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第40話:キャンプする神様①

 飛行機雲が薄青を切り裂いていく。


 空に滲むような白色の太陽は、雪解けで湿った土手に顔を出したオオイヌノフグリに、慈愛に満ちた柔らかな陽気を注いでいる。


 たまに吹く風からはまだ冬の残り香が感じられるが、苔が繁茂したから立ち込める土の匂いからは、濃い生命の息吹を感じる事ができる。


 寝起き直後の微睡のような、春の始まり。


 キャンプ場の駐車場に車を停めた門前宗助は、開け放ったバックドアに腰掛けて冷めかけの缶コーヒーを飲み干した。


 冬には冬の醍醐味があるが、白と茶色と黒だけの景色にも若干飽きがきている頃だった。遠慮気味に顔を出しているふきのとうの薄緑にさえ、目が覚めるような鮮やかさを覚える。


 今回は少し歩く予定である。

 宗助が持ち上げたリュックの中にはテントや幾つかの道具が器用に詰められていて、見た目以上の重量感が腰にのしかかる。


 数人のキャンパーが管理棟で受付を済ませる中、宗助は売店でレトルトカレーの中辛と辛口で数分間頭を悩ませた。


「ここ、聖地なんですよね!?」


 若い女性の二人組が、管理人に訪ねている。管理人の初老の男性が肯定すると、女性二人は嬉しそうに顔を見合わせた。


「御神木までの道はまだ通行止めだけど、もうすぐ工事が始まるから、夏には通れるようになると思うよ。その頃にも、また遊びに来てね」


 若い女性の黄色い声に鼻の下を伸ばしながらも、男性は利用者への営業を忘れない。


 宗助はこれからその『通行止めの道』を通り、御神木へ向かおうとしていた。

 禁止事項を破る事にバツの悪さを覚えた宗助は、せめてもの贖罪としてレトルトカレーと一緒に、作りの割にはそこそこの値段がするキャラクター物のキーホルダーを購入することにした。


 管理棟を出て、後ろを振り返る。

 ガラスの自動ドアに『土砂崩れと山火事から奇跡の復活!白錐山キャンプ場』と書かれたチラシが貼られていた。



   △



 御神木は相変わらず、太い幹から無数の細い枝を空に向かって伸ばしていた。


 その勇剛な佇まいから、山道の整備が済み観光客が訪れるようになれば、このキャンプ場の目玉スポットになる事は容易に予想出来た。


 しかし今はまだ誰もいない。


 誰かに掘り起こされるのを待つ宝箱のように、薄暗い森の一角に鎮座し、時の侵食で黒ずんだ表皮に柔らかな木漏れ日を受けている。


 枝の先には小さな緑が芽吹いていた。


 ワンポールテントを建て、中にはコットとローテーブルを置く。

 ペットボトルの水をケトルに注ぎ、ガスコンロで火にかけると、ものの数分で注ぎ口から蒸気が吹き出し始めた。ステンレスのカップにインスタントコーヒーを入れてお湯を注ぐと、湿った土の匂いに香ばしい香りが混ざり合った。


 熱いコーヒーを舌先で確かめながら、宗助は三角形に切り取られた御神木の幹と、その足元に咲いた小さな花をなんの気無しに眺める。


 スマホが鳴った。

 この単発の着信音は、友人設定のSNSの通知音だ。宗助はポケットからスマを取り出す。


『るりちゃんに会えた?』


 たてはからのLINEだった。宗助は再び御神木の幹をぼんやりと眺めた後、返信する。


『いえ。多分まだ冬眠中』


『早かったかな?』


『わかりません』


『意固地になって居続けないで、見つからないようなら早めに引き上げて来るんだよ。そこにテント貼ってるのが管理人にバレたら、絶対怒られるから』


『そうですね』


『私も行きたかった』


『先輩は原稿の締め切りが近いんすから、そっち優先して下さい』


『そうでした。二足の草鞋はキツイ。もう1ヶ月もキャンプに行けてない』


『来週は一緒に行く予定でしょ』


『るりちゃんと再会できたらね』


『そうですね』


 たてはからクマが親指を立てたスタンプが送られてきた。


 会話がひと段落ついたところで、宗助はスマホをローテーブルに置き、リュックから最新のアウトドアファッション誌を取り出してコットに置いた。


 テントから出て御神木を見上げる。


 るりはもう目覚めているのだろうか。


 自身の不在と山火事によって弱った山を再生させるため、るりは長い眠りにつくと言っていた。あれから2年程の月日が流れ、山は少しずつ活気を取り戻しているように見える。

 去年の秋は柿が豊作だったと弥生が言っていたし、今見渡せるこの景色の中でも、新たな生命の息吹がそこかしこで感じられる。


 それも全て、るりと、この山を愛する人々の努力の賜物だ。


 宗助自身は、この山の再生になんの貢献もできて居ないのがもどかしい。

 しかし、自分が守べき『るりとの約束』は何とか形にすることが出来た。

 頭の中で組み立てた仮説が、現実世界で想定通りに作用するかは、正直やってみないとわからない。しかし、絶対に叶えてみせる気概と自信があるからこそ、宗助はこうしてるりを迎えに来た。


