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第7話


 約束の日が来た。

 いつものように、桔梗には街へ出ると言って家を出た。

 桔梗宛の手紙は、机の上に置いてきた。いずれ気付いてもらえるように。

 いなくなる理由は書かず、これまでの感謝と、もうこの花柳家には帰らないことを書いた。龍桜院家との契約時にもらったお金を、給金として残して。


 空に浮かぶ雲はずいぶん低く、近く感じた。

 睡蓮は一歩一歩と歩を進め、薫との約束の場所、花柳の家よりもずっと上の山頂を目指す。

 零水山の頂上付近は、見渡す限り銀杏の黄色で染まっている。

 銀杏の葉の鮮やかな絨毯を進んでいくと、ほどなくして視界が開けた小高い丘に出た。

 その場で眼下の宿場町をぼんやりと眺めていると、ふと風がざわっと強く吹き、睡蓮の長い髪を弄んで抜けていった。

 その、刹那。

「待たせたな」

 声がして、睡蓮は静かに振り向いた。

 振り向いた先に立っていたのは、天女のように美しい容姿をした男。

 睡蓮が契約を結んだ相手――白蓮路薫だった。

「どうした? 浮かない顔だな。死ぬのが恐ろしくなったか」

 睡蓮の暗い顔を見て、薫はどこか楽しげに目を細めた。

「……そんなことは」

「なら、なんだ? 龍桜院と会えなくなるのが悲しいか?」

 問われた睡蓮は、そうとも違う、と、困惑する。

 そもそも睡蓮は、楪とは一度も顔を合わせたことがないのだから。

 薫の言うとおり、楪とこの先二度と会うことは叶わないということはもちろん悲しい。だが、それよりも睡蓮の心に影を落としていたのは、桔梗の存在だった。

 ――私、いつの間にこんなに桔梗さんのことを……。

 いけない、と睡蓮は目を閉じ、静かに深呼吸をした。

 すべての感情を、心の奥深くにしまい込んでから、ゆっくりと目を開ける。

 再び目を開けたとき、睡蓮の眼差しに迷いはなくなっていた。

「白蓮路さま。最後にひとついいですか」

「なんだ?」

「今まで、ありがとうございました」

「ん?」

 これから殺そうとしている相手に突然礼を言われた薫は、怪訝な顔をして睡蓮を見た。

「本音を言うと私……楪さまと結婚してる間、本当はちょっと寂しかったんです。……でも、そんなときあなたがやってきて、私は楪さまを守るためにこの契約をしました。魂と引き換えでしたけど、私、白蓮路さまと話すの好きでした。私に楪さまを助けさせてくれて、ありがとうございました」

