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第9話

 妖狐が唸る。

「小僧が生意気を語るなぁっ!!」

 妖狐が飛び上がると同時に、楪は睡蓮を強く抱き寄せた。

「睡蓮さま、少しだけ我慢してくださいね」

「わっ……」

 楪と身体が再び密着する。小さく震えている睡蓮に気付いたのか、楪は睡蓮に口を寄せ、優しく言った。

「大丈夫だから」

 楪のたったひとことで不思議と恐怖は消え、震えが止まる。

「はい」

 睡蓮は頷き、じっと楪に張り付く。

「目眩しのつもりか? こんなもの、千里眼を持つわたしにはなんの意味もないぞ!」

 地鳴りのような咆哮が、凄まじい勢いでふたりの元へ向かってくる。

 桃李が刀を構えた。

 視界は不明瞭だが、妖狐が地を蹴る音がものすごい勢いで近づいてくる。

 まずい、と思ったときにはもうすぐ目の前で妖狐が大きな口を開け、睡蓮たちに襲いかかっていた。

 その刹那。

 ピン、と強い光が一瞬、睡蓮たちの周囲を包んだ。

「ギャンッ!」

 悲鳴が聞こえた。おそるおそる目を開けると、睡蓮の目の前に小さな小狐がいた。綺麗な毛並みの、ほんの猫ほどの小狐だ。

「えっ?」

 思わず可愛い、と呟く睡蓮。

 ぺたっと地面に張り付いていた小狐は、むくっと起き上がると、

「貴様、よくも! わたしの力を返せ!!」

 と、叫んだ。声が異様に高く、やかましいだけでさっきまでの迫力はまるでない。

「なにがわたしの力、だ。ひとを喰らわなければ妖狐の姿すら維持できないくせに」

「黙れこのやろー!!」

 小狐は小さく唸りながら再び楪に飛びかかってくる。楪はそれをハエでも叩き落とすようにぺっと弾くと、冷ややかに言った。

「さて。覚悟はできているよな?」

 楪の瞳が淡く発光し――耳をつんざくほどの大きな爆発音が響いた。

「ギャァァア!!」

 小狐が悲鳴を上げる。

 突然の爆発音と小狐の悲鳴に、睡蓮は反射的に強く目を瞑る。

 空から降った落雷が、妖狐を直撃したのだった。

 ほどなくして音が止み、周囲に静けさが戻ると、睡蓮はようやく目を開けた。

 目の前にあるのは、焼け焦げた地面とぼろ雑巾のようになった小狐だった。小狐は力尽きたのか、地面に伏せたまま荒い息をしていた。

「くそっ……貴様のような人間ごときにわたしが屈するなんて……くそっ、くそっ!」

 喚く小狐に楪はゆっくりと歩み寄り、低い声で言う。

「もう一度言う。死にたくなければ、今すぐ睡蓮に魂を返せ」

 小狐は楪を見上げ、鼻で笑った。

「断る」

 楪はやれやれとため息をついた。

「……そうか。なら力ずくで返してもらう」

 楪の瞳が青白く光る。

 大地が唸り、なにもなかった地面に旋風が巻き起こる。旋風の中心から水が吹き出し、その水は束となって容赦なく小狐を覆っていった。

「なっ……なんだこれは!」

 怯んだ小狐に、楪はゆっくりと近付き、煙管の煙を吹きかけた。

 その刹那。

 パキッと音がした。

 見ると、小狐が氷漬けになっている。楪の吐息が引き金となり、小狐を覆っていた水の粒子が凝結したのだ。

 氷漬けにされぴくりともしない小狐に、睡蓮はだんだん不安を募らせた。

 もしかして、楪はこの小狐を殺してしまうつもりなのだろうかと。

「あ、あの楪さま……彼はどうなってしまうのですか? もしかして……」

「大丈夫、あなたの魂と不必要な力を奪ったら、術は解きますよ」

 睡蓮の言いたいことを察した楪は、優しく微笑んだ。小狐へ手を翳し、手のひらをくるりと翻し、見えない糸でも引くように手を自身の胸へと引き寄せた。

 小狐の胸辺りから、すうっとなにか白いものが揺らめきながら現れた。

 目を凝らして見ると、それは花だった。

 薄紅色をしたきれいな椿だ。現れた椿は、まるで花自身に意思でもあるかのように、まっすぐ睡蓮のもとへとやってきた。

 睡蓮は椿をそっと両手で包む。花はそのまま胸へと吸い込まれていった。花が消えた瞬間、睡蓮はじぶんの身体がふわりと軽くなるのを感じた。

「なんだか……身体が軽くなったような」

 睡蓮の言葉に、楪がほっとしたように笑う。

「よかった。無事、ちゃんと魂が戻ったようですね」

「……あの、楪さま」

 睡蓮は氷漬けにされた小狐から楪へ目を向け、目で訴える。

「……俺の花嫁を騙し、魂を喰らおうとした罪は重い。本来なら再び溶岩に閉じ込めたいところなのだが……」

 睡蓮の顔を見て、楪は苦笑する。

「……それは望んでいないようですね」

「私……どうしても嫌いになれないんです。彼は、私が孤独だったとき、たったひとりそばにいてくれました。もちろんそれは、私を欺くための演技だったのかもしれません。でも……楽しかったから」

