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第6話

 雨の中、傘も差さずに私は走っていた。

 しばらく走って、走って、いつものバス停まで来たところで足を止める。

 ハッハッと、薄く開いた唇の隙間から息が漏れる。

「ちょっともう、なに? めっちゃ走るじゃん」

「わっ! あ、あっ……すみません!」

 手を離して我に返る。今日は我に返ってばっかりだ。いや、我を忘れてばかりなのか。

「だからそれ。もう! すぐ謝らなくていいってば」

 指摘され、口を噤む。

 椿先輩はつくづく私の悪いクセに敏感だ。

「もう、びしょびしょ」

「傘、置いてきちゃったから……」

 紺色の制服は、雨のせいでさらに濃く染まっている。

 タオルで水滴を拭いながら、スマホ画面を開いて時間を確認した。

 時刻は午後五時五十三分。

 五時のバスは行ってしまったばかり。次のバスが来るまで、あと五十二分もある。ここへ来てようやく、バスが一時間に一本しかなかったことを思い出す。

 ――どうしよう。

 バスが来るまでまだ時間はたっぷり過ぎるほどある。

 バス停の前で立ち尽くしていると、椿先輩に袖を引かれた。

「ほら、座ろ」

「あ……はい」

 その手に従い、ベンチに座る。

「……あの、椿先輩。すみません。巻き込んでしまって」

 謝るなら今しかないと、私は椿先輩に頭を下げた。

「べつに、あんたが巻き込んだわけじゃないでしょ。あたしが勝手にやったことだから」

 そういえば、あのとき椿先輩は空き教室にいた。もしかして、私が学年主任に怒られていることに気付いてきてくれたのだろうか。わざわざ?

