礼葉は梨を剥きながら、ぐるぐる考えごとをしていた。
――どうしよう。
礼葉の背中を、冷たい汗が流れていく。
礼葉はまさか、楊に離縁を拒絶されるとは思ってもいなかったのだ。
結婚して三年。楊とは離縁されない程度に好かれるよう努力はしたものの、それ以上親密にならないよう、一定の距離を置いてきたつもりだった。
もともと楊は、ひとやものに頓着しないさっぱりとした性格だと見ていたのに。
「というかそもそも、縁談は私じゃなくて礼……」
声に出していることに気付き、礼葉は慌てて口を閉ざした。
礼葉に縁談の話が舞い上がったのは、三年前、礼葉が十五歳のときだった。
両親は突如舞い込んだ縁談を喜んだものの、しかし一方で、あることを心配した。
礼葉は生まれつき身体が弱かったのだ。
天月家は由緒正しい家柄。しかし、縁談相手の楊は天月家の当主だ。結婚すれば、必ず世継ぎが必要になる。しかし、礼葉にはとても世継ぎを産む体力はなかった。もし子を授かったとしても、礼葉の命のほうが危険になってしまう。
両親は悩んだ末、礼葉の身体のことを考え、天月家との縁談を断ろうとした。そこに待ったをかけたのが、礼葉の妹・彩葉だった。
彩葉は、
幼い頃に母親を亡くした子狐を九郎は彩葉と名付け、ひとの子として、礼葉とともに姉妹のように育てた。
彩葉は言った。
「お父さま、お母さま、私が礼葉として天月家に嫁ぎます」
彩葉の提案に、家族は驚いた。
「なにを言うの、彩葉」
「そうだよ、彩葉。君は妖狐なんだよ。天月家は代々祓い屋を生業としている。もし君が妖狐であることがバレてしまったら、殺されてしまうかもしれない。危険過ぎる」
家族の言うとおり、天月家は祓い屋だ。
ひとであって人に在らず。
悪いあやかしを特別な力によって封じることができる、特別な家。あやかしにとって天敵ともいえる存在だった。
しかし、彩葉の覚悟は揺るがない。
「大丈夫です。私はもう子供ではありません。力もとても強くなりましたし、変化も自在。余程のことがなければ正体が知られることはないでしょう」
「だが……」
「そもそも私は、お父さまとお母さまがいなければ、とうの昔に野垂れ死んでおりました。今こそ恩返しをさせていただきたいのです」
彩葉の強い眼差しに、両親は顔を見合わせた。
「恩返しなんて、そんなこと考えなくていいのよ、彩葉」
「そうよ、そういうことなら私が嫁ぐわ」
今度は礼葉が話に割って入る。
「それはダメ。礼葉は今、家を出ることだって難しいのよ。結婚なんてぜったいダメ!」
「彩葉……でも」
「私じゃ、礼葉の代わりにはなれないかもしれない。でも……できることなら、ふたりに花嫁姿を見せてあげたいの」
礼葉の覚悟はやはり揺るがなかった。
大好きな姉のため。
大好きな家族へ花嫁姿を見せるため。
ひとりぼっちだったじぶんを拾ってくれた両親に、恩返しをするため。
まだ幼い妖狐は、礼葉に成り代わって、天月礼葉となった。
――あれから三年。
花嫁姿の彩葉を見た両親は、とても喜んでくれた。もちろん、礼葉も。
天月家へは、もともと両親が生きているうちだけ、と決めて嫁いだ。
なぜなら、両親が死んだら礼葉がひとりになってしまうからだ。彩葉は九郎に拾われたとき、両親亡きあとはじぶんが礼葉を守っていくという約束をしたのだ。
両親を失った礼葉は今、
今頃はきっと、かなり気落ちしていることだろう。
大切なだれかを失ったとき、悲しみを癒すには、ただそのひとのそばにいるほかない。
女中に任せてはいられない。早く戻って、礼葉に寄り添ってやらなくては。
焦燥が胸を掻き立てる。
