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第3話

 実家に戻ってきた睡蓮に与えられたのは、敷地の隅にある離れだった。

 離れには台所もトイレも風呂もあるため、生活は不自由なくできる。

 もともと離れは部屋がひとつあるだけで、生活できるような場所ではなかったのだが、戻ってくる睡蓮のため、新たに台所や風呂場、トイレが備えつけられた。ただしそれは、愛情などではない。

 睡蓮の生活を離れだけで完結させるためだ。

 出戻りの娘がいることは名家にとって恥以外のなにものでもない。周りに知られるわけにはいかないから、母屋にはできるかぎり顔を出すな、という両親の本音が透けて見えていた。

 母屋のほうからは、いつだって楽しそうな団欒の声が漏れ聞こえてくる。けれどそれは、睡蓮には関係のないことだった。

 桔梗がやってきたのは、睡蓮が実家に戻って一ヶ月ほど経った頃だったか。

 ある朝、突然仮面で素顔を隠したあやかしの青年が、睡蓮のもとにやってきた。青年は睡蓮に、この離れでどうかじぶんを雇ってほしいと頼み込んできた。

 最初、睡蓮は断った。しかし、どうしてもと言われ、睡蓮は断りきれずに桔梗を使用人として雇い入れたのだった。

 仮にも睡蓮は元龍桜院家の人間だ。この地に住む者を邪険にすることはできないという思いも心のどこかにあったのかもしれない。

 でも今は、やはり桔梗を迎え入れるべきではなかったと、睡蓮は思っていた。

 だって――。

「――睡蓮さま、次はなにをしましょう?」

 ふと至近距離で桔梗と目が合い、睡蓮はハッと我に返った。視界いっぱいに桔梗の仮面が広がって、さらにふわりと優しい香りがして、睡蓮は慌てて桔梗から離れる。

「……あ、すみません。ええと、今日はもう大丈夫ですから、あとはゆっくりしててください。あ、お茶にしましょうか。今いれますね」

「あ、それなら俺が……」

 素早く立ち上がろうとする桔梗を、睡蓮は大丈夫、と、やんわりと手で制止し、足早に台所へ向かった。

 やかんに湯を入れ、火を付ける。棚にあった茶葉が入った瓶を取り出し、急須に入れる。

 流し台に寄りかかり、お湯が湧くのを待っていると、台所に桔梗が入ってきた。

「待っているのも暇なので、やっぱりお手伝いします」

 桔梗は睡蓮に問われる前に控えめにそう言って、微笑んだ。

「お茶菓子出しますね」

「……ありがとうございます」

 どこまでも働き者な使用人に、睡蓮は小さく苦笑する。

 引き出しを開けながら、ふと桔梗が睡蓮に訊ねた。

「……あの、睡蓮さま」

「はい?」

「睡蓮さまは、あの龍桜院家のご当主さまとご結婚されていたと聞きましたが」

「……まぁ」

 一瞬、睡蓮の目が泳ぐ。しかし、桔梗は棚の奥へ目を向けたままだったので、睡蓮の動揺には気付かなかった。

「……そうですけど」

「噂だと、龍桜院のご当主さまは大変気難しい方だと伺いました。睡蓮さまはどうしてそんな方とご結婚されたのですか?」

「それは……」

 まっすぐに訊ねられ、睡蓮は返す言葉につまり、黙り込む。

「……だって、現人神さまの花嫁なんて、女の子の憧れじゃない。断るほうがどうかしてますよ」

 誤魔化すように笑って言う。桔梗は饅頭の入った箱を手に振り返った。

「では、なぜそこまで想う方なのに離縁されたのですか?」

「それは……」

 しまった、と睡蓮は思った。墓穴を掘った。

 なんと返すのが正解なのだろう。分からないが、本当のことを言うことはできない。ぜったいに。

 今度こそ言葉につまった睡蓮を、桔梗は探るような眼差しを向けた。睡蓮は目を伏せ、桔梗からの視線を拒むように遮断する。

 すると、さすがに桔梗のほうから引いてくれた。

