その日の帰り道は、どしゃぶりだった。
空は灰色どころか墨色に近いくらいの色で、大粒の雨がアスファルトや畑に強く打ち付けている。
傘を伝って落ちる粒が、私の足元を容赦なく濡らした。
まるで、私の心を表すような空模様だった。
赤い傘の取っ手を強く握って、バス停へ向かう。だれもいないバス停のベンチに座って傘を閉じると、足元に小さな水たまりができた。
『切ってきなさい』
『返事は!』
蘇るあの声。
雨音のせいだろうか。妙な気分になってくる。
私は、特に女にきらわれる。
その生い立ちと、この見た目と、性格のせいで。
努力で私に直せるところなんて、ひとつもない。
私は、どうしたらいい?
もし……もしも今、この場で私が自殺をしたとしたら、あの学年主任は少しは考えをあらためるだろうか。
私がなぜ前髪を伸ばしていたのか、少しは考えようとするだろうか。
じぶんの発言で私がどれほど傷ついたのか。
じぶんの発言のせいで死を選んだかもしれないと、罪悪感を抱くだろうか。
……私は、前髪を伸ばすことさえ許されないのだろうか。
ひとの視線が怖い。そう言ったら、あの学年主任はなんと言うのだろう。
私を取り巻くいろいろなものへの不満と、じぶんへの苛立ちが、荒々しく胸の中で渦を巻いていた。
「……死ぬ勇気なんてないのに、バカみたい」
ぽつりとひとりごちていると、水が弾ける音がした。
顔を上げると、透明なビニール傘をさした女生徒がいた。あのひとだ。
「となり、いい?」
「あ……はい。すみません。どうぞ」
私は慌てて謝りながら、身体を端に避ける。その拍子に、ベンチに立てかけていた傘が倒れてしまった。いけない。
私が拾うより先に、赤い傘にすっと白い手が伸びた。
「はい」
女生徒が、拾った傘を差し出してくる。
「……すみません」
謝って、私は傘をその手からそっと受け取る。
と、そのとき。
「それ、やめなよ」
はっきりとした声がした。
「え?」
顔を上げると、女生徒と目が合った。女生徒はどこか睨むような強い眼差しを私に向けていて、私は戸惑い、怖くなって目を逸らす。
けれど、逸らしてからも、彼女の言葉が気になって仕方ない。
――やめるって、なにを?
しかしそうは聞けずに、私は女生徒をちらりと見る。彼女はもう私のことなんて見えないかのように目を閉じていた。
雨足が強くなったような気がした。
――ブォォォ。
化け物のような音を出して、バスがやってきた。
プシュッと空気の抜けるような音とともに、乗り口が開く。
乗り込もうと立ち上がるが、となりで一緒にバスを待っていた彼女は目を閉じたまま、起きない。
乗らないのだろうか。でも、バスは一時間に一本。これを逃したら、また一時間、この場所で待つことになる。
「あの……」
小さく声をかけるが、女生徒は起きない。肩を叩こうかとも思ったが、それはなんとなく申し訳ない気がした。
そうこうするうち、バスがクラクションを鳴らす。
バスの乗り口を見ると、その先の運転席にいる運転手と目が合った。
乗るならさっさとしろ。
運転手の目が言っている。
――どうしよう。
なにも言えず、そのまま突っ立っていることしかできない私の前で、バスの扉が閉まる。
結局、私まで乗り過ごしてしまった。
バスのおしりを眺めながら、ため息をついてバス停のベンチを振り返ったときだった。
女生徒が目を開けてじっと私を見ていた。
「わっ」
思わず驚きの声が漏れ、慌てて両手で口元を押さえる。
――え、なにどういうこと? もしかしてこのひと、ずっと起きてた?
女生徒はバスが来ていたことに気づいていて、さらに私が声をかけたことにも気づいていたのかもしれない。
――じゃあ、わざと乗らなかったってこと? なんで?
長いまつ毛を何度か揺らして、女生徒がふとバス停の前に立っていた私を見上げる。
「座る?」
あの日と同じ、雨音に遠慮するようにひそやかな声だった。
「……ありがとう、ございます」
私は戸惑いつつも、再びとなりに腰を下ろした。
次のバスが来るまで、あと一時間。
どうやって時間を潰そうか考えていると、声をかけられた。
「ねぇ、あんた」
びくりとする。
「なんで乗らなかったの、バス」
乗らなかったわけじゃない。乗れなかったのだ。だれかさんのせいで。
言いたかったけれど、結局私の口はなにも言葉を紡がない。
「よかったらだけど」
女生徒が無視する私にかまわず続ける。
「あんた、あたしと
「――へ?」
――どうめい? ドウメイ? あ、もしかして、同盟?