いっそのこと、このまま出ていってしまおうか。彩葉はひとでない。ひとのしきたりなど知らない。興味もない。
元来、離縁しているかどうかなんて、あやかしである彩葉にはどうでもいいことだ。
「……いや、ダメダメ」
そう思いかけて、慌ててとどまる。
楊には実家の場所を知られているし、あやかしのツテもある。礼葉の体調面のことも分からない今、向こうみずな行動をするわけにはいかない。
しかしそれならばどうやって離縁へ持ち込もうか、と考えていたときだった。
つるりと手が滑った。
「あっ!」
ぴっと指先に鋭い痛みが走る。
包丁を落とした拍子に、指を切ってしまった。皮膚の裂け目から、ぷくっとした赤い血が溢れてくる。
「いたた……」
慌てて指をくわえ、血を舐めとる。
包丁についた血を水で洗い流していると、背後でかすかな物音がした。振り向くと、楊が立っている。
「どうした?」
「あ、いえ……!」
慌ててくわえていた指をパッと離し、後ろ手に持っていく。
見られただろうか、と彩葉は冷や汗を垂らした。
はしたないと思われているかもしれない。ひとりになるとつい気が抜けてしまっていけない。指をくわえるなんて、と、今にも養母の嘆きが聞こえてきそうだ。
って、今はそれどころではない。傷口を隠さなければ。
妖狐である彩葉は、傷を負ってもすぐに治ってしまう。それを楊に悟られたら、あやかしであることがバレてしまう。ぜったいに知られるわけにはいかない。
「あ、えっと、楊さまこそどうしました?」
慌てて笑みを浮かべ、楊に訊ねる。
「あぁ、うん。喉が渇いてね」と、楊は淡白に答える。
彩葉は、その澄んだ双眸をじっと見つめた。
「それでしたら、私がお部屋にお持ちしますのに」
「いい。水くらいじぶんで酌める」
と、楊は彩葉のいる流し台へ歩いてくる。そして、まな板に転がった果実を見て、
「あぁ、梨を剥いてたのか」
「……はい。なんだかお腹が減って」
「そうか」
曖昧に笑う彩葉から何気なく流し台へ視線を戻して、楊は眉を寄せた。
「……これは、血?」
楊がパッと彩葉を見る。まずい、と彩葉は焦った。
「もしかして、どこか切ったのか?」
「あ、いえ……」
咄嗟に、誤魔化す言葉が出てこない。視線に耐えられず、礼葉は背を向けようとした。
「待て」
慌てて後退る彩葉の腕を、楊が掴む。
「切ったところを見せてみろ」
「いえ、本当に大丈夫ですから」
慌てて断る彩葉の手を、楊は「いいから」と、半ば無理やり引き寄せた。
楊の目に晒された彩葉の指先には、まだ少し血が滲んでいる。
「やっぱり切ってるじゃないか。そのままにするのはダメだ。細菌が入る」
「大袈裟ですよ」
「なにが大袈裟だ、まったく……痛かっただろう」
楊は彩葉の手を掴んだまま、台所に立って蛇口をひねる。てのひらを水で濡らし、彩葉の指先を優しく洗い流していく。
「このくらいじぶんでできます。……汚いですよ」
「礼葉の血が汚いわけないだろ」
「…………」
滑らかに動く楊の手元を、彩葉は複雑な思いで見つめた。
「……なんだ?」
「え?」
「なにか、言いたげな顔をしてる」
「……いえ。ただ……」
そのまま、彩葉は黙り込んだ。
「ただ?」
「……いえ。なにも」
「……そう」
滲んでいた血をすべて洗い落とすと、楊は清潔な布巾で丁寧に彩葉の手を包んだ。
その際、ぐっとふたりの距離が縮まった。かすかに屈んだ格好をした楊の長いまつ毛が、小さく震える。まつ毛が上がり、楊の整った目が彩葉を捉える。
その瞬間、ふわりと甘い楊の香りが鼻先を掠め、彩葉の胸がどきりと弾んだ。
ハッとした。
「も、もう、結構ですから!」
彩葉は慌てて手を引っこめ、脱兎のごとくその場を逃げ出した。