タンブラーの中で眠っていた氷が舟を漕ぎ、静かな部屋の中で小さな音を響かせた。
飲み干してしまったロックの梅酒、その底に溜まった氷水を口に含んで、
スマホからは焚き火のサウンドをリピートで流している。いろんな音楽をBGMとして流してみたが、結局はこの音に落ち着くのはキャンパーとしてさもありなんと言った感じだ。
『さなぎ』名義で創作活動を始めてから2年が経過した。
最初は後輩である門前宗助の作った情報共有アプリの1ページで細々と書き連ねていただけだったが、今では案件として企業運営のウェブサイトからキャンプ記事やコラムを依頼される事も増えてきた。
当然、嬉しいことばかりではない。SNSで自分の名前を検索すると、批判的な言葉や中傷の言葉だって散見される。その一つ一つに胸を痛めてしまう自分では、やっぱりこういう仕事に向いていないのだろうし、アウトドアショップ店員との二足の草鞋で歩いていく方が性に合っている。
原稿は遅々として進まず、たては込み上げてくるあくびを噛み殺した。
文章を書き進めるほど、脳が放置されたパンのように固まっていく夜がある。
そんな夜、たてはは灰塚達樹のブログを覗く事にしている。
彼が表現したかった事や、一枚一枚の写真に込められた思い、それらに目を凝らす事が、結果として自分自身を見つめ直す切っ掛けになっている様な気がする。
るりの正体を探るために彼のブログを隅々まで読み漁っていた2年前から、自分は彼の持つ表現者としての側面にシンパシーを感じていたのだと、同じように表現を生業とするようになってから初めて気付いた。
「ミヤちゃん、またキャンプに行けるようになったってさ」
ブログの写真を眺めながら、たてはは数日前に宗助からあった嬉しい知らせを、写真の中の灰塚達樹と共有した。
神を連れ出した灰塚達樹には、もしかしたら大きな罪の十字架が背負わされているのかもしれない。
でも、彼がるりをあのワンポールテントに縛り付けてくれたことで、宗助や自分がるりと出会い、るりがキャンプや人への愛を深め、キャンプする神様として新たなステージへ立つ事が出来たのも事実だ。
灰塚達樹がもしるりと出会わなければ、もしるりを連れ出そうとしなければ、彼女は今も白錐山の御神木の下で、来るはずの無い旅人の話を待ち侘びていたのかもしれない。
ならば自分は、灰塚達樹の罪を赦したい。
同じようにキャンプを愛し、同じように自然を愛し、その気持ちを表現する仲間として。
不意に、スマホの着信音が鳴る。
白錐山で出会ったキャンプ場を営む友人、木之元弥生からのLINEだった。
『次いつ遊びにくるの? 今週末来れる? いい日本酒手に入れたから、一緒に飲もう!』
『いいね! 仕事が落ち着いたら行くよ。再来週かな?』
いい日本酒には食指が動くが、今週末は生憎先約が入っている。
絶対に譲ることのできない、大事な大事なキャンプの予定だ。
△
広々としたフリーサイトに小さな三角形が幾つも並んでいる。
その小さな山の一つ一つでは、人々が束の間の非日常を謳歌し、時に笑い時に憂いながらも、その日一日を丁寧に緻密に生きている。
「るりちゃん、久しぶり!」
「あ、たてはさん!」
「ども、お疲れっす」
その中の一つでは、ぶっきらぼうな青年と、世話焼きの女性と、天真爛漫なキャンプの神様が、2年ぶりの再会を喜び合っていた。
たてははスマホのカメラでるりを映す。
先日差し入れでアウトドア雑誌を渡していたが、そこに特集されていた最新の春物コーデに身を包んだるりが、ペコペコと頭を下げていた。
イラストレーターさんが書いてくれた『るりちゃん』も可愛いが、本物はそれに輪をかけて可愛らしいな、とたてはの頬が緩む。
「すけ君の作戦が成功してよかったよ。またこうして一緒にキャンプに来れたんだもん」
「それは、たてはさんの書いてくれた小説のお陰ですよ! ありがとうございます!」
「そういやさっき、るりちゃん人形ぶら下げてるキャンパーがいましたよ。私が作者ですって言って、何か貢ぎ物でもせしめてきたらどうっすか」
「しねーよ」
「はあ」
「るりちゃんの体調はどう? 変な感じはしない?」
「全然です! なんか前より調子がいいくらい」
「どーも、身体が二分している感覚らしいっすよ。本体は白錐山にありつつ、このテントを立てた時だけ身体が二分割されて、意識の主導権がテント側に移るっていうか」
「山の方と繋がっている感覚も、何となくだけとあるんです」
「へー、便利なもんだね」
「コーヒー入れたんで飲みます?」
「うん、ありがと」
「あ、またハチミツ入れてね」
「はあ」
テント入り口前の両側にローチェアを並べ、宗助とたてはが座った。その二人の間、テントの入り口にはコットが置かれ、黒い影のるりが座っている。
空は雲一つない快晴だ。
まだ冬の寒さを引きずりつつも、コーヒーカップから漂う湯気のように優しい日差しが、緑に覆われ始めた地面を暖めている。
こんな時、言葉は要らない。
ただ同じものを見て、同じ空気を吸って、同じ音を聞いていれば、自ずと人と人との間に感謝と、共感と、微睡の空気が生まれる。
カップに注がれたコーヒーは、無言の時間の中で、天使の分け前のように少しずつ減っていく。
「そういや」
溜め息のように、宗助が口を開く。
「『パビリオン』に別の山の山神伝説の書き込みがありましたよ」
「そっか、やっぱりその土地土地であるんだね、そういう伝説」
「わぁ、仲間かもしれない!」
「それで、ぜひ『さなぎ先生』に来てもらって、小説に書き起こしてもらいたいっらしいっすよ」
「えー、そんなの無理だよ」
「でもでも、なんか楽しそうじゃないですか」
「るりちゃん、乗り気だね」
「だって他の山の神に会えるかもしれないし」
「うーん、時間が取れたら、ちょっと三人でキャンプに行ってみよか?」
「わーい! 行きたい行きたい!」
「俺は忙しいんで‥‥」
「宗助は暇じゃん」
「暇じゃないっすよ。新しいテント買うのに、金貯めたいんで」
「あー、それって浮気だよ」
「浮気、って‥‥」
顔を赤くする宗助と、ノリに任せて言ってしまった自身の発言に戸惑うるり。
そんな二人を眺めながら、心の中で広がっていく温かな感情に身を委ねるたては。
「いつか行こうよ。だってこれからもキャンプは続くんだし」
そう言ってたては立ち上がり、スマホのカメラを二人に向けた。
小さな三角形ーーそれは安らぎを与える家であり、どこへでも行ける船でもある。使い古されたテントをバックに、困惑した表情の青年と、顔を赤らめて俯くキャンプの神様の少女を写真に収めた。
そう、どこへだって行ける。
彼らのキャンプはこれからも続いていくのだから。