私は、聞き間違いかと耳を疑った。
「あの……どういうことですか?」
おそるおそる訊ねると、彼女は言った。
「ひとりぼっちの似た者同士、あ、雨宿り同盟とかど? なんかよく会うじゃん、特に雨の日にさ」
「……?」
意味が分からない。命名のセンスも、似た者同士、というのも。
「え、なに。まさかあんた、あたしのこと知らない?」
こくりと頷くと、彼女はさらに驚いた顔をした。
当たり前だ。知るわけがない。
「あたし、雪女よ」
「……は……?」
「スキー部の雪女。噂くらい知ってるでしょ」
スキー部。雪女。その言葉でピンときた。
彼女は、『雪女センパイ』だ。彼女は、昨年起こってしまった悲劇の事故の生き残りなのだ。
このひとが。
「……もしかして、昨年事故があったスキー部の……元部員、ですか?」
その表現が正しかったのかどうかは分からない。ただ、それ以外の言葉が頭に浮かばなかった。
「そ。全校生徒に知られてると思ってたのに、そんな反応なのね」
『全校生徒に知られてる』
さっぱりとした口調で、女生徒は言う。
「……すみません」
知らなかったことを謝ると、女生徒がくすっと笑った。
「それ、クセ?」
「え?」
「なんでもかんでも謝るの。じぶんを下げすぎるのは、よくない。傘渡したときもそうだけど。ああいうときは、『すみません』じゃなくて『ありがとう』って言うもんでしょ」
言われて初めて、じぶんが謝ってばかりだったことを自覚する。
「あ……そ、そうですよね。すみませ……えっと、ありがとうございました」
またすみませんと言いそうになって、やはりそれがじぶんのクセになっているのだと理解する。
「あんた、名前は?」
「え?」
「名前。あたしは椿みぞれ」
みぞれ。
きれいな名前。だけど、その名前は冬や雪を連想させる。だから『雪女センパイ』なのかと納得した。
「……私は、葉桜しずくです」
名乗り返すと、椿先輩は静かに微笑んだ。
「しずく。あたし、いつもここでだれかを待ってたんだ」
「待ってた?」
「あたし、ぼっちだから」
「ぼっち……」
「仲が良かった子たちはみんな部活にいたからね」
みんな、部活にいた。
それは、つまり。みんなあの事故で亡くなってしまったということだ。
このひとも、ひとり。
私と同じで、孤独なひと。
「ほかに、いないんですか」
「いないよ。分かるでしょ」と、椿先輩は肩をすくめる。
「周りはあたしをどう扱っていいのか分かんないんだよ。遠巻きにこそこそ噂するだけで、ぜったい直接話しかけてはこない。こうやってバス停で居眠りしてても、みんなあたしを避けて通り過ぎていくか、無視してバスに乗り込んでいく」
彼女は、学校で噂になっている『雪女センパイ』。
彼女が言う光景は、容易に想像がついた。
みんなどう接していいのか分からなくて、彼女から距離をとる。いろいろと、考え過ぎてしまうのだろう。
「嬉しかったよ、あんたが声かけてくれて」
向けられた笑みに、私はわずかに動揺する。
「……バスは行っちゃいましたけどね」
私も椿先輩も、結局バスには乗れていない。声をかけた意味はなかった。
「そんなの関係ないよ。あんたはあたしを無視しなかった。それが嬉しかったって言ってんの、あたしは」
「…………」
ストレートな言葉に私は戸惑い、言葉につまる。
椿先輩は、ずっと寝ているふりをして待っていたのだ。
声をかけてくれるひとを。じぶんを気にかけてくれるひとを。
最初、雨の中このバス停で椿先輩を見かけたとき。私は、彼女に声をかけずにバスに乗ってしまった。
そのとき彼女は、どんな気持ちだったのだろう。
「……次のバスが来るまで、あと一時間もありますね」
「十二分」
「え?」
十二分、とはなんだろう。私は首を傾げた。
「向かいのバス停に、反対方向のバスが来る。ねぇ、今から一緒に駆け落ちしない?」
「……えっ?」
――か、駆け落ちっ!?
