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最終話

 浜辺から上がる頃には、すっかり夜の気配が濃くなっていた。

 駅までの道をふたり並んで歩きながら、椿先輩がふと呟いた。

「ねぇ、帰りさ、駅のコンビニでなにか買ってかない?」

 椿先輩の何気ない言葉に、ふと現実が戻ってくる。

「……帰る……?」

 そうか。帰るのか。

 椿先輩が私を見る。

「帰りたくない?」

「……いや、そういうわけじゃないですけど。ただ、帰りのこととか考えてなかったから」

 なにしろ、私たちがしたのは駆け落ちだし。

 ――そっか。私たち、帰るんだ。

 友達がいないあの学校に。待っているひとがいないあの家に。

「あたしもそう。でも、あんたのおかげで帰る気になれたよ」

「私……ですか?」

「そ」

 私の心を察したように、椿先輩が私の手を包み込んで言った。

「大丈夫だよ。あたしがいる」

 椿先輩はすっと目を細めて、優しく微笑みかけてくる。長い前髪のせいで、よく見えないのがもどかしい。

「あたしにも、しずくがいる。いてくれる?」

 視界が潤んでいく。

「私で、いいんですか」

 込み上げてくる思いをこらえるように唇を噛み締めて、椿先輩を見上げる。椿先輩は滲んだ世界でにっと笑った。

「当たり前!」

「……私、なにもできないのに」

 椿先輩が笑う。

「んなことないよ。あたしを救ってくれたのは、あんただよ。あんたはあたしの特別。あんたは、あたしの基地」

「基地?」

「そう。言うなれば……秘密基地、みたいなものかな」

「秘密基地……」

「あたしさぁ、大人になったら、もっと強く、もっと優しく、もっと傷つかなくなるんだと思ってた。でも違うよね。大人になるまでに、みんな基地を作るんだよ。基地の中でだけ、弱音とか、不安とかを吐くんだ。それで、その基地を出たらみんな大人のフリをする。そうやって、みんな生きてるんだと思う」

「大人の、ふり……」

「そうだよ。だから、あたしたち〝基地〟になろう? それで笑うんだ。そんな苦しい顔してないで、笑おう!」

「…………」

 感情が、ぐちゃぐちゃになって胸に落ちる。私を必要としてくれていることが、嬉しくてたまらない。

「……はい」

 頷いて、椿先輩の手を握り返したとき、ポケットのスマホが振動した。

 もう片方の手で、スマホを確認する。メッセージアプリの通知だった。

「……牧さんだ」

「あぁ、牧さんって、あのとき庇ってくれてた子?」

「……はい」

 あのとき、とは、私が学年主任に注意を受けていたときのことだ。

 メッセージを開くと、牧さんからの長々とした文章が目に入った。

『さっきはごめんね。葉桜さんの話、盗み聞きしちゃったみたいになって……でも、あの先生の言いかたはないと思って、つい我慢できなかったの。でも結果、葉桜さんを傷付けるかたちになっちゃって、本当にごめんなさい』

 椿先輩はスマホの文面を見て、優しい声で言った。

「ほら、やっぱりいい子じゃん」

「……でも、こんなの、本心じゃなくたっていくらでも言える。牧さんはクラスでも人気者だし、どうせ私が馴染んでないから、一応声かけておこうとか思ってるだけです。放っておいてくれたらいいのに、なんで私なんかにかまうのか……」

