「口を閉じて。この妖気を吸っちゃいけない」
楪がひそやかな声で言う。ふたりの周囲を、怪しげな紫色の煙が満たしていた。薫だ。
足元を見れば、鮮やかな黄色だった銀杏の葉が、濃い茶色に変色していた。
「妖狐の毒です」
――妖狐?
睡蓮は口を袖で覆ったまま、眉を寄せた。
楪は睡蓮を挟んで向かい側にいる薫を睨みつけている。
「あの……白蓮路さまは、なぜ……」
「あいつは白蓮路じゃありません」
「え?」
「白蓮路に化けた妖狐。あなたを騙し、魂を奪おうとした邪悪なあやかしです」
目を見開き、驚く睡蓮の前に、白い狐の姿をした化け物が現れる。
「私は……妖狐に騙されていたの?」
「現人神は魂を犠牲にだれかを救うなんてことはぜったいにしません。この取引自体、有り得ないことです」
「フン。今さら気付いたところでもう遅い」
妖狐の低い咆哮混じりの声が轟いた。
彼の体から発せられる妖気は、さらに周囲を死の色に染め上げていく。
睡蓮は困惑した。
神の力を持つとはいえ、こんな恐ろしい力がひとびとや土地を守るとは思えないからだ。
「そんな……白蓮路さまじゃないなんて」
睡蓮が呟いたその直後。
睡蓮を目掛けて、紫色の炎が飛んできた。楪が睡蓮を抱きかかえ、素早く後方に飛ぶ。しかし、炎は消えることなく、軌道を変え、睡蓮をどこまでも追いかけてくる。楪は睡蓮を抱いたまま、炎から逃げ続けた。楪の腕の中で、睡蓮は訊ねる。
「では、私が魂を差し出しても楪さまは助からないの……?」
不安げな眼差しで楪を見上げる睡蓮に、楪は優しく微笑む。
「それは大丈夫ですよ。そもそも俺が死ぬという話自体、奴の嘘ですから」
え、と睡蓮の口から戸惑いの声が漏れる。
「では……楪さまは死なないのですか?」
「死にませんよ」
「そ、そっか……よかった……」
息をつく睡蓮に、楪が苦笑する。
「わたしの炎を前に、無駄話とは」
妖狐の瞳が紫色に光る。
「死ねっ!」
再び、今度はいくつもの炎が睡蓮たちを襲い来る。
「チッ!」
楪は逃げる。が、次第に追い込まれていく。
炎がとうとう睡蓮と楪に追いつく直前、ふたりのあいだを、影が横切った。
じゃきんと刃物同士が擦れ合うような音がして、睡蓮は振り向く。
楪も足を止め、睡蓮を抱いたまま振り返った。
「遅くなりました」
そこにいたのは、両手に刀を構えた侍然とした男性。
額には、大きなひとつの角。赤い瞳は鋭く、少し開いた口からは鋭い犬歯が覗いている。
ただ目が合っただけで、息すらできなくなってしまいそうなほどの迫力。
「ご無事でしたか、楪さま、睡蓮さま」
あやかしは睡蓮と楪を見て、ひそやかな声で言う。
目が合い、睡蓮はあれ、と思った。
その面立ちと声にどこか見覚えがあったのだ。鋭いけれど、どこか優しげな目元。凛としていながらも、柔らかな声。
睡蓮はこのあやかしを知っている。
「もしかして、桃李さん……?」
睡蓮が訊ねると、そのあやかしは両手の刀を下ろし、優雅な所作で会釈した。
「ご無沙汰しております、睡蓮さま」
「桃李さん……嘘、本当に? 本当に、桃李さん?」
凛としたその立ち姿は、まるで別人だ。
「あやかしの姿で会うのは初めてでしたね。驚かせてしまい、申し訳ありません」
睡蓮はぶんぶんと首を振る。
「会えて嬉しいです……!」
心がパッと、太陽に包まれたような安心感を覚えた。
「桃李、助かった」
楪が桃李に声をかける。
「お怪我はございませんでしたか、楪さま」
「あぁ」
桃李は楪へ素早く駆け寄ると、その場に跪いた。
「さて」と、楪が妖狐へ冷淡な眼差しを向ける。
「妖狐。今までは大目に見ていたが、今回ばかりは許しはしない」
楪が凄む。しかし妖狐は楪の言葉を鼻で笑い飛ばした。
「フン。わたしはただ、この娘との契約を遂行しただけだ。お前に文句を言われる筋合いはない」
「一方にしか利益がない取引を契約とは言わない」
「今さら喚いたところで無駄だ。娘の魂のうち、八つはもうわたしの中にある。残りひとつをもらったら、その娘は消える」
