ある朝のこと。
私はベッドの中で体を動かそうとしたのだけれど、どうしても上手く行かなかった。昨晩あった金縛りのせいだろうか。
「……これどうやって起きるんだろう」
頭の中で起きる動作を思い出すが、まず寝返りをうつ動作ができない。幸い声は出すことができたので、お母さんに助けを求めた。
「晶子、どうしたの」
「お母さん、起きられないのよ」
私はベッドの中で悲痛な叫びをあげた。
「晶子にもこの日が来たのね。遅かったけどようやくかしら」
「いやだぁ!」
私はお母さんの言葉を拒否した。
我が家の呪われた血が目覚めたのだろうが、その事実を受け入れたくはなかった。
「そうはいかないでしょう、まだモードの切り替えがうまくいかないでしょうけど、慣れればコントロール出来るようにもなるんだし」
お母さんが言う。
「さ、頭の中にレバーをイメージして↑入力をしてみて?」
「こ、こう?」
私は掛け布団を撥ね飛ばしてベッドの上で飛び跳ねた。ベッドの上に立った私は、勝手にファイティングポーズを取っていた。
「ほら出来た、起き上がりの時には↑
「……そんなの知らない!」
私の抗議の声もお母さんには届かなかった。
「さ、早く着替えて。→→して下まで降りてらっしゃい」
そう、我が家の家系はモードが入ると「格闘ゲームの操作体系で体が動いてしまう」のである。
すべては、お父さんがいけなかった。お父さんは売れないヒールプロレスラーだったのだが、若いころに流行っていた「
それからというもの、お母さん、私、弟の匡にも格闘ゲームを買い与え、暇があっては練習台にさせられていた。おかげで、いつしかお母さんも匡も「頭の中にレバーとボタンをイメージする」ということが出来るようになっていたという。
もちろん、私もお父さんの英才教育の影響で、
「ちょっと待ってよ!まず席につけないんだから!」
私は泣きそうな声をあげながら、食卓に着こうと↓レバーをイメージする。ところが、どうやっても中段座りができず、地面に近いところでしゃがみこんでしまうのだった。
「中段すわりは↓→
「机の上のモノはどう食べればいいの?」
「慣れてないときは、モーションキャンセルで食べてたけど」
お母さんが言う。新聞を読んでいたお父さんもちょっと心配そうな目で私を見た。
「いいかい、モードが入ったときは、
「……そんな難しいことまだできないわよ」
お母さんはその会話を聞きながら、トーストや牛乳、サラダを手際よくお盆の上にのせて床の上に置いた。
「慣れないうちは仕方ないわね。↓長入力は出来るでしょ?」
「それくらいなら……」
「お盆の前に座って↓
言われた通りに↓長入力して床にしゃがんだ。あとは
「ああっ」
私はその場で足払いをぶちかました。
「それ、
渾身のキックによって、食卓のテーブルの足は折れ、椅子は吹っ飛んだ。私は散らばった牛乳とサラダを頭から被ることになった。
「もうやだ……!」
「……というわけでさ、大変なのよ」
「ふーん、晶子もついに目覚めちゃったのかー」
こんな体になっても、家族は薄情なもので、学校に行かなければならなかった。
話しているのは、クラスメートで親友の絵美。
彼女は無頓着に私の後ろから「や、おはよ!」と言って肩を叩いてきた。いつもだったら振り返ってハイタッチをするところだが、体は反応してしまい、間合いがあと数センチ近かったら、←←
「前から言ってたじゃない、うちの家族が変だって話。わが身に降りかかると大変なのよ」
「晶子、その歩き方もそのせいなの?」
私は→を頭の中でイメージしながら歩く。時々イメージを間違えて→→でダッシュしかけてしまい、そのたびにピクピクと動いてしまうのだった。
「まだ一定速度での入力に慣れてないの」
「ふーん、そっか……そんなんで今日の道場の掃除当番できる?裕子先輩も来るよ?」
「あ……祐子先輩に会えるんだった!」
ああ、私の愛しき女神様……裕子先輩に会える嬉しさもあるが、よくよく考えたらこの体で掃除ができるんだろうかとも不安になる。
「あ、危ない!」
絵美が叫んだ。
野良猫が無造作に車道に飛び出そうとしていたのだ。
このままでは車に轢かれてしまう。私は無意識のうちに→→でダッシュをしていた。そうして↓
「こら、気を付けないとダメよ」
私はそう言って、↓
絵美はその一連の私の動きの流れを見て、しみじみ呟くのだった。
「晶子……やっぱ向いてるんじゃない?」
「よしてよ!」
学校は散々だった。
着席時に間違って机を壊し、立ったまま授業を受けねばならなかったし、手を上げようと思えば、↑
「絵美ぃ……もう疲れたぁ……」
私は放課後の校舎裏で絵美に弱音を吐いた。
少しでも被害を少なくするためには、人気のないところで過ごすしかなかったのだ。
「そうねぇ、さすがの私ももう限界だよ」
絵美は一生懸命私の動きをフォローしてくれていた。予測不可能な私の動きを体を張って抑えてくれていたのだが、それでも被害は拡大し、私も絵美もあちこちに青あざを作っていた。
「……あれ、佑子先輩じゃない?」
「えっ、先輩?」
佑子先輩は高等部の2年生で、私たち合気道部の大先輩。その長い黒髪に、凛とした佇まい。それでいて、中等部の私たちにも分け隔てなく挨拶してくれる。頭脳は明晰。文武両道とまさに非の打ちどころのない女神であり、憧れの存在であった。