突拍子もない提案に、私は目を丸くした。
「行く宛てもなく、ただふらふらってバスに乗って、終点まで行くの。明日のことも、じぶんのことも、なにもかもぜんぶ、忘れて」
「……忘れられませんよ、そんな簡単に」
そんなことで忘れられるなら、とっくにやっている。とっくにどこかへ旅に出ている。
「そんなことないよ。あんたは、難しく考え過ぎだよ」
「…………」
「あたしさ、あの事故でみんなが死んで、スキー部が廃部になったとき、思ったんだ。あたしもほんとは死んでるのかもって。あたしは既にみんなと一緒に死んでいて、ただそれに気付いてないだけなのかもって。みんなと同じように死んだから悲しくないし、涙も出ない。クラスメイトたちには見えてないから無視されてるのかもなってさ」
「……涙、出なかったんですか」
私の問いに、椿先輩は乾いた笑みを浮かべて頷く。
「出なかった。ヤバいよね。だから雪女なんて言われるんだよ」
椿先輩はそう言って、自嘲気味に笑った。
「……私もです。……私も、母が自殺したとき、泣けなかった」
「そっか。……なんで自殺したの? お母さん」
「……知りません」
男にふられたことがショックだったのか、それとも子育てに絶望したのか。はたまた、世間の目に耐えられなくなったのか。
どうでもいい。考えたくもない。勝手に私を産んで、死んだやつなんか。
母がいなければ、母が私を産まなければ、私はこんなに生きづらい今を送らなくて済んだ。だから私は、ぜったいにあのひとを許さない。
私は立ち上がり、空に向かって赤い傘を広げる。
「……すみません。私、歩いて帰ります」
「あそ。じゃあね」
椿先輩は、私を引き止めるでもなく、あっさりと手を振った。
家についたのは、それから二時間後のことだった。
「ただいま」
言いながら引き戸を開けて中に入ると、祖母は、玄関先にある電話を使ってだれかと話をしているようだった。すぐに通話は終わり、祖母は受話器を置く。そしてちらりと私を見て、目を見張った。
「おかえりなさい……って、あなたびちょ濡れじゃない」
「……学校から歩いてきたから」
びちょ濡れになった私を見て、祖母は一瞬顔をしかめてから、洗面所へタオルを取りに行った。
「ほら、早く拭きなさい」
差し出されたタオルを受け取って、黙ったまま濡れた制服や身体を拭いた。
「……しずくちゃん、」
祖母が私の名前を呼ぶ。
「なに」
「もうすぐお母さんの命日でしょう。だから、今年は一緒に……」
お墓参りに行きましょう。そう言われる前に、私は祖母の声を遮った。
「行かない」
「しずくちゃん」
「行きたいなら、ひとりで勝手に行けばいいでしょ。私を巻き込まないでよ」
「巻き込むってあなたね……じぶんの母親の命日でしょう」
「はぁ?」
苛立ちで、声が震えそうになる。
「母親? 子どもを置いて自殺したあのひとが? 子どもがその生い立ちのせいでいじめられてるのに、じぶんだけさっさと死んだあのひとが?」
「それは……たしかに、あなたも辛い思いをしたかもしれないけれど……あの子だって辛かったのよ」
あなたも辛い思いをしたかもしれないけれど?
「……なにそれ。私より、あのひとのほうが辛かったって言いたいの? だから、自殺を許せって? ふざけないでよっ……! だったら産まなきゃ良かったじゃない! 勝手に産んで、勝手に死んで、残されたこっちはずっと後ろ指を指されて生きてきたんだよ! あのひとのせいで私は、ふつうにすらなれないの! 私のほうがずっとずっと辛いんだよ!!」
「それは……ごめんなさい、しずくちゃん……」
祖母が言葉につまるのを見て、どうしようもない苛立ちが込み上げてくる。
「……っ、もういい。お風呂入ってくる」
それだけ言って、私は脱衣所に逃げ込む。荒々しく扉を閉めると同時に涙が出そうになって、私は奥歯を強く噛み締める。
――バカじゃない。祖母に言ったって、なんにもならないのに。
洗面台に手をついて、心を落ち着けるようにゆっくりと息を吐く。
私はいったい、どうしてここにいるんだろう。
祖母は昔の母の話ばかり。
あの子は昔は素直で優しくて、とってもいい子だった。いい子だったから、あんな男に騙されたの。すべてあの男が悪い。
いつも、そう言う。
でも、私がお腹に宿ったとき、産むという選択をしたのは母だ。
私を産めば、あの男がじぶんを見るとでも思ったのだろうか。そんなわけないのに。
母は素直だったんじゃない。ただ無知で、おろかだったのだ。