 複雑な顔をする楪の向こうで、氷漬けにされたままの小狐の瞳がきらりと光る。

 また術を使うのかと楪は身構えた。……が、そうではなかった。小狐は涙を流していた。

 楪はわずかに目をみはる。

「……あなたは、すごいな。千年を生きる妖狐の心まで奪ってしまうなんて」

 楪はやれやれと肩を竦めて、小狐の身動きを封じていた氷に息を吹きかけた。たちまち、氷は銀青色の煙と化して溶けていく。

 術を解かれた小狐はその場にごろりと崩れ落ちた。

「力は奪いました。もう悪さはできないでしょう。彼女に感謝するんだな」

 楪は後半、小狐に向けて言った。

 睡蓮が小狐に駆け寄る。

「大丈夫ですか!?」

 小狐は肩で息をしながら「あぁ」と漏らす。

「……お前は正真正銘の馬鹿だな。わたしはお前を殺そうとしたんだぞ。それなのに……助けるなんて」

 小狐はときおり苦しげに息を吐きながら言った。

「ふふ……ですね。でも私、まだ死んでませんし」

 控えめに微笑んだ睡蓮から小狐は目を逸らし、ぽつりと言った。

「……変な娘だ」

 小狐はそう吐き捨てると後方に飛び上がり、ふたりから距離を取った。

「とにかく、魂は返したからな!」

「……はい」

「さっさと失せろ」

 楪が冷ややかに言う。

「フン。言われなくとも」

 小狐の憎々しげな視線に、睡蓮は少し寂しさを覚えた。小狐が立ち去るのを見守っていると、不意に小狐が振り返った。

「おい、娘」

 睡蓮は顔を上げ、首を傾げて小狐を見た。

「お前も共に来るか」

「えっ!?」

 小狐の言葉に睡蓮は驚き、瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「お前も分かっているだろう。その男は、ひともあやかしも、身内ですら信用しない。そんな男といても幸せにはなれないだろう。だが、わたしは違う。わたしはお前を気に入った」

 すかさず楪が睡蓮の前に立つ。

「おい。どさくさに紛れてなにひとの花嫁を口説いている?」

「お前らはもう離縁しているだろうが。お前に責められるいわれはない」

「それは……」

 ぴしゃりと言い返され、楪は言葉につまる。苦い顔をする楪と小狐を交互に見比べ、睡蓮は俯いた。

「そうですね……私は、楪さまとはもう他人なのでした」

 悲しいけれど。

 呟いた睡蓮と楪の間を、風が吹き抜けていく。

 風は地面に落ちた銀杏の葉を巻き上げ、睡蓮の視界を鮮やかな黄色に染め上げた。

「娘、わたしと共に行こう。土地に縛られず、自由に生きるのだ。わたしと、ふたりで」

 小狐は再び睡蓮に近付き、誘う。

「…………」

 睡蓮は少しの間を空けてから、小狐を見てはっきりと告げる。

「……ごめんなさい。素敵なお誘いですが、あなたと一緒に行くことはできません」

「……なぜだ?」

「私には、どうしても忘れられないひとがいるんです」

 そう言って、睡蓮は楪を見た。

「私は……もう死ぬと思っていました。だからぜんぶ、諦めてたんですけど……でも」

 生きられると分かった今、睡蓮の中の楪への思いはさらに大きくなっていた。

 生きることが許されるのならば、もう少し楪を想っていたい。

 桔梗が楪だと知った今、さらにその思いは強くなっていった。

「……フン。つまらん」

 小狐は興味は失せたとばかりに睡蓮に背を向けた。

「あっ……待って!」

 再び歩き出そうとする小狐の背中に、睡蓮は呼びかける。

 呼び止められた小狐は一瞬動きを止め、振り返らないまま答えた。

「なんだ?」

「……あなたの、本当の名前はなんて言うの?」

「…………幽雪ゆうせつだ」

 幽雪はわずかに顔を睡蓮の方へ向け、言った。

「幽雪さん。ひとりぼっちだった私の話し相手になってくれてありがとう」

 幽雪の耳がぴくりと動く。

「幽雪さん。あなたは――私の友達よ。あなたがそう思っていなくても、私はずっとそう思っています。……お元気で」

 幽雪はなにも答えない。ただ、前を向く直前、頷くようにひとつだけ瞬きをした。

 そして――幽雪はその場に仄かな煙を残し、消えた。


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