。

『楊さまを追いかけて』

 脳内で礼葉の声が木霊し、心臓がざわめき出す。

 今の夢はなんだったのだろう。むしのしらせというもの?

 もしかして、楊になにかある?

 妙な胸騒ぎがして、いてもたってもいられなくなった。彩葉は急いで家を出た。

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