 呟く私に、椿先輩はそんなの簡単だよ、と言う。

「彼女はただ、しずくと仲良くなりたいだけじゃないかな」

「……まさか」

 そんなの有り得ない。私なんかと友だちになりたい子がいるなんて、ぜったいにない。

「……うん。しずくはこれまでたくさん裏切られてきたんだもんね。そう思っちゃうのは分かるよ。でも、今度は違うかもしれないよ?」

「今度は……?」

「あたし、なんとなく分かるよ。彼女がしずくと仲良くなりたい理由」

「え……どうして?」

「だって」

 不意に椿先輩が私の顔に手を伸ばす。

 椿先輩の細くて長い指先が、私の前髪を優しく、でも大胆にかきあげた。

 視界がパッと明るくなって、目の前に椿先輩の顔がある。

 緊張で顔が強ばる私を見て、椿先輩が大丈夫、というように微笑む。

「ほら。しずくって、こんなにきれいな目してるから」

「え……」

 クリアな視界で椿先輩と目が合う。

「初めてしずくを見たとき、思った。あんたの目、もっと近くで見てみたいなって。あんたの視界に映ってみたいなって」

 そうは言うが、椿先輩のほうこそ、びっくりするくらい過不足のない容姿をしている。

 艶やかな白い肌に、たまごのような滑らかな輪郭りんかく。赤い唇に、ほんのり薄紅に染まった頬。高い位置でひとつに結ばれた髪は漆黒で、なにより美しい瞳を髪と同じ色のまつ毛が縁どっている。

 ――やっぱり、きれい。

 だれかを見てきれいだと思ったのは、母以来初めてのことだった。

「あたし、ひとの目がだいっきらいだった。ぎょろぎょろ動くから気持ち悪くて。でも、あんたの目だけは違ったの。感動したんだ。黒目がおっきくて、白目は透き通っていて。こんなにきれいな、澄んだ瞳の子がいるんだって」

 それを言うなら、私だってそうだ。

「私こそ、椿先輩を見たとき、絵画みたいって思いましたよ。まるで絵の中から飛び出してきたような、そんな感じがして……」

 椿先輩がふっと笑う。

「あたし、あんたとは友だちにはなりたくない」

「え」

「恋人でも、友だちでも家族でもない、たったひとりの特別がいいんだ」

 なるほど。

「だから、同盟って言ったんですか」

「そ。だって、同盟ってなんか特別っぽくて、カッコいいでしょ!」

 そうやって笑う椿先輩はいつもより子供っぽかった。

「だから」

 一転、しんとした声に、私は口を閉じる。

「もし裏切られたら、あたしがそいつをぶん殴ってやる」

「椿先輩が?」

「おう」

「……それは心強いかもですね」

 そう言ったとき、再びスマホが振動した。

『私、入学したときからずっと葉桜さんと仲良くなりたかったの。それでタイミングはかってたんだけど、なかなか声かけられなくて。球技大会でチャンスだって思って、突っ走っちゃったんだ。でも、今はちょっと反省してる。もし、葉桜さんが私のこときらいだったら、すごくしつこくしちゃったよね。ごめんね』

 まっすぐな文面に、胸が無性に苦しくなった。

 牧さんは私と正反対のひとだ。

 いつもにこにこしていて、みんなから愛されているクラスの中心的存在。

 私のことなんて、ぜったい心の中でバカにしてると思っていた。となりで萎縮いしゅくする私を見て、影で笑ってるんだと、不潔ふけつな人間と思っているのだと、勝手に思い込んでいた。

