後宮の片隅にある上級妃の宮、
そこには、幽妃が住むという。
幽妃の名前は、
彼女が住む星霞宮には、侍女も宦官もいない。
住むのは、妃たったひとりである。
後宮に住む恐ろしい幽妃。
ひとは彼女を、そう呼ぶ。
理由はふたつ。
まずひとつは、彼女には人ならざるものが見えるということ。
入内した当日から、幽鬼と話していたという目撃談が多数寄せられている。
そしてふたつめ。
それは、彼女には毒が効かないということ。
後宮に入って、彼女は既に三度ほど致死量以上の毒を盛られている。にもかかわらず生き残っている。
幽妃は毒に強い身体を持ち、それだけでなく、毒を打ち消すことさえできるという噂だ。
……もちろん、どちらもただの噂だが。
しかし毒を盛られても平然としている妃を、ほかの妃たちは気味悪がり、次第に恐れ始め、幽妃と呼び始めた。
そして、その噂はあっという間に時の皇帝・
***
深い闇が落ちた林の中を、上背の高い男がふたり、歩いていた。
「
手に灯篭を持った男が、そっと前を歩く男に声をかけた。淡い光に照らされた男は年若く、端正な顔立ちをしている。
「本当に星霞宮へまいられるのですか」
灯篭を持った男が、不安げに尋ねた。時の皇帝・春蕾の側近
「私には、もう彼女しかいないのだ。それに上級妃だというのに、私はまだ彼女に挨拶に行ったことがなかったからな。ちょうどいい機会だろう」
答えたのは、時の皇帝・春蕾である。春蕾は灰色の袍を着ていた。
「ただの妃風情に、大家が挨拶などされる必要はありませんでしょう!」
声を荒らげる海里に、春蕾はくすっと笑った。
「なんだ、みっともない声を上げて。もしかしてそなた、噂の幽妃が怖いのか?」
「なっ!」
暗がりの中でも分かるほど、海里は頬を赤くしていた。
「そういうわけでは……私はただ、大家の御身を案じて……だって、彼女にはどのような強い毒も効かないと言いますし、それどころか幽鬼を侍女や宦官に据え置いて、星霞宮を幽霊屋敷にしているなどとの話もあります。噂の内容が不気味過ぎますよ」
「それなら帰ってもいいぞ。私は行くが」
「わっ……私は! 大家を置いて、帰るなんて恩知らずな真似はいたしません!」
「ははっ。そうか。なら着いて来い」
「当たり前です!」
ふたりは再び歩き出す。
「……ここは本当に、だれも寄り付かないのだな。下生えの草すら倒れていない」
「えぇ。みな幽妃に取り殺されると怖がって、寄り付きません。夜警の女官すら、この林の手前までしか足を運びません」
「上級妃だぞ?」
「彼女は、妃とは名ばかりの既に死んだ存在となっておりますからね。陛下のせいで」
「……そうだな。彼女はきっと、私を恨んでいるだろう」
そのとき、枝に停まっていた野鳥が、ばさばさっと羽根を鳴らした。
ふたりとも言葉を止め、一瞬警戒する。
ただの鳥であったことを確認すると、再び歩き始めた。
「しかし、このようなことが本当に上手くいくでしょうか……」
「……私とて、お前の憂いは分かっている」
目の前に朱色の大きな門が現れる。
「だが、それでもやらねばならないのだ。愚帝の弟として」
「だからってなにも幽妃に頼まずとも……」
じとっという視線が春蕾に向けられる。春蕾は笑顔でその視線を受け流した。
「そう言ってやるな。これも一種の夜伽と思えばいい」
「この場合、夜伽というより夜警の類に思えるのですが?」
「はは。そうか?」
「笑って誤魔化さないでください」
軽い小競り合いをしながら、ふたりは門の奥へ入っていく。
***
「氷霞さま〜。梨が向けましたよ〜」
氷霞の侍女である
「あら、鈴鈴。まだ起きていたの?」
氷霞は窓へ向けていた視線を、そっと声のほうへ向けた。
「だって氷霞さま、このところほとんどなにも食べていないから……。梨なら軽く食べていただけるかと思って、街に出て探してきたんです」
「なるほど、だから昼間姿が見当たらなかったのね」
健気な鈴鈴に、氷霞は小さく苦笑した。
「氷霞さま、もしかして梨はお嫌いでしたか?」
しゅんとした顔をする鈴鈴に、氷霞は優しく微笑む。
「いいえ、いただくわ。鈴鈴も一緒に食べましょう。こっちへいらっしゃい」
「はいっ!」
