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第5話

 球技大会の放課後練習が終わり、渡り廊下に出ると、ひとつだけ空き教室の窓が開いている。そこにはやはり、椿先輩の姿が見えた。

 彼女が『雪女センパイ』だと知って、分かったことがある。

 椿先輩がいつもいるあの空き教室。

 あそこは、スキー部の部室だったのだ。

 彼女はいつもあの場所で、たったひとり、亡くなった部員たちを想っているのだろう。

 事故から一年が経った今も、あの部室で。

「――ちょっと、あなた!」

 渡り廊下を見上げていたときだった。

 運悪く、以前の全校総会で指導を受けた学年主任に遭遇した。

 長い前髪の隙間から目が合って、まずい、と思ったときにはもう遅かった。

「あなた! 検査で前髪切りなさいと指導したわよね? なんで変わってないの?」

 いらいらした口調で、学年主任は私に詰め寄る。

「あ……あの」

 まずい。

 私はどうしようと内心焦る。焦れば焦るほど、頭が真っ白になってなにも思いつかない。

 こんなところで、こんなにたくさんのひとがいる前で注意されたら注目されてしまう。

 だれにも見られたくないのに。だれの視界にも入りたくないのに……。

 なんでこのタイミングで見つかってしまったんだろう。今すぐどこかに逃げ出したい衝動に駆られる。

「ちょっと聞いてるの?」

「……す、すみません」

 言いながら、ふと椿先輩の言葉が脳裏を掠めた。

『それ、クセ?』

 また、謝ってしまった。

 ……そうだ。これは、私のクセだ。

 だって、私は存在自体がだれかを苦しめるものだから。そう言われ続けて育ったから。

 手をギュッと握り込む。

 いつもこうだ。私は。

 大人の言いなりになって、振り回されて。

 そんなじぶんがいやで、変わりたいのに変われない。こうしていつも、俯いたまま時が過ぎるのを待つだけで。

「眉毛の上まで、前髪を切りなさいと言ったでしょう。なんでそれができないの?」

 ねっとりとしたいやな視線を感じる。

「すみません……」

「謝ってもだめ。親がいないことも、いじめられてきたことも理由にはなりませんからね」

 ――……なにそれ。なんで今、そんな話を持ち出すの?

「あなたのお母さんの話は聞いてるけど、親が親なら子どもも子どもね。言っておくけど、私は今までの教師のように甘くはしませんからね」

 怒りか虚しさか、全身がぶるぶると震え出す。

 そんな私の様子を見ても、学年主任は私を親の仇のような鋭い眼差しを向けて、責め続ける。わざとみんなに聞こえるように、大きな声で。

「泣いたって無駄よ。校則なんだから、特別扱いはしませんからね。明日切って来なかったら……」

 べつに、特別扱いしてほしいわけじゃない。そんなこと望んでない。

 なんで分かってくれないんだろう。

 周りはいつも、いつまでそうすねているのとでも言うような目で私を見る。

 事実は変わらないんだから、どうしようもないことなんだから、いい加減大人になれとでもいうような。

 なんで?

 なんで、私がそっち側に変わらなきゃいけないの。

 私が悪いの?

 前髪が長いことの、なにがいけないの?

 頭がくらくらする。

 いよいようずくまりかけたそのとき。

「先生っ!」

 だれかがやってきた。

 わずかに顔を上げると、牧さんがいた。牧さんはいつもより少し早口で、私の代わりに弁明する。

「あ、あの! 分かってます、大丈夫です! 葉桜さん、美容室行くって言ってたんですけど、たまたま昨日美容室に行けなくなっちゃっただけなんです。ね? 葉桜さん」

 牧さんの手が私の腕に絡みつく。まるで、私たちは分かり合ってますとでもいうような距離に、強い違和感を感じる。

 ――離して。どうせ、私のことなんてバカにしてるくせに。

「そうなの?」

 学年主任がじろりと私を見る。私は頷くことも否定することもできないまま、目を逸らした。

 沈黙が落ちた。

「あ、そうだ! 前髪、ピンで止めよう? あの、先生、それでいいですよね?」

「まあ、止めるなら……」

「ほら。葉桜さん、私のピン貸すから。それで……」

 牧さんが私の目にかかる前髪をそっと上げようとする。私は咄嗟に、その手をバッと振り払った。

「やめてっ!」

「きゃっ」

 牧さんが小さく声を上げる。

「ちょっと、葉桜さん!」

 学年主任が牧さんに駆け寄る。

「だ、大丈夫です」

 沈黙が落ち、ふたりの視線が私に向く。

「こっちは大丈夫じゃない」

「葉桜さん?」

「もうやめてよ……いい加減にしてよ。あんたらが心の中で笑ってること、こっちだって察してるんだよ。だからなにも見たくなくて、前髪伸ばしてるんだよ! ぜんぶ……ぜんぶ、あんたらのせいなんだよ!」