「……あの、椿先輩……あのとき、空き教室にいましたよね」

「あーまぁね」

 椿先輩はほんの少し気まずそうに目を泳がせて、笑った。

「どうして、来てくれたんですか」

 私の問いに、椿先輩は黙り込む。しばらく沈黙してから、不意にぽそりと言った。

「あんたがいなくなっちゃいそうで怖かった」

 どきりとした。

「ってのは、冗談。……ま、強いて言うなら、手が届くからだよ」

「手?」

 顔を上げて、椿先輩を見る。

 今、手と言ったのだろうか。雨音でよく聞こえなかった。

「……あいつらのことは助けられなかったけど、あんた……しずくには、あたしの手がまだ届くから」

 その苦しげな顔を見て、彼女がどうしていつもあの空き教室にいるのかが、唐突に理解できた。

 椿先輩はずっと、亡くなった仲間たちを助けられなかったことを後悔していたのだ。椿先輩はまだ、事故の日から立ち止まったままでいるのだ……。

 心臓を掴まれたように苦しくなる。

「……ありがとうございました。私……椿先輩のおかげで、」

 私の声を、椿先輩が優しく遮る。

「いいよ。わざわざいやなこと思い出そうとしなくて」

 ふっと、不甲斐ない声が漏れそうになってぐっとこらえて頷く。

「……はい」

 俯くと、長い前髪が私の視界を暗くした。

 やっぱり、この感じは落ち着く。

 椿先輩のおかげで助かった。とても。

 でも、彼女を救ってくれるひとは、どこにいるんだろう。

 ――……私に、なにかできないかな。

 ぎゅっとじぶんの手首を握る。

『手が届くから』

 椿先輩の言葉が頭の中で響いた。

 手がある。私にも。椿先輩と同じ、手が。

 坂の向こうから、バスのエンジン音がする。バスのライトが、濡れた車道を明るく照らした。じゃっとアスファルトに溜まった水が弾かれる音がする。

 それを見て、私は立ち上がった。

「椿先輩、」

 椿先輩が顔を上げて私を見る。私は彼女の透けるように白い顔を見下ろして、言った。

「駆け落ち……しませんか」

「…………は?」

 ぽかんとする椿先輩の腕を掴んで、私は再び向こう側のバス停まで走り出す。

「ちょっ……なに、いきなり!」

「前、言ってくれたじゃないですか。駆け落ちしないかって」

「う、うん……それは言ったけど」

 向かいのバス停につき、足を止めて椿先輩を振り返る。椿先輩は、ぱちぱちと長いまつ毛を揺らして瞬きをしていた。

「しましょう、駆け落ち!」

「……マジで?」

「マジです」

 真顔の椿先輩に、私も真顔で返す。すると、椿先輩ぷはっと空気を吐くように笑った。

「いいね! 行くか!」

 そのひとことを合図に、私たちは反対方向のバスに乗り込んだ。


 バスに乗り込んでからは、会話はなかった。

 私はただ、じっとじぶんの足元に広がっていく水溜まりを見下ろしていた。

 バスはトンネルを抜け、山道をくだって、どんどん知らない街に入っていく。

 バスに揺られて二時間。空は既に真っ暗で、バスに乗る前よりも雨足は弱くなっていた。

 車窓の向こうには、初めての街。初めてひとりで、こんな遠くまできた。いや、ひとりではないか。

 だいきらいなあの街を、私はずっと飛び出したかった。それなのに、いざ離れてみたら怖くて仕方がない。

 ――弱いなぁ、私は。

 怯える私の手を、今度は椿先輩がぎゅっとして歩き出した。

「海行こっか」

「海?」

 椿先輩を見る。

「好きなんですか?」

「べつに。ただ、無言でも波の音があるから気まずくないじゃん? あたしら、べつに友だちでもなんでもないし」

 そう言われて思い出す。

 そういえば私たちは、友だちではない。歳も違うし、出会ってまだ間もなくて、お互いのことをほとんどなにも知らない。

 ただ、同盟を組んでいる。

 拠りどころがなくて、心にとてつもなく大きな穴を抱えていて、いつも不安で死にそうな私たち。

『この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて……』

 ふと、椿先輩が学年主任に言った言葉を思い出す。

「……そういえば椿先輩、私のこと知ってたんですね」

「ごめんね、黙ってて」

 申し訳なさそうに、椿先輩が微笑む。

「いえ。ちょっと驚いただけです。高校では、まだ噂になってないと思ってたから」

 噂はウイルスよりも簡単に広まる。そのことを私はだれより知っていたはずなのに。

 私は今、平穏に過ごせている。

 そう思い込むことで、どうにかしてじぶんの心を守りたかったのかもしれない。

「大丈夫。なってないよ」

 顔を上げる。

「え、じゃあどうして……」

「あたしとあんた、実は中学一緒だったんだよ」

「えっ!?」

 驚く私を見て、椿先輩が笑う。

「やっぱり、知らなかったか。オネーサン、ふつうに考えてよ。同じバス使ってる時点で近所でしょ」

「たしかに……」

「といってもね、なんとなく聞いたことあるくらいだったけど。あんたが噂の子だっていうのは知らなかったよ。さっきの学年主任の話でピンときただけ」

「……そうですか」

「……もしかして、お母さんが自殺したのも、その噂の内容が関係してる?」

 黙り込んだまま頷く。

「母は、強いひとでした。周りの視線も気にしないようなひとで、私が母のせいでいじめられても鼻で笑ってるような、とにかく世間とは乖離かいりしたひとで。……でも、最終的には負けました。心を病んで死を選んだ」

「……そう」

 椿先輩は静かに相槌を打つ。もしかしたらだけど、と、椿先輩が静かな声で語り出す。

「お母さんは、強がってたのかもね」

「……強がってた?」

 ――強かったんじゃなくて?

「娘がじぶんのせいでいじめられてる。それを気にしない母親なんていないよ。でもさ、それを悔いたら、娘の存在自体を否定することになっちゃうから、謝れなかったんじゃないかな。……だから、なんでもないような顔をしていたのかもしれない」

「……そう……なのかな」

 ……もしかしたら。椿先輩の言うように、母は私のために、ずっと……。

 そう考えそうになって、目を伏せた。

 今となっては、母が私のことをどう思っていたのかなんて分からない。この先も、一生、知ることはないのだ。

 椿先輩が空を仰ぐ。

のこされた私たちは、前を向くしかない。どんなに悔やんだって、過去は変えられないから」

 過去は変えられない。死んだひとは戻ってこない。

「たまったもんじゃないけどね」

 そう、たまったもんじゃない。だから、私たちは駆け落ちしてきたのだ。あの地獄から。

 決意の滲んだその横顔をじっと見つめ、それから私は車窓へ目を向けた。

 タイミングよく、トンネルから抜ける。

 開けた視界の先にあるのは、きらきらとわずかな光を反射してきらめく大海原だった。

「うわ、海だ……」

 思わず呟く。

 本当に来てしまった。

 海なんて、どれくらいぶりだろう。

 最後に行ったのは、小学生のときだろうか。

 記憶は曖昧だが、おそらくあのひとと行ったのが、最後だった。


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