部屋に戻ると、ケイレブは自作の原稿を読み返した。
もちろんこれは創作であるから、作中の殺人が〝
これはいったい、どういうことなのか。
そういえば、とケイレブは初めにこのストーリーが浮かんだときのことを思いだした。まるで扉が開いたかのように、いきなり降ってきたアイデア。否、アイデアだけではない。始まりのシーンから、次々と起こる事件、殺人鬼の心理と、ストーリーは実際に見てきたように映像を伴って、鮮明に頭に浮かんだ。
――もしも、本当に実際に見たのだとしたら?
自分には、記憶の抜け落ちている部分がある。子供の頃のことなどは憶えているが、ある時期からの記憶が曖昧で、この
――ひょっとして、自分がジョニー・ソガードなのでは?
ふとそんなことを思いつき、ケイレブは考えた。もしも川に落ちたときのショックで記憶を失ったとしたら? そしてどこかに流れ着き、誰かに救けられて此処に収容されたのだとしたら――否。自分は金髪ではないし、さっきTVで視た写真はまったく別人だった。そんなわかりきったことに今更のように気づき、ケイレブはほっと息をついた。
そうとも、そんなことは有り得ない。身元不明の記憶障害者が発見されたなら、こんな施設に収容される前に警察に届けられているはずだ。もしも自分がジョニー・ソガードであったなら、今頃は此処ではなく監獄にいるだろう。
しかし、とケイレブは考えた。では何故、自分は〝魅惑の殺人鬼〟の事件についてこんなに詳しいのだろう? まさかとは思うが、三十六件と数えられている犯行のうち、一部はソガードではなく自分がやったことなのではないだろうか。それとも三十六件以外に、まだ明るみに出ていない事件があるのかもしれない。自分は模倣犯で、手口を真似るために〝魅惑の殺人鬼〟について調べ、犯行に及んだのでは――。
窓辺の椅子に腰掛け、ケイレブはそんなことを考えながら自分の右手を見つめ、ぎゅっと握りしめた。
思えば小説を書いているとき、肉にナイフの刃をうずめる感触がありありと想像できた。湿気を帯びた空気に混じる血の匂いも、まるで知っているようだった。
仮にも創作を志しているのだから、想像力が豊かなのは何ら不思議ではない。しかし、匂いという形の無いものを、こうもはっきりと――噎せかえるほどの
目を閉じる。聞こえてきたのは
「――戻ってらしたんですか、クロウリーさん。もうじきランチの時間ですよ、食堂に行かれますか、それともまたこちらで?」
メアリーに話しかけられ、ケイレブは記憶の断片が漂う海から浮上した。
そうだ、彼女なら知っているかもしれない。ケイレブはシーツの端を引っ張りぴんと皺を伸ばしているメアリーに向き、疑問を素直に尋ねてみることにした。
「メアリー。……変なことを訊くけど、その、僕はどうしてここにいるのかな。できれば、僕がここに来ることになった理由を教えてほしいんだが……」
するとメアリーは少し驚いた様子で、目をぱちぱちと瞬いてケイレブを見た。
「よかったわ、クロウリーさん。このところお加減が良さそうだと思ってましたが、ほんとに良くなってきたのね。……そうですね、先生にお伝えして、明日か明後日にでもあらためて診察してもらいましょう。お話はそのときに」
その言葉にケイレブは眉をひそめた。つまり、自分がここに来たばかりの頃はこんな質問もできないほど、或いは思いつきもしないほど酷い状態だったということだろうか。
「……メアリー、いったい僕は何者なんだ? 知っているなら教えてくれ。僕は、ひょっとしたら……人を殺してしまったかもしれないんだ」
メアリーはさっきよりも大きく目を見開いた。ケイレブは続けた。
「もしかして、来たばかりの頃にもそう云ったことがあるんじゃないか? ……自分がここに来た経緯はさっぱりだが、ナイフで人を刺した感触を手が覚えてる気がするんだ……。それだけじゃない。頭に浮かぶまま書いた小説の殺人シーンが、実際に起こっていた怖ろしい事件と一致してた。……偶然だなんて思えない。僕は人を刺し殺したことがある。それもおそらく、一度や二度じゃない。
僕は殺人鬼なのか? 記憶はまさか、その怖ろしい人格を変えるためになにか処置をした所為で――」
「ちょ、ちょっと待ってくださいクロウリーさん! とりあえず落ち着いて、今はなにも考えないでください! ……わかりました。今からすぐに来てもらえるよう、先生にお願いしてみます。だから今日はお部屋で――ランチもあとでこちらにお持ちしますから、ここでちゃんと待っていてください、いいですか?」
メアリーの慌てぶりは、ケイレブにああ、やはり自分は殺人を犯していたのだと感じさせた。
一部の記憶が抜け落ちているのも、なにか怖ろしい処置を施された所為なのかもしれない。昔は精神病院などで、ロボトミーや電気ショック療法などが行われていた。もしかしたら、今もそれに似た怪しげな治療があって、自分は実験的にそれを試されたのかもしれない。
その結果、自分が犯した殺人のことを忘れ、ふっと閃いたアイデアだと信じて断片的に残る記憶をプロットとしてまとめ、小説の形に再生したのだとしたら――
硬い椅子の上で悍ましいその可能性に凍りついていると、ノックの音がした。金縛りが解けたかのように顔を上げ、ランチを運んできてくれたメアリーを見る。メアリーはタイプライターや原稿が置かれている丸テーブルにランチのトレイを置こうとし、ケイレブは原稿の束を手に取りタイプライターを端に寄せた。
どうぞ、とトレイを置きながら、メアリーはお薬も忘れないで飲んでくださいね、と云った。トレイの上にはいつもの白や水色の錠剤やオレンジ色のカプセルと、見たことがない気がする赤いカプセルがひとつ。
「……この赤いのは? いつもあったっけ」
「お薬は習慣になるから偶に変わるんですよ」
食べたらちゃんと飲んでくださいね、とメアリーは念を押し、部屋を出ていった。
ケイレブはトレイの片隅に置かれた薬を、じっと見つめた。
これまで自分が毎食後きちんと服薬していたかどうかも、実はあやふやだった。が、云われるままに飲んでいたような覚えもなくはない気もする。しかし、そんな曖昧な記憶のなかでも、赤いカプセルなど初めて見るような気がした。
どうしても違和感を拭えず、ケイレブは食事が済んだあと、出された飲み薬はすべてトイレにでも棄ててしまおうと決め、ズボンのポケットに入れた。