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第6話


 九条の家は、人里離れた京都の山の奥深くにある。

 実家へ帰りながら、彩葉は両親や礼葉と家族になったときのことを思い出していた。

 今から約十年前、まだ名前も持たなかった頃の話だ。

 母親と生き別れた子狐時代、彩葉は九条九郎という男に出会った。

 当時彩葉は人間に化けて街中に潜み、ときに悪事を働いて生きる、小悪党のあやかしだった。

 親を亡くし、ひとりぼっちだった子狐は、人間の子供に化けて必死に食べ物を探していた。数日水しか口にしていなかった子狐の体力は、既に限界を越えていた。

 大人に化ける余裕も、木の葉を金に変える力すら残っていなかった。

 野良の子狐は毎日、子供に化けて物乞いをした。

 しかし、どこへ行っても食べ物を恵んでくれる店はない。我慢の限界を迎え、子狐は露店で売られていた団子をひとつ盗んだ。

 しかし、運悪く店の店主らしき男に盗んだ瞬間を見られてしまった。

 男は怒り心頭で、子狐は何度も何度も殴られた。とうとう体力がなくなり、子供の変化が解けてしまった。子狐の正体を見て、男は驚いた。

「忌々しい妖狐め! 殺してやる!」

 このままじゃ殴り殺される、と死を覚悟したとき、だれかが男の手を掴んだ。

 見知らぬ老父だった。

 老父は「うちの娘がいたずらをして申し訳ない」と言って、丁寧に頭を下げた。

 うちの娘、と言った老父に、子狐は首を傾げた。

 まったく見覚えがない。

 戸惑う子狐をよそに、老父は詫びだと言って子狐が見たこともないくらいの大金を男に与えた。

 男は目の前の金にすっかり気をよくして、子狐を解放してくれた。

 しかし店を出るとき、ものすごい剣幕で怒鳴られた子狐は震え上がって、その場から脱兎のごとく逃げ出した。

 人気のない森の中の神社まで逃げて一息ついていると、あの老父がやってきた。

 あからさまに怯える子狐に、老父はあの店の団子を差し出した。

 子狐は老父を警戒しながらも空腹に勝てず、そろそろと手を伸ばして、その団子を受け取った。

 受け取った途端、頬いっぱいに団子を頬張る子狐を見て、老父は微笑みながら言った。

「君、親はいないのかい?」

 子狐は咀嚼をやめ、老父をじっと睨みつける。そして、小さく答えた。

「いない。死んだ」

「……そうか。なら、うちの子になるかい?」

「え……?」

 子狐はじっと老父を見つめる。

 老父は境内にちょんと座っていた子狐のとなりに腰を下ろすと、しっとりと話し出した。

「うちにもね、君と同じくらいの娘がいるんだ。歳がいってようやく授かった子だった。だけど、娘は生まれたときから身体が弱くてね……。よかったら、うちの子の姉妹になってくれないかな」