「……どんな卑怯な手を使って彼女を騙したのかは知らないが、この契約は破棄させてもらう。お前が奪った彼女の魂、今ここで大人しく返せばこの話は不問にしてやるが?」
「それはできないな」
桔梗の眉間に皺が寄る。
「おまえ、いったいなにが目的なんだ? なぜ彼女を狙う」
「決まってるだろ。復讐だ」
「復讐だと?」
妖狐の体が、激しい紫色の炎に包まれていく。
「お前に封印されたときから、わたしはずっとお前の一族を陥れることだけを考えてきたというのに!」
大きな咆哮が空に抜ける。
「お前が悪事ばかり働くから封印しただけだ。逆恨みされても困る。それより妖狐、お前、どうやって俺の封印を解いた?」
「フッ……解いたんじゃない。勝手に解けたのだ」
「勝手に解けただと?」
「あぁ。岩が割れたんだよ。お前の力が弱ったのか、それとも俺の力が強くなったのかは知らんがな。おかげでわたしはもう完全に自由だ」
そう言って、妖狐はにやりと口角を上げ、怪しげに笑った。
「お前に復讐をと思っていたとき、結婚したと聞いてな。わたしが身動き取れずにいたあいだに、お前だけ幸せになりやがって……。だから花嫁を見つけ出し、三ヶ月後にお前が死ぬと吹き込んでやった。そうして、囁いた。お前を生かすには、じぶんの魂を差し出すしかないと。そうしたらその娘はあっさり魂を差し出したよ。可哀想に。お前の大切な花嫁は、お前のせいで死ぬんだ。お前自身が愛しい花嫁を殺すんだよ」
妖狐の声は、楪の胸に深く、低く、重く落ちた。楪がなにも言い返せず黙り込んでいると、
「違います」
と、凛とした睡蓮の声が響いた。楪と桃李が振り向く。
「私があなたと契約したのは私の意思です。楪さまは関係ありません」
「……睡蓮さま」
「ですから、楪さまが心を痛める必要なんてひとつもないのです」
楪が苦しげな表情で睡蓮を見る。
「なぜ、あなたは顔も知らない男のためにそこまで……」
「……それは」
睡蓮は一瞬言葉につまる。
楪の言葉が頭の中をぐるぐる巡る。
なぜ、楪の身代わりになったのか。
考えるまでもない。
好きだったからだ。楪のことが。
睡蓮にとって、楪はすべてだった。
でも、そんなことはとても言えない。今のじぶんたちは夫婦ではないから。
黙り込んでしまった睡蓮に、楪は困った顔をする。
「……顔を上げて。そんな顔をしないでください、睡蓮さま。すべてが終わったら、ちゃんと話しましょう」
楪は妖狐へ目を向けた。
「……今はまず、奴に奪われたあなたの魂を取り返さなければ」
楪は睡蓮を背後に隠すと、氷のように冷たい眼差しを妖狐に向けた。
妖狐は口の端を上げ、不気味に笑う。綺麗な顔が不気味に歪み、びりびりと口が裂けていくようだった。
妖狐はこれまでよりさらに強い妖気を放ち始める。木々が枯れ、花は散り、色が消えていく。
「娘はわたしのものだ。この娘を奪って、これからはわたしがお前の代わりに東の土地のトップに立つ」
静かな咆哮。けれど、その低く深い声はどこまでも染み込み、臓器を直接揺さぶるようだった。
しかし、威勢を示す妖狐を前にしても、楪は怯まない。
楪は懐に手を入れると、煙管を取り出した。火をつけながら、ちらりと挑発的な視線を妖狐に向ける。
「大人しく魂を返せば、ペットとして可愛がってやらないこともないのに、残念だな」
妖狐の眉間がひくりと動いた。
「貴様……」
妖狐は鼻の頭に皺を寄せ、恐ろしい形相で楪を睨んでいる。
凄まじい目力に、睡蓮は肩を竦めた。一方で楪は、呑気に煙管を蒸かしている。
ふぅっと息を吐くたび、楪の唇から零れた銀青色の煙がみるみる灰色だった周囲を塗り替えていく。
「すごい……」
枯れていた草花が、見る間に元の色に戻っていく。どうやら、楪が吐く息の力のようだった。
一面に漂っていた死の気配は消え、代わりにみずみずしい植物たちの気配でいっぱいになる。
「ほら。もう花は息を吹き返したぞ。大した自信だったようだが、口ほどにもなかったな」