 ――でも……。

 学年主任に責められていたとき、牧さんは真っ先に私を庇ってくれた。

 私にビビデビの話をしてくれたときも、牧さんはただ、私にじぶんの好きなものを知ってほしかっただけなのかもしれない。

 ただ、『好き』を共有したいと思ってくれていたのかもしれない。

「……信じてみても、いいのかな」

 ぽそりとした呟きは、あっという間に波の音にかき消されていく。だけど、となりに佇む椿先輩だけは聞いてくれていた。

「お母さんがきらいで、クラスメイトがきらいで、先生も、じぶんもだいっきらい。でも本当はさ、好きになりたいんだよね」

 ずっと隠していた本音を言い当てられて、びっくりする。

「……なんで、分かるんですか」

 だれにも言ったことないのに。ずっとだれにも分かってもらえなかったのに、どうして椿先輩は。

「分かるよ。だってあんたは、あたしだもん」

 ほろっと、なにかが頬に落ちた。雨かと思ったら違くて、それは涙だった。

「あたしも、みんながだいっきらいで、大好きだから。強がっても、ひとりはやっぱり寂しいから」

 椿先輩の指の腹が、私の目からこぼれた涙をそっと拭う。

「それ、似合うじゃん」

 それ、とはなんだと思って、そういえば視界が明るいことを思い出す。

 前髪が横に流れていたままだった。

 じっと椿先輩を見る。それから、周囲を見回した。

 ――遮るものがない世界って、こんなにも鮮やかだったんだ……。

 目に映す価値なんてないと思っていた世界は、あまりに美しく私の目に映っていた。

 ――すごく、きれい。

 すべてが、額縁がくぶちの中の一枚の絵のように見える。

 そっと、前髪を押さえてみる。

「……ピン、借りればよかったかな」

「明日、借りたらいいんじゃない」

「……明日」

 ――明日か。そうか。

 私には、明日があるんだ。椿先輩にも。

「顔を上げると、いろんな色があるよ」

「え……」

「下を向いてると、見えるのってアスファルトとか石とか土とか、暗くてつまらない色ばっかり。……だから、顔を上げるの。顔を上げればきっと、いろんな色があるから」

 ――そっか。

 世界はきっと、あの頃からなにも変わっていなかったのだ。

 変わったのは私。

 あの頃の私はだれも信用できなくて、だれかと目が合うのが恐ろしくて、俯いてばかりいた。

 少し顔を上げれば、こんなにきれいな世界が広がっているのに。そのことに気付く余裕もなかった。

「……あの、椿先輩」

「ん?」

「さっきの、本当ですか」

「さっきの?」

 椿先輩が首を傾げる。

「もし私が裏切られたら、ぶん殴るって話」

 じっと見つめると、椿先輩はまっすぐに見つめ返してくれた。

「うん、ほんと。手が壊れるまで殴ってやる」

 なんて、大真面目な顔をして言うものだから、私はつい吹き出して笑う。

「……ふっ……怖いですね」

 ふふっと声を漏らして笑うと、つられたように椿先輩も笑った。

「しずくはそうやって笑うんだね」

「え?」

「あたし、ずっと見たかったんだよ。しずくのその顔。思ったとおり、めっちゃ可愛い」

 と言って、再び笑った。

「……そっちこそ」

 人前で笑ったのなんて、いつぶりだろう。少し照れくさいけれど、案外いやじゃない。

「ねぇ、椿先輩」

「なぁに」

 私たちは、友だちではない。恋人でも、家族でもない。

「また、駆け落ちしましょうね」

 ただ同じバス停を使っていて、とある雨の日にたまたま出会って、不思議な共通点で結ばれた私たち。

「うん」

 私たちは、同盟関係を結んでいる。

 お互い心の窓をちょっとだけ開ける関係。弱さを見せられる関係。

 奇妙で、だけど唯一無二の特別な……。

 言うなれば、そう。

 お互いがお互いの傘のような、冷たい雨からじぶんだけを守ってくれる、そんな存在。

「さて。帰るか」

 椿先輩が私に手を差し伸べてくる。

「はい」

 私はその手を取って、立ち上がった。

 家に帰ったら、以前、祖母にひどいことを言ってしまったことを謝ろう。

 母にもちゃんとお線香をあげて、近況報告をしよう。

 それから、明日になったら牧さんにちゃんと今日の謝罪をして、精一杯バドミントンの練習をしよう。

 そしてもし、もしもまだ勇気が残っていたら、牧さんのことを、優子ちゃん、って呼んでみたい。

 バス停までの道を歩きながら、そんなことを思った。

 状況が変わったわけではない。

 大切なひとが戻ってきたわけでもない。

 ただ、今日この広い大海原で叫んで、私と椿先輩の中のなにかが変わった。

 ほんの、少しだけ。

 見上げた先の空には、もったりとした雲が横たわっている。けれど、よく見ればそこにはわずかな晴れ間があって、星がちらちらと瞬いていた。

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