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第3話

 翌日から、球技大会の練習が始まった。

 牧さんとバドミントンに出場することになった私は放課後、毎日練習に駆り出されていた。

 運動はもともときらいではないけれど、リレーと違ってバドミントンなどの球技は苦手だ。

 前髪が長い私の視界は、あまりいいものじゃない。

 バドミントンの小さくすばしっこく移動する羽根を目で追いかけるのは難しかった。

 練習中、私と牧さんは「すみません」と「ドンマイ!」を繰り返した。

 二週間目の放課後練習が終わったあと、牧さんが「葉桜さん」と声をかけてきた。

「今日、一緒に帰ってもいい?」

「あ……ハイ」

 断れず、頷く。

 帰り道、牧さんは相変わらずにこにこ笑顔で私に話しかけてくる。

「ねぇ、葉桜さんって、家どっちのほう?」

「今やってるドラマ、見てる?」

「葉桜さんってきれいな髪してるよね。トリートメントはなに使ってるの?」

 次から次へと、忙しなく質問が飛んでくる。

 せっせとその質問に答えながら、私は必死に足を前に踏み出す。

 彼女はとなりでがちがちに緊張して、萎縮している私を見てどう思っているのだろう。私の顔が引きつっていることに気付いてないなんてことはあるまい。

 彼女の視線と質問を交わしつつ、やっと校門の前まで出る。

 絶望する。

 まだ、ここ。

 彼女との分かれ道まで、まだ先は長い。

「ねえねえ葉桜さん!」

 牧さんが相変わらずの笑顔で私に絡んでくる。

 牧さんのその笑顔が、私はやっぱり苦手だと思った。


 それから、さらに一週間。

 相変わらずワンテンポ遅れて羽根に反応する私に、とうとう業を煮やしたらしい牧さんが言った。

「ねぇ、ずっと思ってたんだけどさ。葉桜さん、その前髪邪魔じゃない? 私ピン持ってるから貸そうか?」

 やっぱり、言うと思った。

 途中でいやになるなら、最初から偽善者になんかならなければいいのに。

 言いたい気持ちをぐっとこらえて、私は片手で前髪を押さえ「大丈夫」と返す。

 球技大会ごときのために前髪をいじるなんて、有り得ない。

「えーでもさぁ、視界不良そうだよ? 危ないし、きっと上げたほうが羽根もよく見えると思うよ! それに、葉桜さんの瞳ってすっごく……」

「大丈夫」

 言われなくたって、そんなこと分かってる。分かっててもできないし、したくないのだ。

「……大丈夫。ミスばかりでごめん。練習、頑張るから」

「あーうん、そっか……」

「…………」

 私と牧さんの間に沈黙が横たわる。

「……そろそろ終わろっか」

 牧さんが体育館の時計を見て言った。私は頷き、片付けを始める。お互い言葉はなく、黙々と作業をした。

 その帰り道、私たちは肩を並べて帰りながらも、なかなか会話は弾まない。そもそも弾んだことなどないが。

 微妙に気まずい空気が居心地悪く、私は気を紛らわすように空を見上げた。

 私たちがいる渡り廊下からは、灰色の曇り空が見える。

 ふと、視界の端に校舎が目に入った。窓ガラスには、空が反射して映っていた。そのうちひとつだけ、開け放たれた窓がある。

 窓には人影があった。バス停であったことがある、あのひとだ。

 窓の縁にもたれかかるようにして、どこか遠くを眺めている。

 バス停で出会ったあの日から、私の目はよく彼女を映すようになっていた。

 名前も、先輩なのか同級生なのかも知らない彼女。

 梅雨の季節なのに、その場所だけ色彩鮮やかに見える不思議。

 放課後。昇降口を出て、校門前で立ち止まって、学校のほうを振り返る。

 いつも彼女は決まった空き教室の窓際にいる。なにをするわけでもなく、ただぼんやりとどこか遠くを眺めている。

 ――なにを、見てるんだろう。

「あ、ねぇねぇ葉桜さん」

 ぼんやりしていたら、牧さんに声をかけられた。

「あ、なに?」

 顔を上げると、うっかり牧さんと目が合い、慌てて目を逸らした。再び歩き出す。

 牧さんは動揺する私にかまわず話しかけてくる。

「葉桜さんは、ビビデビって知ってる?」

「ビビデビ……あぁ。あのアイドルの」

「そうそうっ! 私ね、ビビデビの大ファンなんだっ! センターの西野にしのくん、かっこよくない?」

「あ……うん。そうだね」

「だよねっ!」

 とりあえず同調してみるけれど、私はビビデビについて名前を知っているくらいで、メンバーなんてひとりも知らない。

 これ以上ツッコまれたら、ボロが出る。どうかこれ以上話を広げないでと祈りながら歩く。

「…………あー……なんかごめん。もしかして、そんなに好きじゃなかった……かな?」

 少し声が遠くで聞こえて振り向くと、少し離れたところに牧さんが立っていた。

「……あ……いや、あの……そういうわけじゃなくて」