「おじさんの娘に?」

「見てのとおり、僕はおじさんだ。もう先も長くない。この先、娘がひとりになってしまうことだけが僕は気がかりなんだ」

「おじさんの娘もひとりぼっちなの? 私と一緒だね」

 あどけない声で言う子狐に、老父は微笑む。

「そうだ。だから、僕たちがいなくなったあと、ふたりが力を合わせて生きていってくれたら、おじさんはすごく嬉しいんだ。どうかな?」

「おじさんの子になったら、私、ひとりぼっちじゃなくなる? おなかいっぱいになれる?」

「もちろん。家族になるんだからね」

 子狐は、パッと表情を明るくする。しかし、その表情はすぐに翳った。

「……でも、私はあやかしだよ。妖狐は、悪いヤツだってみんな言うよ。今日だって……」

「君はただ一生懸命に生きているだけだ。悪いことなんてなにもしていないよ。君、名前はなんと言うんだ?」

「……ない。あったのかもしれないけど、知らない」

「そうか。なら、僕がつけてもいいだろうか」

 老父は子狐に優しい眼差しを向けた。

「僕の娘はね、礼葉というんだ。どうせならうちの子と似た名前がいいな。……そうだ、彩葉というのはどうだろう?」

「いろは……ねぇ、それってどういう意味?」

「彩というのは、鮮やかで美しいことをいうんだよ。それから、いろんな色の組み合わせを言う。礼葉と良い関係になってほしいという気持ちを込めてみたんだ」

「彩葉……?」

 名前を呟く。名前というものに慣れていない子狐は、そわそわとした。

「どうかな? 彩葉」

「可愛い名前だね」

「そうか」

「おじさんの名前はなんて言うの?」

「九郎だよ。九条九郎だ」

「……九郎おじさん。私、おじさんの子になりたい。おじさんの娘、守るよ。私が」

 そうして、子狐は老父――九郎の娘となったのだ。



 ***



 礼葉が亡くなったのは、彩葉が実家へ帰ってすぐのことだった。両親と同じ流行病に罹患してしまったのだ。

 最愛の姉の死に、彩葉の心にはぽっかりと大きな穴が空いてしまった。しばらくなにをする気にもならず、彩葉は姉の亡骸に寄り添い続けた。


 礼葉が亡くなったその日の夜、彩葉は夢を見た。

 彩葉が天月家に嫁ぐことが決まった日の夜の夢だ。

 だれより心配症である礼葉は、じぶんと入れ替わって結婚する彩葉のことをすこぶる心配していた。

 結婚前夜、布団に横になりながら、彩葉は言った。

「――いい? 礼葉。今日から私は礼葉として、あなたは彩葉として生きるの。私たちが入れ替わってるってことは、ぜったいに天月家には秘密なんだからね」

 礼葉が彩葉のほうへ寝返りを打つ。

「ねぇ彩葉、本当にお嫁に行くの? 身代わりなんて無茶だよ。もしバレたら、妖狐であるあなたは殺されちゃうかもしれない。やっぱり私が……」

「大丈夫よ! もしバレそうになったら、そのときは逃げるわ。私、逃げ足だけはとっても早いのよ。なにせ、妖狐ですから」

 ぽんっ! と変化を解き、狐の耳としっぽをあらわにした彩葉を見て、礼葉がくすくすと笑う。

「私は、お父さまとお母さまの本当の子じゃないけれど、それでも愛情だけは礼葉にだって負けてないつもりよ」

「もちろん、それは分かってるわ。でも、天月家の次期当主は、気難しいかただと聞いたわ。彩葉は素直だから、ちゃんと上手くやっていけるのか心配なの」

「大丈夫! 上手くやるわよ!」

「本当かなぁ」

「とにかく、私はふたりに恩返しをしたいの。分かってよ、礼葉」

「うん……」

 それでもまだ苦い顔をする礼葉の手を、彩葉がぎゅっと握る。

「大丈夫。嫁いだって家族は家族。私たちの心はずっと一緒よ。それに、もしお父さまとお母さまになにかあったら、すぐに戻る。礼葉がひとりになるときは、必ず帰ってくる」

「本当?」

「もちろん。礼葉はとにかく、今は病を治すことを考えて。それから、お母さまとお父さまをよろしくね。あまり無理させないように」

「うん、分かった」

 礼葉と彩葉は、血が一滴も繋がっていない仮初の姉妹だったけれど、それでもふたりは本物の姉妹よりもずっと深い絆で繋がっていた。


 目が覚めると、枕が濡れていた。目元を拭いながら起き上がると、がらんとした殺風景な空間が目に入る。どことなく、色褪せているような気がした。

 ……色も、温度も、音すらない部屋。

 少し前まで、どんな場所よりあたたかかったのに。

 目が覚めた途端に襲ってくる不安感に、彩葉は打ちのめされた。

「礼葉……お父さま、お母さま……会いたい」

 彩葉の呟きは、だれもいない空間に寂しく溶けていく。

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