佑子先輩……ああ、いいなぁ。汗かいた先輩にタオルやスポドリの差し入れをして、頭なでられたりしたら、もう死んでもいいのになぁ。
私は先輩の姿を見て、つい長↑入力をしてしまう。
「飛び跳ねてないでさ、ヤバいよ、晶子」
「そうだった……どど、どうしよう」
憧れの先輩が近づいてきた。普段ならキャアキャア言いながら先輩に近づくところであるが……今日の私は危険すぎたのだ。
「晶子さん、絵美さん。ごきげんよう」
佑子先輩は、そんな私たちの動揺に気づかないのか、優しく声をかけてくれた。
「こんにちは、先輩」
「ここ、こんにちは」
私は何とか平静を保とうとした。心は湧き上がる喜びに包まれていたが、体は裏腹にファイティングポーズを取ろうとする。まだモードの切り替えが上手くできない以上、迂闊なことはできない。私は
「あら、晶子さん、どうしたの?」
「いえ、これには深いわけがありまして……」
「あらまぁ、それは大変ね」
先輩は多少目を丸くしたが、絵美の説明で納得したのか、硬直する私を見ても変な顔をしなかった。私は、その先輩の心遣いがうれしくて、またファイティングポーズをとる自分が情けなくて少し涙をこぼした。
「ほら……晶子、もう少しリラックスしなよ」
「先輩、絵美……ありがとう」
私は先輩に失礼がないように、
「あわわわわ!」
私は半泣きになりながらモーションを止めようとした。その思いとは裏腹に、右手の人差し指はゆっくりと先輩の顔に向けられた。そして、チッチッとその人差し指を振って見せたのだ。
「かかってきなさい!」
先輩も絵美もきょとんとしていた。そう、
「ちちち、違うんです先輩!」
「今日の晶子はおかしいんです先輩!」
私は泣き出してしまい、絵美は懸命に場を取り繕おうとする。
「あらあら……面白いこと。お二人ともいらっしゃい」
佑子先輩はそういうと、私たち二人を道場に連れて行った。口元は微笑んでいたものの、先輩の目は笑っていなかった。
不意の挑発は本気で相手を怒らせるとお父さんが言っていたのを、私はうすぼんやりと思い出していた。
数分後、私は先輩と相対していた。
佑子先輩は合気の構えを取る。私は本当に泣きながら許しを請うた。
「違うんです、わざとじゃないんです!」
「いいえ、わざとじゃなくても無礼は無礼。きちんと礼を叩き込ませていただきます」
絵美は立ち合い人として、私たちが正対するのを見ていた。
「晶子、先輩本気だよ……」
「知ってる!」
絵美に言われるまでもなかった。あくまでも凛とした構えを崩さない佑子先輩と相対しているのだ。その強さと気合からくる圧力で、私は
「晶子さん、行きますよ」
「やや、やめてください!」
先輩が踏み込んできた。私は慌てて
先輩はフェイントのジャブを腕で受け、ローキックをジャンプしてひらりとかわす。
「晶子さん、さすがね。猫ちゃんを助けただけのことはあるわ」
私の伸びきった足を先輩が取ろうとしたので、慌てて↓
「ええっ、先輩見てたんですか?」
→中
「ええ、びっくりしたわ。うちの後輩にあんな技を持って居る人がいるなんて!」
先輩はそれらをガードし、逆に掌打を放ってくる。私は小
「だから、違うんです。体が言うことをきかないだけなんです!」
先輩の息遣いがわかる距離にいるのに、先輩の匂いがわかる距離にいるのに、なんなんだこのすれ違いは。私は悔しくて悔しくて涙を流し続けた。
「ならば、大人しく打たれなさい!その無礼な身体を叩きなおしてあげます!」
「先輩、それは無茶です!」
絵美も先輩を制止しようと大声を上げる。私の頭の中は真っ白になり、レバーもボタンもぐちゃぐちゃになっていた。こんな呪われた体で先輩と対峙することになろうとは。もっと普通に後輩としてただただ憧れるだけでよかったのに。
「はっ!」
佑子先輩は気合と共に私の伸びきった足をつかんだ。先輩の十八番中段蹴り返しからの四方投げ。
。ああ、もういいや。先輩に投げられるなら、それでいい……と思った。おとぎ話でならば、呪われた身体は女神さまのハグやキスで元に戻るのにこのざまだ。
私は頭の中でレバーをぐるぐる回し、
「なんですって!」
先輩が叫ぶ。
四方投げの体制に入った佑子先輩をライン移動でぎりぎりかわし、私は先輩を背後から抱きかかえる形となったのだ。その瞬間、頭の中のモードが元に戻った。
身体が自由に動く。
ハグじゃなくて一方的に抱え上げても呪いって解けるんだなぁ……と切れかけた意識で思っていたその瞬間、先輩の厳しい声が飛んできた。
「何しているの晶子さん……まだ試合は終わってないですよ!」
先輩の髪の匂いとシャンプーの香りがほのかに私の顔をくすぐる。先輩のやわらかい胸を後ろから抱きかかえながら、汗と息遣いを感じながら、私は最後の技を入力した。
「……先輩、ありがとうございます……ごめんなさい、先輩!」
↑←↓→の入力と
「先輩、受け取ってください!」
ジャンピングバックドロップが決まり、私と先輩はともに意識を失った。
次の日。
「晶子、おはよ!」
私は無頓着に肩を叩いてくる絵美に←←
「モード切替は治ったんじゃないの!?」
慌てて避けた絵美が叫ぶ。
「治ったけどさ……先輩の稽古相手に直々に指名されたの。あえてオフにする理由がないのよ」
私は満面の笑みで答えた。
「馬鹿がいるよ……でも、私もゲーム覚えようかなぁ」
「それ、いいんじゃない!教えてあげるよ」
私はそう言って笑い、学校まで→→で全力ダッシュをするのだった。