「…………」

「白蓮路さま、あとのことはお願いします」

 白蓮路はじっと睡蓮を見つめ、口を開く。

「……わたしは」

 しかし、続く言葉を発する前に、ふたりの周囲に一陣の風が吹き荒れた。

 突然の突風に、睡蓮は思わず目を強く瞑る。

「睡蓮!」

 すべてを覆い隠すような強い風の隙間から、ふと聞きなれた声が聞こえた気がして睡蓮は顔を上げた。

 目の前を、銀色の羽衣が舞ったように見えた。なんだろう、と睡蓮は何度も目を瞬かせる。

「え……?」

 羽衣の正体は、髪だった。

 睡蓮の目の前に、美しい銀髪の男性がいた。

「睡蓮さま。よかった、無事でしたか」

 男性はなぜかホッとしたような顔をして、睡蓮の名前を呼ぶ。が、睡蓮は知らない男性だ。

 だれだろう、と考えて、ふと声に聞き覚えがあることに気付いた。

 この声は……。

「もしかして……桔梗、さん?」

「……あぁ、この顔を見せたのは初めてだったか」

 驚く睡蓮を見て、仮面を外していることを思い出したのか、桔梗は顔に手を持っていく。

 再び睡蓮を見て、桔梗はいつもしているように胸に手を添えて頭を下げた。

「桔梗ですよ、睡蓮さま」

 初めて見る桔梗の圧倒的な容姿に呆然とする睡蓮を、桔梗は優しく抱き寄せた。

「あ……あの、桔梗さん? 私、今とても大切な用事があって……」

「大切な用事? 妖狐との密会がですか? 夫としては、それはちょっといただけないんですが」

「……夫?」

 どういう意味? と、睡蓮は、困惑して桔梗を見る。桔梗は言う。

「俺の本当の名は、龍桜院楪と言います。正真正銘、あなたの夫ですよ」

「え……?」

 睡蓮は目を見開き、桔梗を見た。

「桔梗さんが……楪さま……?」

 突然の告白に呆然とする睡蓮に、楪はゆったりとした口調で言う。

「ずっと黙っていてすみません。実はずっと、桔梗として睡蓮さまのことを探らせてもらっていたんです」

「探るって、なにを……」

「離縁したいと言われたとき、睡蓮さまがなにか企んでいるのではないかと疑ったんです」

「企む?」

 睡蓮はきょとんとした顔をした。楪はバツが悪そうに睡蓮から目を逸らす。

「俺は今まで、ひとを一切信用しませんでした。失礼な話ですが、花嫁であるあなたのことも、初めから信用していなかった。あなたからの手紙は一度も読んだことがなかったし、差し入れもすべて桃李からのものだと思っていました。たぶん、あなたからの差し入れだと言われたら俺は迷わず処分しただろうから、桃李はあえて伝えなかったのだと思います」

「……そうでしたか」

 睡蓮はかすかに微笑んだ。

 毎月楪へ送っていた手紙。返事が来ないことは仕方ないと思っていた。けれど、読んでもいなかった、と言われたのはさすがにショックだった。

 楪は俯いてしまった睡蓮の顔へ手を伸ばすが、触れる直前でやめた。

「……離縁したあと、桃李からあなたの手紙を渡されました。桃李はあなたのことをとても信頼していて、俺にあなたを連れ戻しに行けとうるさく言いました。でも、俺はあなたの手紙を読んでもなお信用しきれなくて、桔梗と名を偽って探りにきました」

「…………そうでしたか」

 本音を言えば、涙が出そうになるくらいに悲しかった。睡蓮なりに、楪のことはまっすぐ思ってきたつもりだったから。

 でも、同時に……。

 睡蓮の脳裏に、ひとりの青年の顔が浮かぶ。

 じぶんの知らないところで、桃李は睡蓮のために動いてくれていた。睡蓮はそのことがどうしようもなく嬉しかった。

「……あなたと過ごして、なにもかも俺が間違っていたことに気付きました。あなたが権力目当てなんかではなかったこと、あなたが心から俺のことを想ってくれていたこと……それから、俺を守るために離縁を選んでくれたことも」

 睡蓮が驚いて顔を上げる。

「……私が白蓮路さまと交わした契約のことまで知っていたのですか?」

「あなたの妖気が日に日に弱っていくから、桃李に調べさせたんです。……とにかく、間に合ってよかった。まだ、あいつに最後の魂は奪われていないのですよね?」

 優しい声に、睡蓮はぎこちなく頷く。

「……はい、まだ……」

「よかった」

 楪は睡蓮に向き合うと、その頬を優しく撫でた。睡蓮は楪を見上げる。その頬はほんのり薄紅色に染まっていた。

「睡蓮さま。今さらだけど、これまであなたにしてきた仕打ちを謝らせてください。本当にごめんなさい」

「仕打ちだなんてそんな……」

 睡蓮はぶんぶんと首を横に振る。

「楪さまは、初めから私に契約結婚であることを打ち明けてくださっていましたし、手紙だって私の自己満足です。それに、お家柄やお力のことで今までご苦労なさってきたでしょうから……周りを疑ってしまうのは仕方のないことですよ」

 楪は困ったように微笑んだ。

「あなたは本当に優しいひとですね。……でも、そうだとしても、俺があなたにひどいことしたのはたしかです。しかも俺はひどいことをしている自覚すらありませんでした。この考え方は、生まれ持って俺の心に染み付いていました。女のことは利用するつもりで、側近には裏切られる覚悟で、常に裏を読むようになっていました。……でも、あなたは違った。あなたは心から優しいひとでした。なにも持たず、なにもできず、素性すらも知れない桔梗という男を優しく迎え入れてくれた」

「お、大袈裟ですよ。私の方こそ、桔梗さんにはたくさんの愛をもらいました。……その、死にたくないって、思うくらいに」

 楪は苦しげな表情で睡蓮を見つめた。

「……すみません。こんなこと……いえ、あの、こんなこと言うつもりはなくて……」

 口走った言葉に今さら動揺する睡蓮を、楪は堪らず抱き寄せた。

「あなたは、もう……」

「え……あ、あの、楪……さま」

 突然抱き締められ、睡蓮はあわあわと慌てふためく。

「……どれだけ俺を虜にするつもりですか」

 楪の言葉に、睡蓮はぽかんとした。

 しばらくぽかんとしてから、我に返った睡蓮は楪を見上げる。

「あのっ……そ、それはっ」

 そのときだった。

 楪が羽織の袖で睡蓮の口を塞いだ。

「むっ!?」


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