 ひといきに吐き出したせいで、呼吸がどうしようもなく早く、苦しくなっていく。

「葉桜さん……ごめん、私なにか気に触るようなことしたかな?」

 牧さんが気遣うような声をかけてくる。胸の中に、じんわりとした罪悪感が広がっていく。

 風船が膨らみ過ぎて、ぱんっと弾けたようだった。

「……あ、ご、ごめん。ごめん、なさい」

 我に返って、いつものじぶんに戻る。

 ――どうしよう。私、今とんでもないことを言ってしまった。それに、牧さんの手を払い除けてしまったし……。

 彼女は、きっと今気分を害している。これまで以上に、私をきらいになったかもしれない。

 ――どうしよう、まだ球技大会の本番が控えているのに。どうせなら、球技大会が終わってからならよかったのに。

「ごめんなさい……でも、私、前髪をいじるのだけはいやです」

「だから、それは校則違反だって言ってるでしょう! ひとりだけ特別扱いなんてできないの。何回言えば分かるの」

 わがままなのは分かっている。でも、それでもいやだ。

 私にとって前髪は、なくてはならないものだ。これがなかったら、きっと外に出る勇気すらなくなってしまう。

 でも、それを分かってくれるひとは、いない。やっぱり、本音を言ったって無駄だったんだ。私には、本音を言う資格すら、ない――……。

 そのときだった。

「あのぉ、すみません」

 すぐ横で声がして、ハッと肩が揺れた。

 振り返るとそこに、椿先輩がいた。その顔を見た瞬間、どうしてか、涙が出そうになるくらい心がホッとした。

「ちょっと聞きますけど、先生って苦手なものないんですか?」

 びっくりするくらい、のんびりとした声だった。学年主任が眉を寄せる。

「ちょっと、あなたいきなり来てなにを……」

「あたしは、雪山がちょっと苦手です。前に雪崩に巻き込まれて死にかけたことがあったから。ってまぁ、先生ならそれくらい知ってますよねぇ。先生、昨年もいましたもんね」

 学年主任の喉が鳴る。が、椿先輩は気にしない。

「……あのねぇ先生。あたし、みんなに雪女って言われてるんですよ。……先生も知ってますよね? 全学年で言われてますしね。でも、なーんにも言ってくれないですよね。あたしがみんなから噂されて、孤立してても、教師らしいこと、なんにもしてくれない」

 後半、彼女の声から温度が消える。

「それは……今の話とはなんの関係もないでしょう」

 学年主任がわずかに狼狽うろたえる。

「ありますよ」

 椿先輩は畳み掛けるように声を張った。

「先生は都合がいいんです。生徒を守りもしない教師の言うことを、だれが聞くんです? 生憎あいにく、あたしたちだってバカじゃない。言葉の中に含まれた嫌味も悪意も、こっちはちゃんと気付いてますからね」

「わ、私はそんなこと……」

「はっきり言わなきゃ分かりませんか。さっき、わざとこの子をさげすむような発言をしたでしょ。この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて、わざと、言いましたよね。ひとの髪型指摘する前に、今、じぶんの顔見てみたらどうですか? ふつーにドブスですよ」

「なっ……」

 発言を指摘された学年主任は、とうとう耳まで赤くして言葉を失くしている。それでも椿先輩はかまわず続けた。

「やめろって言われてやめないのは、それなりに理由があるからです。この子はべつに特別扱いしてって言ってるわけじゃない。人間扱いしてって言ってるんですよ。……あ、それに、理由も聞かずに頭ごなしに注意するのは指導じゃなくて、ハラスメントなんじゃないですか?」

 言いながら、椿先輩がちらりと私を見た。

 学年主任へ向ける厳しい眼差しと違ってどこまでも優しい眼差しに、涙が出そうになった。一度ふぅっと息を吐いて、学年主任を見る。

 学年主任の青筋が入った顔面を見てハッとする。

 ――ヤバい。

「せ……先輩、あの、もういいです。もういいですから」

「はぁ? よくないよ。あんたもいやなことはちゃんといやって言いなよ。大人だから言ってることがぜんぶ正しいなんてことはぜったいにないんだから。ずっと思ってたんだよ。あたしたちが事故に巻き込まれたときも、雪崩に巻き込まれたコーチ以外全員旅館で飲んだくれてたんだよ。ずっと、ふざけんなって思ってた。言ってやりたかった。だって、あいつらにはもう口はないから。あたしが……」

 さらに挑発するような発言をする椿先輩に、私はさらに青ざめる。

「……あ、あの、とりあえず行きましょう!」

 私は椿先輩の手をグッと掴んで、逃げるように渡り廊下を歩き出す。

 牧さんの横をすり抜ける直前、彼女と目が合う。

 牧さんはなにか言おうとしたのか口を開いたが、私はかまわず椿先輩の手を引いてそのまま通り過ぎた。

 背後から学年主任の我に返った「待ちなさい!」という叫びが聞こえたが、椿先輩の手を掴んでしまった私は、今さら立ち止まれるはずもなかった。

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