ミヤマシロヒメの信仰の軸をずらす。
るりが白錐山の神として山に縛られているのならば、異なる信仰の形でそれを塗り替えることができれば、彼女が存在し得る範囲を広げることが出来るのではないか。
そんな思い付きから始まった宗助の計画だったが、実際にやってみると言葉で言うほど簡単なものではなかった。
現時点では信仰の軸を変えるほどの人々の関心を集められる『ストーリー』と、それを披露する『舞台』が存在していない。
宗助は仕事の合間を縫って一つのアプリを作り上げた。
『パビリオン』と名付けたそのアプリは、文字通りキャンパー達の拠り所であり、思い出の展示場となるようなキャンプ情報の総合掲示板として出発した。
当初はキャンパーの情報交換や写真投稿の場として機能していたが、やがてキャンプに関する記事を連載する者も現れ始めた。
比較的自由度の高いそのアプリは、使い方次第で様々なキャンプ情報を仕入れることが出来る。若いキャンパーの間で密かに噂になり始めていた。
発表の舞台が整いつつあった。
そして、満を辞して舞台に立ったあるキャンパーから、ミヤマシロヒメにまつわる新たなストーリーが紡がれ始める。
パビリオンの由来はテントであり、それには『蝶』という意味も含まれるらしい。
木の枝に縛り付けられた蛹から羽化するように、るりという蝶が遠くの空へ羽ばたいていく事を、宗助は願っていた。
△
「キャンプする、神様?」
るりは首を傾げる。
当然の反応だ。宗助はスマホを操作し、自身の作成したスマホアプリを開き、メニュー画面からあるテキストを表示した。可愛らしい女の子の挿し絵と、『ワンポールテントの下から』というタイトルが表示されていた。
作者は『さなぎ』という人物。
表示された小説を読み進めていくと、明らかな既視感に目を疑った。テントに取り憑いた山の神の女の子、そのテントで彼女とキャンプを繰り返す青年、しかしその歪な関係に亀裂が生じ、やがて彼女は山へと帰る事になる。
その山の神の名前は『るり』。
「これ、私だ‥‥」
緻密な文章で描写された身に覚えのある物語。るりは息を呑んでその小説を読み進める。
「この小説の作者ーーさなぎって、先輩なんすよ」
「先輩って?」
「あー、たては先輩」
「え! たてはさん!?」
宗助は頷いた。
△
「その役目、やってみるよ」
夜のファミレスで宗助の計画を聞いたたてはだったが、実のところ後輩が説くその方法論には半信半疑だった。
ミヤマシロヒメーー神様の軸をずらすという目的に、このやり方はどれほどの効果を持つのか。そもそも軸をずらす事が、本当にるりを山から解き放つ結果に繋がるのだろうか。
誰も試したこともないその方法に、答などあるはずがない。
しかし、るりとの別れを予感していたあの秋の終わりから後輩が必死で組み上げてきた起死回生の策を、進む道に灯りが乏しい程度の曖昧な理由で無碍にする訳にはいかないと思った。
宗助の作ったスマホアプリ『パビリオン』は安定してユーザーを増やしている。舞台の席に、観客は埋まりつつある。
その大舞台のステージに立つ演者として、自分を頼ってくれた事も、たてはは素直に嬉しいと感じた。
「先輩は、アウトドアに関する記事を書きたいって、言ってたじゃないですか」
「そんな、単なる趣味でやりたいと思ってただけだよ。それに、小説か‥‥。私、書いたことないんだよね」
それは嘘だった。本当は学生時代、テントの中で一人執筆に勤しんでいた頃もあった。しかし今となっては破けて折り目がついた夢として、無造作にポケットの中へ突っ込んでいる。自分自身に、文章で食べていく才能などない事は、とうの昔に気づいている。
「先輩の卒論は、文章がわかりやすくてよかったっすよ」
「あれは論文じゃん。論文は事実、小説は虚構」
「確かに、読み手にとっては虚構っす。でも俺達にとってるりの存在は、事実じゃないっすか」
「まあ確かにね」
夜のファミレスは様々な人々の人生が交差する。友人同士でお喋りする若い女性、ポテトをつまみにビールを飲むサラリーマン、コーヒー一杯を味わいながら参考書を広げる学生。
店の中の小さな空間ですら、目に入る人々は本当に様々である。そんな多種多様な人の心を、自分の文章で動かす事なんてきっと出来はしない。
しかしキャンプならーーキャンプという共通点を持つ人達になら、この稚拙な文章でも何かを感じさせることが不可能じゃないのかもしれない。
ある山奥に、キャンプを諦めた少女がいる。
それが人だろうが、幽霊だろうが、神様だろうが、そんな事は瑣末な問題だ。
本当にキャンプが好きなるりの気持ちと、それに共感する自分や宗助の気落ちを、そのまま文章に載せる事ができれば、きっと多くのキャンパー達の共感を得ることが出来はず。
「ペンネームは、『さなぎ』にしよっかな」
