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scene 6. 脱走

 ケイレブはここから逃げださなければと、交差している広い廊下の真ん中で足を止めた。ぐるりと見まわし、関係者以外DO NOT ENTER|立入禁止Authorized Personnel Onlyの看板が立てられているほうへ向かう。思ったとおりその先にはリネン室や備品室、仮眠室などスタッフのための部屋があった。

 ケイレブは男性用更衣室をみつけ、誰にも見られていないことを確認してそこへ入った。ずらりと並んでいるロッカーの把手に次々と手をかける。当然のようにどれも鍵がかかっていたが、左から五番めの扉が開くと、思わずやったと笑みが浮かんだ。

 だがその中に目当てのものは入っておらず、あるのはリヴ・リンデランドが表紙の古い〈PLAYBOYプレイボーイ〉一冊だった。がくりと肩を落とし、しかし諦めずにまた扉をどんどん引いていくと――今度こそ、開いたその中に服らしきものがあった。

 無雑作に放りこまれていた格子柄のシャツと草臥れたジーンズは、ケイレブにはサイズがやや大きかったが、小さくて窮屈なのよりずっとましだ。ストライプ模様のパジャマからそれに着替え、脱いだものは丸めてさっきの〈PLAYBOY〉が入っていたロッカーの奥に入れ、上に雑誌を乗せて隠す。

 そうしてケイレブは更に部屋の奥へと進み、窓を開けてそこに面格子がないことに、ほっと表情を緩めた。外へ出られる。ケイレブはそっと窓を開け、辺りに人影がないか月明かりを頼りに見まわした。窓枠に脚を掛け、誰の姿も見えないことを再度確認する。一階なので地面までは高が知れていたが、いったん窓枠に腰掛けるようにして、ケイレブは足先から飛び降りた。

 そうして無事に建物の外に出ることはできたが、周囲が高い塀で囲まれていることに気づくと、ケイレブは唇を噛んだ。塀があるということは門もあるだろうが、ならば当然、出入りをチェックする警備員もいるだろう。表のほうに行けばきっと捕まる。捕まれば自分は閉鎖病棟行きだ。それだけは避けたい。

 ケイレブは出てきた建物沿いに、表とは反対のほうへ移動した。そして小さな菜園らしい囲いを過ぎた先に、大きな樹があるのをみつけた。塀の傍まで太い枝を伸ばしているあの樹に登れば、塀を越えられる。

 ケイレブは無意識に駆け足になってその樹へと近づき――煙草を咥えながらドアを開けて出てきた人物と鉢合わせした。はっとして足を止めたが、それがかえって怪しまれる原因になったらしい。Tシャツ姿の男は「ここでなにをしてる? ……その靴……患者だな! 脱走か!?」と、咥えていた煙草を投げ棄てた。

 ケイレブは思わず足許を見た。自分が履いているのはスリップオンと呼ばれる紐のないキャンバスシューズで、そういえば患者はみな同じものを履いていた気がした。着替えたとき靴にまで気がまわらなかったのを悔やみ、じり、と一歩後退る。

 だが男は自分を捕まえようと飛びかかってきたりはせず、出てきたドアのなかに戻ろうとした。警備に連絡するつもりなのだと察し、ケイレブは急いで逃げようかどうしようかと迷いながら視線を彷徨わせ――ドアから漏れる灯りに照らされている菜園に目を留めた。なにかの苗を這わせたトレリスが並ぶ小さな菜園を、円柱形のコンクリートブロックが囲っている。その上に、鋭く先の尖った移植鏝いしょくごてがぽつんと置かれたままになっていた。

 咄嗟にそれを手に取り両手で握りしめ――ケイレブは壁に掛けられている受話器を取ろうとしていた男に、体当りするように向かっていった。衝撃と同時に、男がうぐぅ、と声にならない声を漏らす。少し身を離すと、鏝が男の背中に刺さっているのが見えた。刺さったところから血が滲み、Tシャツがじわりじわりと真っ赤に染まっていく。ケイレブは荒く息をつきながら鏝を抜き、その血に濡れた鋼の先を再び男に突き立てた。

 どくどくと血が溢れる。男は信じられないと云いたげな表情をケイレブに向けながら口から血を吹きだし、がくりと床に倒れこむと、そのまま動かなくなった。

 ――殺してしまった。しかし今ケイレブの頭にあるのは、一刻も早く此処から逃げなければということだけだった。

 血で汚れてしまったシャツを脱ぎ、厨房らしいその中に入ると、ケイレブはシンクの蛇口を捻りシャツを濯いだ。血は完全には落ちなかったが、無地ではなく柄物なのでそれほど目立たないだろうと、固く絞ってまた袖を通す。

 ついでに靴も男のアディダスを脱がせて履き替え、厨房を出てドアを閉める。そうしてケイレブは樹に登り、ようやく塀の外に出ることができたのだった。

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