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エピローグ


「あの……楪さま。今日はありがとうございました」

 睡蓮は、改めて楪に礼を言った。

「……あなたが無事で、本当によかったです」

 楪が優しく睡蓮を抱き締める。

 楪のぬくもりに、睡蓮は胸がいっぱいになった。

 楪に抱き締められているだなんて、夢のようだ。これまで一度も、顔を見ることも、手紙すら返ってこなかったのに。

 身体を離し、睡蓮は楪を見上げる。

「私こそ、なにも言わずにすみませんでした。まさか桔梗さんが楪さまだったなんて、私……今までいろいろとても失礼なことをしてしまいましたよね」

 頭を下げようとする睡蓮の手を、楪は「違います」と言いながら掴んで引き寄せる。

「謝るのは俺の方です。最初はあなたを探るために身分を偽って使用人になったのに……同じ時間を過ごすうちに、あなたとの時間がどんどんかけがえのないものになっていって……。桔梗としてなら、ずっとあなたのそばにいられるかもしれない、だなんて都合のいいことを考えてしまいました。俺はあなたに、取り返しがつかないことをしたのに」

 楪は目を伏せる。じくじくとした後悔が楪から伝わってきた。

 でも、それなら睡蓮だってそうだ。

「……私もです」

 楪が顔を上げる。

「私は、死ぬ運命にありました。だからこそ楪さまと離縁して、最後はひとりで過ごさなけばならないって決めていたのに……それなのに、桔梗さんと出会ってしまって、知れば知るほど桔梗さんに惹かれていくじぶんがいて。そのたびに楪さまのことが頭をよぎりました。恩人の楪さまを、裏切っているような気持ちになりました。私、じぶんがこんなに薄情な人間だったなんて、知りませんでした」

 じぶんを花柳家から連れ出してくれた楪を守るため、妖狐と契約をした。

 それなのに、桔梗に惹かれ始めて、魂を捨てるのが怖くなった。

 睡蓮は自身の両手のひらを見つめた。

 この手は無力だった。

 魂を差し出すことすらできず、結局楪や桃李に守られてしまうばかりで。

 この手は、四神の力を持つ現人神の花嫁としてふさわしくない手だ。

 睡蓮は手をぎゅっと握り締め、別れの言葉を選ぶ。

「私……楪さまと過ごしたこのひとときのこと、一生忘れません。宝物として、これから生きていきます」

 視界が滲んで不明瞭になっていく。

 最後なのだから、しっかりと楪の顔を目に焼き付けたいのに、心はままならない。

 せめて笑顔で。そう思い、睡蓮は涙を流しながらも精一杯に笑顔を向けた。

「今までお世話になりました。お元気で……」

「……待ってください」

 身を引こうとする睡蓮の手を、楪が掴む。

「……楪さま」

 楪は睡蓮をじっと見下ろし、告げる。

「今さらこんなこと、都合が良過ぎると分かっています。でも……あなたを失いそうになってあらためて、自覚しました。俺は、あなたが好きです。これからもずっと、あなたのそばにいたい」

 楪の背後にいた桃李が、楪になにか紙のようなものを差し出す。

 睡蓮はその紙を見て目をみはった。それは、睡蓮が楪へ送った離縁の紙だった。

「これ……」

「実は、これは最近まで俺も知らなかったことなんですが……。この紙はずっと桃李が保管していたみたいなんです」

「えっ? じゃあ、私たちって……」

「はい。つまり俺たちは、まだ正式には離縁していないんですよ」

「そ、そうだったのですね……」

「睡蓮さま。……離縁の話を、破棄させてほしい。……もう一度、俺と生きてもらえませんか」

「……え……」

「今度は契約じゃない、本物の……愛の結婚をしてほしいんです」

「…………」

 睡蓮はぽっかりと目を開けたまま、固まった。静かに涙が伝い落ちていく。

 夢だろうか、と睡蓮は思う。

 ずっとひとりぼっちだと思っていた。

 両親は妹ばかりを愛して、睡蓮など相手にしなかった。

 居場所のない花柳家を、早く出たかった。けれど、睡蓮にはなにもない。ひとりで生きていく勇気も、力も、財力も。

 楪からの婚姻の話は、またとない話だった。

 たとえ契約結婚だろうとも、顔すら知らないひとでも、睡蓮は初めて必要とされたような気がして嬉しかった。

 睡蓮は楪に、好意というよりは憧れのような感情を抱いていた。

 龍桜院の屋敷では、楪へしたためる文の内容を考えることが楽しくて、返事が返ってくることが待ち遠しくて、三年なんてあっという間だった。

 まだ、ぜんぜん足りない。もっとそばにいたい。

 ――それが、叶うかもしれない……?

 黙り込んだままの睡蓮に、楪がそっと声をかける。

「睡蓮さま?」

 睡蓮がハッとして顔を上げる。

「……す、すみません。感動してしまって……」

「感動……ですか?」

「だって、夢のようで……」

 睡蓮の頬を伝っていく雫を、楪が指の腹で優しく拭う。

「夢になどしないでください」

 優しく微笑む楪を、睡蓮はまっすぐ見つめた。

 睡蓮の小さな手には、なにもない。

 神の力を持つ楪に見合うような、たいそうな人間でも。

 けれど、それでも楪は、睡蓮が必要だと言う。

 それならば。

 睡蓮は全身全霊をかけてその愛を受け止め、そして返したい。

「私も、楪さまとずっと一緒にいたいです」

 その瞬間、楪は離縁の紙を破り捨て、睡蓮を強く抱き寄せた。

「睡蓮。愛してる」

 睡蓮は楪の腕の中で、幸せを噛み締めるのだった。

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