蝉の鳴き声が響く竹林の中に、睡蓮の暮らす離れはあった。
楪と別れて三ヶ月、実家の敷地内にある離れでの暮らしにもずいぶん慣れてきた初夏。
睡蓮は縁側に座り、とある人物から届いた手紙を読んでいた。
夏の盛りが迫っている。まだそう暑くはないが、頬に当たる陽射しは日に日に濃くなっている気がした。
「睡蓮さま。洗濯、終わりました」
「あ、
縁側でぼんやりしていた睡蓮に声をかけてきたのは、実家に戻ってから雇い入れた使用人の桔梗だった。
名前を呼ばれた桔梗は小さく頭を下げ、睡蓮の傍らにひざまずく。
「お休み中でしたか」
「すみません。桔梗さんを働かせておいてじぶんだけのんびりと」
「とんでもない。無理を言って屋敷に置いていただいているのは、俺のほうですから」
桔梗はふと、睡蓮が手に持っていた紙の束を見る。
「……それ、お手紙ですか?」
「あ……はい」
睡蓮は少し照れたように頷きながら、愛おしげに手紙へ視線を落とす。
「どなたから?」
桔梗の問いに睡蓮はただ小さく微笑み、手紙を丁寧な仕草で封筒の中へしまった。桔梗も、それ以上は聞かない。
「そろそろ夏本番ですね」
のんびりとした睡蓮の声に、桔梗が「そうですね」と頷く。頷いた拍子に、耳にかけていた桔梗の長い銀髪がさらりと前に落ちた。まるで銀河の糸のような美しい髪が、仮面を静かに撫でる。
――きれい。
いつも狐の面を被っている桔梗の素顔を、睡蓮は知らない。それでも、佇まいだけでもそう思った。
本人に直接訊ねたことはないが、桔梗はおそらくあやかしの類だろうと睡蓮は思っていた。
高貴なあやかしは桔梗のように顔を隠すことが多いのだ。
理由は知らないが、桔梗にはきっと余程の事情があるのだろう。
でなければ、睡蓮のような出戻り女のところで働きたいなどと言うわけがない。
「睡蓮さまは、夏はお好きですか?」
「うーん……あんまり」
桔梗の問いに、睡蓮は苦笑した。
「暑いのが苦手ですか?」
「いえ。なんというか……きらいというわけではないのですけど。ただ、夏はイベントが多いから」
海、夏祭り、花火大会。
睡蓮はひとつも行ったことがない。
行く友達などいなかったし、かといって家族とも行けなかった。両親はいつも、妹だけを連れていったからだ。睡蓮はいつも家で留守番の役目だった。
口の中に鉄の味が広がった。
知らず知らずのうちに、唇を噛み締めていたらしい。
最初睡蓮は、実家に戻ってからは離れでひとりひっそりと暮らすつもりだった。
実家とはいえ、今さら出戻ってきた睡蓮に居場所はなかったからだ。
睡蓮がこの花柳家へやってきた経緯も、その理由のひとつだった。
もともと孤児だった睡蓮は、五歳のとき花柳家に養子として迎え入れられた。子宝に恵まれなかった両親によって。
花柳家に来た頃、両親は睡蓮を実の子のように可愛がった。
しかし、睡蓮が花柳家の娘になってまもなく、両親の間に子供ができた。それが、妹の
杏子が生まれると、それまで睡蓮に向いていた両親の愛と関心はあっさりと妹に向いた。
そのうち睡蓮にあやかしを感じ得る特殊な力があることが発覚して、それ以来、家族はさらに睡蓮を敬遠した。
――私は用済みなの? 私はもう、いらない子?
妹だけを可愛がる両親を見るたび、睡蓮はいつも心の中でそう問いかけた。
直近で家族が笑顔を向けてくれたのは、睡蓮が現人神の花嫁に選ばれたときだ。だが、中身が契約結婚であることを正直に打ち明けると、やはりあっさり興味を失くした。
そのため睡蓮は身ひとつで嫁ぐこととなった。見送りも、お祝いもなかった。
龍桜院との婚姻期間中、睡蓮には楪が用意した屋敷が与えられた。
その間、睡蓮は離れて暮らす夫、楪に毎月手紙を送り続けた。
本人から手紙の返事が来たことはなかったが、代わりに彼の側近を名乗る
中には楪の普段の仕事の様子や、彼の好物などが書かれていた。
差出人である桃李からの配慮だった。顔も知らない相手と結婚した睡蓮を哀れに思っていたのだろう。少しでも楪を理解できるよう、手紙にはかなり細かく、丁寧に楪の性格がしたためられていた。
おかげで睡蓮は楪を愛することができた。
顔も知らない相手だったが、桃李の送ってくる手紙の中に楪の血や肉が、体温がちゃんと書かれていたから。
いつか、顔を見せてくれる日が来ることを信じて、睡蓮は龍桜院の屋敷で生きていた。
しかし婚姻から三年が経った頃、睡蓮は楪に離縁を申し込んだ。
突然の離縁の話だったが、楪はすんなり睡蓮との婚姻関係を解消した。
睡蓮はそれが、ちょっとだけ寂しかった。じぶんから言い出したこととはいえ、もう少し渋ってくれるかと思ったのだ。
しかし、そんなことはなかった。楪は睡蓮を、完全に契約相手としかみていなかったらしい。
お前の代わりはいくらでもいる。
そう突き付けられた気分だった。
睡蓮は、ここでも結局必要とされなかった。
結局、楪と顔を合わせることのないまま、睡蓮は実家へ戻ることとなった。
実家へ戻る日、唯一桃李が見送りに来てくれた。
ずっと手紙でやり取りはしていたものの、桃李と会うのはこのときが初めてだった。
桃李は鬼のあやかしだ。垂れた目尻が印象的な好青年だった。
鬼といえばあやかしの中でも特に高貴なあやかしだが、桃李の場合はにこにことして、さらに人の姿に変化していたからか、親しみやすさがあった。
睡蓮が丁寧な手紙を今までありがとう、と礼を言うと、桃李は困ったように微笑み、お力になれず申し訳ない、と言った。
その言葉に、どれだけ睡蓮が救われたことか。
睡蓮は最後、龍桜院家を出るときに桃李にひとつ頼みごとをした。
それは、手紙のことだった。
実家に帰ったら、睡蓮はまたひとりになる。憂鬱な日々が待っている。そんな日々を乗り切るために、この手紙を心の支えにしたいと。
この三年、睡蓮は毎日桃李の手紙の中にある楪の姿を想像し、恋をした。顔も知らない相手だったけれど、どうしようもなく焦がれた。
孤独な生活を送っていた睡蓮にとって、手紙はなによりの心の支えだったのだ。
睡蓮の思いを聞いた桃李は、もちろん、と言ってくれた。
そうして、睡蓮は楪によろしくと桃李へ告げ、龍桜院家を離れた。
花柳家へ帰ってきてからというもの、睡蓮はことあるごとにその手紙を読み返し、心の支えにしていた。