氷霞の柔らかな笑みに、鈴鈴は嬉しそうに駆け寄った。
しゃくしゃくと軽やかな咀嚼音がする。
「美味しい?」
「はい」
無邪気に梨を頬張る鈴鈴と陽陽を見て、氷霞はふっと表情をゆるめた。可愛らしい。
鈴鈴は、かつてこの後宮で働いていた少女女官だ。
しかし職務中、意地悪な同僚女官に堀へ突き落とされ、不運にも命を落としてしまった。
以来鈴鈴はその女官に強い恨みを抱き続け、未だ成仏することができていない悲しい幽鬼なのである。
もっとも、鈴鈴を殺した女官は既に病で亡くなっているのだが、彼女の恨みは女官を庇った妃や宦官にも向いている。
氷霞が鈴鈴と出会ったのは、半年前、入内したときのことである。生きた侍女だと思い鈴鈴に声をかけたところ、うっかり懐かれてしまった。
話してみたら生前の恨みつらみはあるものの、基本的には素直で良い子だったので、致し方なくこの星霞宮に連れてきたというわけである。
後宮には、幽鬼の類は多い。
そして生きている者の中にも、ごくたまに霊感の強い者がいる。
そういう者に幽鬼扱いされ、呪詛師などに祓われてしまうのは可哀想だと思った氷霞なりの配慮だ。
梨を指で摘み、かぷりとかじる。じゅわっとみずみずしい果汁が口の中で弾け、華やかな香りが鼻を抜けた。
甘くてみずみずしい。上物だ。
「美味しいわ」
「よかったです。そういえば、
「あぁ、瑚白なそこの壺の中で寝てるわよ。今回の解毒は相当身体に効いたみたいで」
「そうですか……氷霞さまも瑚白さまも、無事で本当に良かったです」
氷霞は数日前、とある者に仕掛けられた毒に倒れた。相棒の瑚白のおかげで解毒はできたものの、その代償として数日熱に苦しんでいたのである。
その間、つきっきりで看病をしてくれていたのはこの幼い少女女官だ。
鈴鈴がにっこりと微笑む。
「ありがとね、鈴鈴。あなたにはいつも――」
氷霞はふと言葉を止め、扉を見た。
「……どうしました? 氷霞さま」
「……だれか来たわね」
「えっ? こんな時間にですか?」
鈴鈴がきょとんとした顔をして、扉を見る。
「きゅ!」
陽陽が小さく鳴いた、そのとき。
「――氷霞さま、大変だ!」
バン! と勢いよく扉が開いた。
「
やってきたのは、鈴鈴と同じく星霞宮に住み着く幽鬼宦官の静である。
彼もまた、後宮内でのつまらない陰謀に巻き込まれ命を落とした不運な男だ。
鈴鈴がたまたま庭を彷徨っているところを見かけ、声をかけてこの宮に連れてきた。
彼の場合は、現皇帝・春蕾が寵愛していた前貴妃と通じたとかで首をはねられたという。
しかし、当人に話を聞いたところ、彼は貴妃と話したこともなかったという。
ただ、貴妃の侍女とよく話す仲だったらしい。
その侍女は自身が仕える貴妃をよく思っていなかったらしく、静は不運にも彼女に騙されてしまった。
貴妃を陥れるための駒に利用され、首を切られたということだった。
どこまでも哀れな男だ。
そして、幽鬼のくせに騒がしい大男である。黙っていれば見目のいい男なのだが。
「騒がしいわよ。静のくせに」
静のくせに、を強調すると、静が破顔した。
「ひどい!」
「あっ、静さまでしたか! 静さまも梨いかがですか」と、鈴鈴。こちらはこちらで呑気だ。
静はできる限りイライラを抑えて言った。
「それどころではありませんぞ! 侵入者だ!」
「侵入者?」
「こんな夜更けに?」
「今度はだれですか。来客じゃ、また梨切らないと……そうなると、私の梨の取り分が減っちゃう……」
鈴鈴は目の前の梨を指をくわえて見つめ、しゅんとした。
「ふたりとも呑気だな!」
静は思ったことがそのまま口に出る男だ。
「静こそ、侵入者くらいで騒ぎ過ぎよ。ぶっちゃけ、ここは幽霊屋敷よ。こんな場所によりつくのなんて、どうせ幽鬼くらいでしょう」
「でも、上級妃の宮に侵入者だぞ!? 大事件だろう!」
「きゅ〜」
「氷霞さま、いいこと思いつきました! 梨に瑚白さまの毒入れてみます?」
「こらこら。瑚白の毒を入れたら即死よ。あ……でも幽鬼に毒って効くのかしら?」
「違う、聞け! 来たのは陛下だ!」
しん、と沈黙が落ちた。
直後、
「陛下っ!?」
それは一大事である。
なにせ、時の皇帝・春蕾は数日前、氷霞を毒殺しようとした張本人なのだから。