 焦るあまり、早歩きで牧さんを置いてけぼりにしてしまっていたようだ。

 牧さんは困ったような、ぎこちない笑みを浮かべて、頬をかいた。

「あの……ごめんね。私ばっかりしゃべっちゃって。その……葉桜さん、なにが好きなのか分かんなくて……好きでもない話ばかりでつまんなかったよね、ごめんね」

 ハッとした。

「あ、あの……」

 ――そうじゃない。そうじゃないのに。

 言葉が浮かばない。

「あ、じゃあ私、こっちだから。また明日ね!」

 牧さんは、逃げるように私と反対方向の道を駆けていってしまった。

「あ……うん、また……」

 牧さんの背中がずいぶん遠くなってから、私はようやく口を開く。

 ――傷付けてしまっただろうか。そんなつもりはなかったのに。

 私はただ、人気者の彼女となにを話せばいいのか分からなくて、ただこれ以上きらわれたくなかっただけなのに。

 ひとと接するのって、難しい。

 気落ちしたまま、とぼとぼとバス停まで歩いた。

 胃の辺りがむかむかとする。

 別れ際の牧さんの顔が頭から離れない。

 牧さんはきっと、前髪の件で気まずくなってしまったから、気を遣ってくれていたのだ。それを私は、さらに気まずい状況にしてしまった。

 ――どうしたら良かったんだろう、私は。

 ため息を漏らしつつ、バス停に着く。

 ベンチに座りぐーっと足を伸ばしていると、だれかがとなりに座った。

「やあ」

 その声にハッとする。

「あ……」

 そこにいたのは、絵画から抜け出てきたような美しいあのひとだった。

 どうも、と小さく頭を下げる。

 ぽつぽつ、とトタンの屋根を叩く音がする。灰色の空からは、同じ色の水玉が降ってくる。

「そういえばあんた、友だちいたんだね」

「友だち……?」

「背が高くて、きれいな子。さっき一緒に話してたでしょ」

 牧さんのことだろう。

「……べつに、友だちじゃないです。あのひとは、球技大会で同じチームなだけのクラスメイトで……」

「そうなの? あの子はすごく仲良くなりたそうにしてたけどね」

 ――牧さんが?

「……そんなわけないです。彼女はただ、私がひとりだったから声をかけてくれただけで。どうせ本当の私を知ったら、離れていくだろうし」

「そー? まぁ、べつに、どーでもいいけどさ」

 どーでもいい。……なら、わざわざ言わなくたってよかったのに。

 彼女はつまらなそうにバス停の屋根の先を見ていた。

 期待はしない。

 それでいつも裏切られてきたのだから。

 その横顔にほんの少しムッとしながら、私はじぶんの足元に視線を落とした。

 相変わらず、不思議なひとだと思った。



 ***



 いやなことが起こる日は、いつだって雨の日だった。

 転校して、クラスメイトにいやな言葉を突きつけられたのも、母が自殺したのも、梅雨真っ只中の六月だった。

 雨を見ると、いろんなものを思い出す。

 灰色の世界と壁一枚挟んだ教室を照らすしらじらとした蛍光灯とか。

 蛍光灯に照らされて、空気中で白く光るほこりとか。

 それから、雨音をかき消すクラスメイトたちの嬌声きょうせいとか。

 私の噂をする、囁き声とか。

 じぶんの家に虫のように群がるパトカーの赤色とか。

 袋に詰められて運ばれていく変わり果てた母の姿とか。

 雨の中、泣き崩れる祖母の姿とか。

 六月はきらいだ。

 六月は雨が多いから。

 私の苦しさは、いつも雨とともにある。

 私を雨から守ってくれる傘は、ない。

 生まれたときから、私はずぶ濡れのまま。今も。

「葉桜さん、ちょっと前髪長いですね」

 全校総会後の制服指導で、学年主任の標的となってしまった。

 学年主任は五十代の女性教師だ。厳しいことで有名だった。

「前髪は、眉毛の上の長さになるように。明日までに切ってきなさい。いいですね?」

「…………」

 わざわざほかの生徒たちにも聞こえるような、大きな声で言われてしまう。奥歯にぎゅっと力がこもった。

「返事は」

「……はい」

 小さく返事をすると、「声が小さい!」とさらに大きな声で怒鳴られた。

 みんなの視線を痛いほどに感じる。

 一年生だけでなく、上級生や先生たちの視線もあった。

 背中が、冷水を落とされたように総毛立つ。

 見えない圧を感じて、私は顔をあげられなくなる。

 ――あぁ、もうやだ。

 見ないで。

 私は見世物みせものじゃない。

 今すぐこの場から逃げ出したい衝動に駆られるけれど、そんなことをしたらもっと目立ってしまう。私は動きそうになる足をぐっと抑え、「はい」ともう一度返事をする。

 返事をしながら心の中で、ぜったい、死んでも切ってやらない。そう思った。

 口の中は、からっからになっていた。

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