「……すみません。出過ぎたことを聞いてしまって」

 桔梗は一度謝ってから、控えめに続けた。

「失礼ながら、実家でこのような扱いを受けているのは、龍桜院との婚姻を破棄したからではないかと」

 睡蓮はゆっくりと目を開けた。

 桔梗の言葉に、睡蓮は困ったように微笑む。

「それは違います。この生活は私にとってはふつうなんですよ。……いいえ、むしろ以前よりずっといいかもしれません」

 睡蓮がそう言うと、桔梗の顔にかすかに戸惑いの色が滲む。

「以前よりいい……? これが、ですか」

「はい。実は私、もともと花柳家の子供じゃないんです」

「ですが、あなたはこの花柳家のご長女で……」

「養子なんです。十五年前、子供に恵まれなかった両親が、孤児だった私を家族に迎え入れてくれたんです。でも、そのあとすぐに妹ができて……うちはそこそこ有名な家でしたから、今さら私を捨てることは体裁が悪かったんだと思います。だから、表向きは長女として育てられました」

 あくまで、表向きとしてだけ。

 睡蓮は、人前ではいつもじぶんを偽って生きてきた。

 名家の長女として、しっかり者で幸せな娘のふりをした。

 ふりといっても、特別演技というわけでもなかったと思う。日頃から虐げられているわけではなかったし、手を上げられたこともない。食事を抜きにされるわけでも、無視されるわけでもない。

 ただ、家族みんな、睡蓮に無関心なだけ。

 睡蓮から話しかけなければ、会話が生まれることはない。学校での様子を聞かれることも、テストの成績を確認されることも、いじめに遭っていないかと心配されることもない。

 花柳家で睡蓮は、透明人間になる。ただ、それだけのことだ。

「血が繋がっていないのだから、私が愛されないのは仕方のないことです。龍桜院に嫁ぐことができたのも、花柳家を継ぐのは妹と決められていたからでしたし。むしろ、運が良かったのですよ」

 龍桜院家の花嫁は、東の土地に住む人間ならだれもが憧れる立ち位置だ。しかし、豪商である花柳家の子供には、本来家を継ぐという責務がある。しかし、花柳家には男子がいない。

 本来なら長女である睡蓮が家を継ぐべきではあるが、血の繋がりを重要視する両親は、妹の杏子が継ぐべきだと考えていた。

 だから、睡蓮が龍桜院の花嫁に選ばれたことは両親にとってこれ以上ない話だった。

 なぜなら厄介だった養子を土地の最高権力者の花嫁にできるのだ。おかげで花柳家は神の加護を正当に受けることができるし、厄介者も排除できる。

「……すみません、俺、なにも知らないで勝手なことを……」

 睡蓮の話を聞いた桔梗は言葉が見つからないのか、それきり黙り込んでしまった。

「……あの、あんまり気にしないでください。離れでの生活は、案外快適で私気に入ってますし。私こそ、今まで黙っていてすみませんでした」

「…………」

 それでも、桔梗は黙り込んでいた。

 お湯が沸いた。

 睡蓮が動き出そうとすると、桔梗はそれを手で静かに制し、火を止めた。保温用の陶器へお湯を移しながら、桔梗はぽつりと言った。

「……知らないということは、罪ですね」

「え?」

 聞き取れず、睡蓮が思わず聞き返すと、桔梗はやかんをそっと置いて、睡蓮に向き直った。

「……睡蓮さま。今から少しお時間ありますか?」

「え? えぇ、ありますけど……」

「では、今から街へ行きませんか?」

 突然の誘いに、睡蓮はきょとんとした顔をする。

「街? えと、でもお茶が……」

 せっかくいれたのに冷めてしまうのでは、と言おうとする前に、桔梗が睡蓮の手を取った。

「お茶は帰ってきてから飲みましょう」

 桔梗はそう言って、睡蓮を連れ花柳家を出た。


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