***
春蕾の前には、美しい少女がいた。
「そなたが、幽妃か……?」
月夜の薄闇に照らされているのは、透き通る水のように白く、天女のような見目のうら若い少女。
長い黒髪は艶やかで、丁寧に両把頭に結えられており、鮮やかな紅水晶の簪がさされている。
大きな鷹色の瞳は少し釣り上がっており、形のいい唇はほんのりと桃色。
朱氷霞は、見る人を惹きつける蠱惑的な色気を放つ少女だった。
歳は十五ほどの可憐な彼女の身を包んでいるのは、上質な絹の赤い衣裳だった。
しかし少女は愛くるしい顔をムスッとさせ、あからさまに春蕾に不快感を示していた。
「突然すまない」
「……いえ」
「いやしかし驚いた。幽妃などと噂されているというから、もっとおどろおどろしい姿をしているものと思っていたが」
「驚くのはこちらのほうです。その台詞はとても上級妃に向けるものではないと思いますが」
涼やかというより、冷ややかな声だ。やはり機嫌が悪いらしい。
「失礼した。ただ、このような可憐な方だと思わなかったという意味だ」
すると、氷霞はふんっと笑った。
「随分と白々しいことを。まるで初めてお会いしたみたいな顔をされて、どのようなおつもりです?」
氷霞は笑顔のまま、春蕾に対し辛辣な言葉を吐いた。春蕾は目を伏せた。
「……そなたが怒るのも無理はない。ただ、これは誤解なのだ」
誤解、という言葉に、氷霞は睨むように春蕾を見上げた。しかし、春蕾はその視線を受けてなお、続ける。
「数日前、そなたの羹に毒を仕込んだのは、私ではない」
「……今さらなにを」
氷霞はふぅ、と呆れたような息を吐く。
「信じられません、この期に及んでこの男、なにを言っているのでしょう! 失礼にもほどがありますよ! 氷霞さまをあんな目にあわせておいて!」
「そうだな。どの面下げてここへ来たのか。今すぐに取り殺してやりたいんだが、いいかな氷霞さま」
春蕾は周囲へ視線を巡らせる。あちこちから声がする。見れば、半透明の女官がひとりと宦官らしき男がひとり、氷霞の背後に仕えている。
「その者たちは、幽鬼か?」
氷霞はハッとしたように春蕾を見た。
「……まさか、お見えになるのですか?」
「あぁ。だからあまり、後宮には近付きたくなかったのだ。この場所は澱んでいるからな」
「澱みはあなたのせいなのでは」
氷霞は冷ややかに春蕾を見つめた。
「陛下、説明してください。つい数日前いらっしゃったときは、彼らのことなど見えていないようにお見受けしました」
「あれは、私ではないからな」
「は――?」
「私は今日、初めてここへ来た」
「ふざけないでください! あなたは数日前、この宮へ渡御なさっています! 私が入内したきっかけをお忘れですか」
「……もちろん、覚えている」
「それなら……」
「そなたに入内を勧めたのも、毒殺しようとしたしたのも、私の兄なのだからな」
氷霞は目を見張った。
「兄……? では、あなたは」
「私の名は姜・春蕾。そなたを殺そうとしたのは、私の影武者である兄・
春蕾は静かに話し出した。
***
そもそも氷霞が後宮に入内したのは、半年前。
春蕾の強い勧めがあってのことだった。
幼い頃から家族にすら毒姫などと呼ばれて虐げられてきた氷霞。
氷霞に入内の話が出たときでさえ、父親である
「妹は、私のような恐ろしい異能を持たず、利発な美しい娘でありましたから」
「……そなただって美しい」
「気遣いは結構です」
「…………」
しかし後日、朱家に皇帝である春蕾が直々にやってきたのである。
春蕾は氷霞に言った。
『そなたの特別な力がほしい。私のためにその力を使うと約束してくれるのであれば、後宮で上級妃の位を与えよう。もちろん、そなたに妃としての務めを強要することもしない』
妃としての務めとはすなわち、夜伽である。
春蕾は氷霞が毒を操る恐ろしい力を持っていることを知っていた。
しかし春蕾は、それを恐るどころか利用しようとしたのである。
春蕾は妹よりも氷霞の能力を目当てに強く氷霞を欲しがった。厄介払いしたかった朱家としては思ってもみない幸運である。朱家は、妹もともに入内させてくれるのであればと、あっさり氷霞を後宮へ入れた。
だが……。