対外的に文章を書く機会があれば、と密かに温めていた名だった。
「はあ、なんすか?」
「ほらペンネーム」
「はあ」
「本名でやるのは、何かとまずいじゃん」
「まあ確かに。でも何でさなぎ?」
「いや、ほら、私の名前ってタテハチョウっぽいじゃん、でもまだ未熟な、蝶になる前の蛹って言う意味で、なんかいいかなーって」
なんだか恥ずかしくなって早口で捲し立てる。
「なるほど」
宗助はと言えばニコリともせず真剣な顔で頷いているため、より恥ずかしさに拍車がかかる。たてはアイスティーのストローを咥え、既に中身が空っぽだった事に気付いて口を離した。
蛹から蝶になる自分。
確かにそんな意味を込めて考えていた名前だったが、今もう一つの意味がそこに加わった。
木の枝にくくりつけられた蛹の様に、山に縛られた『るり』という少女が、瑠璃色の羽を広げて遠くの空へと飛び立っていく。
そんなイメージが重なって、たてはは決意と共に小さく頷いた。
△
「それが予想以上に人気が出たもんで、今や先輩はアウトドアショップ店員兼フリーのWebライターっよ」
その小説は、ともすると内容だけ見れば凡庸なものだったのかもしれない。
しかし実在する山と、そこに古くから伝わる山神の伝説をベースに、潰れたキャンプ場、近年ニュースになった山火事などの共通認識のある事象を上手くブレンドした結果、多くのアプリ利用者の共感を得る事ができた。
キャンプを愛する少女、しかし山の神である彼女は、その使命がゆえに山に留まらなければならない。
山から離れた代償とばかりに、唯一の贄として命を吸われ、少しずつ弱っていく青年。
神の不在で衰退し、災害に見舞われる山。
彼女が白錐山の神であるミヤマシロヒメである以上、避けられない別れと、キャンプとの決別。
「なんか俺達をモチーフにしてるっぽいですけど、上手く脚色するとこんなメロドラマみたいにも見えるんすね」
「この小説の経緯は分かったけどーー」
るりは、その小説と『キャンプする神様』の繋がりがいまいち掴めない。
「小説が人気になった事で、ミヤマシロヒメの存在が広く周知されたんすよ。そん中のコアなファンの間で、るりという少女を救ってあげたいという意識が高まった。実在する山に、実在する伝承、るりは本当に実在しているのかも、って思う人も出てきた」
「なんか、宗助、得意気だね」
「俺の想定通りに世の中が動いてくれたんで」
「嫌味な言い方」
「聖地巡礼とかいって、白錐山に訪れる人達も現増えてきた。閉鎖していたキャンプ場も再開される事になって、『ワンポールテントの下から』と公式でコラボをし始めた」
宗助再びるりちゃん人形を見せる。
キャンプ好きのイラストレーターが書いてくれたデザインを元にデフォルメされた、小さなキーホルダー。
「でも、全然似てないね。私、真っ黒だし、この人形の方がかわいい」
「そっすか? 俺にはこんな風に見えてますけど」
「しばらく会わない間に、お世辞が上手くなったね」
「俺は常に本心しか言わないんすけど」
「まあ確かに、本当の私は美少女だから」
「はあ、そういうところは変わんないっすね」
宗助は屈託のないるりの笑顔を久しぶりに見た気がした。
るりを失ってから死に物狂いで前進し続け、疲れと乾きでヒビが入った心に、温かなものが染み込んでいく。
「でも、ミヤマシロヒメに対する信仰の形は、大きく変わりました。沢山の人達の『るりにキャンプを楽しんでもらいたい』って気持ちが、ミヤマシロヒメを再定義したんす」
「それがキャンプする神様」
「神様なんて、結局は人々の認識が定義づけた情報の集合体なんすよ。その情報を弄って、定義を変えていくほどの潮流を生み出す事ができれば、神様は勝手に姿を変えてくれます。というか、現に変わってるはずですよ」
「私が?」
「そう、今のるりは2年前とは違う。その足は、何にも囚われちゃいないっすよ」
半信半疑で、るりは足元を見る。
足元の地面に生まれたばかりの樹木の芽を見つけた。その周りを小さな黒いアリ達がエサを求めて歩き回っている。
自由奔放に動くアリ達を、るりは暫くの間眺めていた。
「いつまで突っ立ってんすか」
るりは顔を上げる。
スマホを構えた宗助が、画面越しにるりを見ている。
「俺は早くキャンプに行きたいんで、ほら、このテントの中に、早く入って欲しいんすけど」
手招きする宗助。
戸惑いながら踏み出したるりの足は、吸い寄せられるようにテントの中へと収まった。
大きな三角形から、小さな三角形へ、水が流れるように自然と、自分の領域が拡張したような感覚を覚える。
以前テントにいた時に感じたような、腹部の違和感ーー飢えの感覚も今はない。
何もかもが新鮮だった。
少しの混乱と、これから繰り出す懐かしいキャンプへの期待に、るりの胸は高鳴った。