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第4話


 礼葉がいなくなった台所で、楊は剥きかけの梨を片付けていた。片付けながら、ついため息が漏れる。

『ごきげんよう、旦那さま。さっそくですが、離縁してください』

 朝、礼葉に離縁を突きつけられてからというもの、忌々しいその言葉が楊の頭から離れない。

 胸がざわざわとする。楊は思わず胸を押さえた。

 これは、なんだろう。

 楊は、生まれて初めての感覚に困惑していた。

 ついさっき、楊は礼葉の血に触れた。

 あまりに痛々しく、胸が締め付けられるようだった。

 これまでの楊だったら、有り得なかった感情だ。

 結婚当初のじぶんが今のじぶんを見たら、きっと目を丸くして呆れていることだろう。

 あの頃の楊にとって、夫婦というのは、ただの仮初でしかなかった。

 もともと楊は、結婚自体する気などなかった。しかし、天月家の当主になるためには花嫁を迎えなければいけないというしきたりがある。

 そのため楊は、仕方なく礼葉と結婚したのだ。

 ……それなのに。

 楊は自身の胸を押さえながら、呟く。

「離縁なんてしたくない……」

 じぶんの口から放たれたそれに、なにより楊自身がいちばん驚いていた。

 ずいぶんな変わりようだ。

 もともと天月家の当主になるための伝統の祭事が済んだら、すぐにでも礼葉をどこか遠くの別荘へ追い出すつもりだったのに。

 気が付けば、もう三年も一緒にいる。

 それだけでなく、離縁を突きつけられて焦っているなんて。

 楊はもともと、ひとを好きになったことがない。

 楊の父親はろくでもないひとで、本妻のほかに妾を何人も囲い、毎晩遊び狂っているような男だった。

 楊はその妾の子として生まれた。

 母親が十六、父親が齢六十のときの子である。

 日々大きくなるにつれ、楊は女中の噂話を通して、じぶんの出自がどういうものかを理解していった。

 それでもまだ、子供の頃は父親を愛していた。

 本妻の間に子がなかったため、父親は仕方なく妾を囲っていたのだと。

 家のために世継ぎを作らなければなかったから、仕方なかったのだと。

 父親を蔑みたくなる衝動に駆られるたびに、そう言い聞かせていた。

 しかし、楊が十五になる頃だっただろうか。

 父親の妾のひとりが、夜な夜な楊の寝室へ夜這いにきたことがあった。

 幸いすぐに気が付き、楊は女を寝室から引きずり出した。

 女は不貞を働いたとして即離縁されたが、そのできごとは、幼かった楊の心に暗い影を落とすには十分過ぎるものだった。

 あの日、楊は父親にはっきりとした嫌悪を抱いた。

 あのとき女に触れられた感触が、楊は未だに忘れられない。

 女は汚い。女は醜い。あんな獣のような女をそばに置く父親もどうかしている。

 楊は家族すら信じられなくなった。

 父が死んだとき、悲しみよりもホッとした。ようやく、妾たちを屋敷から追い出せるから。

 それからほどなくして嫁いできた礼葉へ、楊は当時、今とは比べ物にならないほど冷たくしていた。

 会話すらほとんど交わさなかった。

 料理を出されてもぜったいに食べなかったし、声をかけられれば背を向けた。

 気を引こうと腕にでも触れようものなら、容赦なく怒鳴り、その手を振りほどいた。

 どうせすぐに興味を失くすだろうと思っていた。しかし、楊の予想に反して、礼葉はいつまでも楊にかまってきた。

 どんなときも、どんなに虐げても文句ひとつ言わずに、ひねくれた楊を受け止めた。

 ふと、回顧して思い出す。

 そういえば、いつから今のような関係になったのだったか。

 考えるまでもなく、楊の記憶がとあるときまで遡っていく。



 祓い屋である楊は、日々あやかしと相対している。

 善良なあやかしたちの相談に乗り、困りごとを解決することが多いが、ときには人々に害を及ぼす邪悪なあやかしを退治することもある。邪悪な心を持つあやかしや悪霊は、意思疎通ができない者が多い。

 そのため、怪我を負うことも多かった。

 あるとき楊は、腕にひどい傷を負い、血だらけで帰ったことがあった。

 出迎えた礼葉は楊の怪我に気付くと、慌てて手当をしようとした。

 しかし楊は、その手をいつものように「汚い手で触るな」と弾いた。

 こういうとき、いつも礼葉は困ったように笑って「ごめんなさい」と素直に手を引いたが、このときばかりはさすがに言葉を詰まらせ、落ち込んだ顔をした。

 その顔に、ほんの少し罪悪感がちらつきながらも、楊はそのまま礼葉を無視して自室へ入った。

 部屋にある救急箱を使い、軽く止血したあとのこと。洗面所の前を通ると、水の音がした。そっと覗くと、そこに礼葉がいた。

 水を豪快に出して、なにかをしている。

 礼葉は、一心に手を洗っていた。ごしごしと、手の柔らかな皮膚が真っ赤になるほどに。

 そのときはなにをしているのかと呆れて部屋に戻ったが、彼女の不可解な行動の理由はすぐに分かった。

 そのあとすぐ礼葉が楊の部屋にやってきたのだ。

 そして、言った。

『手はきれいに洗ってきました。手当だけでもさせていただけませんか』と。そう頼んできたのだ。

 当て付けかと思ったが、その目を見て感じた。違う。

 彼女はただ本気で、楊の怪我を心配していた。

 馬鹿正直で要領の悪い礼葉を、楊は内心呆れていた。

 だけど、それを知ってからもいうもの、どうも礼葉を邪険にすると良心が痛むようになってしまった。

『手当させてください』

 それ以来、礼葉の澄んだ視線が、楊を捕らえて離さない。

 礼葉だって女なのに。あいつらと変わらない、醜い生き物のはずなのに。

「あのときか……」

 あのとき初めて、楊は礼葉に触れることを許したのだ。


 梨を片付け終わり、楊は途方に暮れた。

 いつの間に、こんなにも彼女を愛してしまっていたんだろう。

 らしくない、と呆れつつ、こんなじぶんを愛おしいとすら思ってしまう。

 まっすぐな彼女に感化されたのだろうか。

 礼葉はまっすぐ過ぎる。

 警戒心がまるでなく、すぐにひとを信用する。すぐにひとを愛する。拒絶されても、無邪気に追いかける。

 そんな彼女が愛おしくてたまらない。

 それなのに、彼女に裏切られたような気持ちになるのはなぜなのだろう。

 深く息を吐くように、言葉を漏らす。

「……そうか。俺は、寂しいんだな」

 三年も一緒にいたのに、彼女の家族になれなかった。

 彼女のいちばんになれなかった。

 それが、悔しくて悲しくて、そして、寂しいのだ。とてつもなく。



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