「そんなにまで欲しがっていたそなたを、なぜ兄は毒殺しようとしたのだ? いったいなにがあった?」
「後宮へ入ってから、私は日々陛下のために毒の調合などを請け負っていたのですが……あるとき、陛下は、私に夜伽するよう言いました。おそらく、子を作ればその子にも私と同じ力が宿り、妃である私より扱いやすくなると気づいたのでしょう」
夜伽はしないとの約束だったはずだと、氷霞はそれを断った。
そして、紫釉は氷霞の羹に毒を盛ったのである。殺す意図はなかっただろう。毒で死なないということを分かっての折檻だ。
春蕾は苦い顔をした。
「あいつならやりかねないな」
春蕾は氷霞に頭を下げた。
「私の兄が申し訳ないことをした」
「……いえ。虐げられるのは慣れていますから。ここに来ても私に価値はないのだなと再認識させられたというだけで」
春蕾と海里はぐっと言葉を詰まらせた。
「氷霞」
「…………」
俯いた氷霞の手を、春蕾がそっと握った。白く華奢な手には、いくつか痣があった。
「もう一度だけでいい。私を、信じてくれないか」
「……信じろとは」
「私たち兄弟は双子の皇太子として生まれたが……表向き、兄は死んだことになっている」
「なぜです?」
「皇帝はふたりはいらないからだ。双子として生まれたとき、私たちの母である妃が、産んだのはひとりだということにして、私たちをひとり息子として育てた。どちらかが病や暗殺で殺されても、身代わりにできるように」
「それは、なかなか肝の据わった妃だな」
静は切れ長の目をさらに細くした。
「おかげで私と兄は、同時には存在してはいけないことになっていた。普段後宮をまとめているのは兄だ。私はこれまで、皇帝の位には興味がなかったからすべてを兄に任せ切りにしてきた。だが、最近兄はなにやら企んでいる様子でな。私も暗殺の刺客を差し向けられた。そのため、水面下で後宮で兄の動向や妃同士の内情を探ってくれる味方を探し始めたというわけだ。もちろん、その候補には、兄のお手つきでない者でなければならないが、そうなると選択肢はほとんどなくなってくる」
「……なるほど。従順な弟陛下が、とうとう兄に牙を剥くというわけか」
静は小さく息をついた。
「あぁ。そうだ」
「……これまでも、私に手を差し伸べてきたひとはいました。ですが、みんな私の力を恐れたり、悪用しようとしたりします。それで私が拒むと、離れていく……。私はもう、利用されるのは懲り懲りなのです」
「……だから、生きた侍女や宦官を置かぬのか」
「この後宮には、幽鬼がごろごろとおります。後宮の内情なら、幽鬼である彼女の侍女や宦官がいくらでも勤めを果たしてくれますし。生きている者と接するより、ずっといい」
春蕾は氷霞を見つめ、にやりと笑った。
「そういうことなら問題ない」
「え?」
「我らも幽鬼だ」
氷霞が目を見張る。
「私は紫釉に毒を盛られ殺された。そなたが調合した毒によってな」
「え……」
氷霞は触れられた手を見つめた。
なるほど、言われてみればその手はひんやりと冷たい。生きた者と接する機会があまりにもないせいで、そんなことにも気が付かなかった。
「氷霞。ともにこの国へ復讐しないか」
「復讐……ですか」
氷霞はふっと笑った。
「今さらです」
「そうだろう。だが、このままではそなたは一生この箱の中で飼い殺しだ。それでよいのか」
「…………」
これまで、騙されたり毒を盛られたり、散々な日々だった。
「私に自由なんて……」
「私が作ってやる。どの道、今のままでは国は早々に滅ぶ。そうなったら、そなたの身も危ない」
氷霞は鈴鈴と静を見た。ふたりは氷霞を見て、こくりと一度頷いた。
「――鈴鈴」
「はい」
「――静」
「はい」
「あなたたちはどう? ……って、聞かなくてもよさそうね」
鈴鈴と静からは、堪え切れずわくわくとした表情が漏れている。
「ふたりとも、この後宮への恨みはたっぷり残ってるのだものね」
「もちろんです」
「私たちで良ければ、いくらでも手を貸そう」
氷霞は小さく笑って、春蕾へ視線を戻した。
「陛下」
「なんだ?」
「今回ばかりは、生きていてよかったと思いました」
春蕾が笑う。
「私に力を貸してくれるか、氷霞」
氷霞は扇子で隠した口元をゆっくりと吊り上げた。
「御意」