「だからーー」


 宗助は虚空に呟く。


「だから、恥ずかしがってないで、出てきて欲しいんすけどね」


「ーーだって‥‥」


 宗助が見つめる御神木の太い幹。


 その背後から、黒い影がひょっこりと顔を出した。


「だって、寝起きだから」


 黒い影のミヤマシロヒメーーるりは、あの頃と変わらない頭の中に直接響き渡る声で、不満そうな宗助の呟きに応えた。


「キャンプの時はいつも寝起きだったじゃないっすか」


「それは、確かに」


「よく寝れました?」


「あ、うん。おはよう、宗助」


「はあ」


 懐かしく染み入ってくるのその声に、宗助は感情が溶け出しそうになるのを必死で堪えていた。

 必要以上にぶっきらぼうになってしまう自身の律しながらも、心は歓喜の歌を口ずさんでしまう。


 無言のままテントの中に入り、コットとローテーブルを御神木の前に並べる。再びお湯を沸かしてコーヒーを入れると、リュックから取り出したハチミツをたっぷりと垂らした。


「これ、ハチミツ入りのコーヒー」


 るりと最後に交わした約束だった。


「わあ、ありがと」


 るりはコットに座って、コーヒーを眺める。


「うわぁ、甘い。苦くない」


「そっすか」


 冷めかけのコーヒーを口に含み、宗助は頷く。


 ローテーブルを挟んで向かい合って座る宗助とるり。待ち望んでいた懐かしの光景がそこにはあった。



  △



 宗助はるりが眠りについてから行ったキャンプの記憶を語る。

 ズレてしまった互いの時計の針を合わせるかのように、小さな出来事一つ一つまで記憶を辿りながら、0.1秒の差異を修正していく。


 るりは嬉しそうに相槌を打つ。


 その声に背中を押され、宗助は自身が恥ずかしいほどに饒舌になっていることを悟る。


 一頻り話終えた頃には、るりのコーヒーもすっかり冷めきっていた。


「また、こんなふうに話にきてくれるの?」


 そう問うるりに対して、宗助は首を振る。


「ここは、もうすぐ道が整備されて、キャンパー達の観光名所的な扱いになると思います。こんな風にテントを立てたり、立ち止まって会話することは、多分出来ないっす」


「そっか、やっぱりそうだよね」


 るりは溜息を吐く。

 その吐息には諦めの感情が多分に含まれてはいたが、この場所で宗助の二年分のキャンプを追体験することが出来た満足感が、僅かに勝っている。


 何年後かわからないけど、また何処かで宗助に会えたら、この話の続きを語ってもらおう。

 それだけでも、自分は十分に満足だ。


 るりは、そう自分に言い聞かせる。


 そんな彼女の前に、宗助は小さなキャラクターのキーホルダーを掲げた。アウトドアファッションに身を包んだ、2頭身の可愛らしい女の子のキーホルダー。それは宗助が、キャンプ場の売店で購入したものだった。


 宗助らしからぬセンスに、るりは呆気に取られる。


「どうしたのそれ。あ! 宗助、そういう趣味に目覚めたんだね‥‥。うん、いいんじゃない? 私はそういうのに偏見ないし」


「はあ、早合点しないで欲しいんすけど」


 今度は宗助が溜息を吐く。


「これの名前、なんだと思います?」


「わかんない」


 るりは首を振る。


「白錐山のキャンプの神様『るりちゃん』人形」


「へぇ…え? ええ!?」


 無意識に口に含んでしまった苦い薬を吐き出すような、一瞬の納得の後の驚愕。

 るりは自身の耳を疑い、改めて宗助に尋ねる。


「えっと、なんて名前なの?」


「だから『るりちゃん』人形っすよ」


「え、それってーー」


「そう、これはミヤマシロヒメーーるりをモチーフにした人形なんすよ」


「あの‥‥どういうこと?」


 開いた口が塞がらないるりに対して、宗助はどこか自慢げな笑みを浮かべながら言う。


「この2年で、ミヤマシロヒメの軸が大分ズレたんすよね。今やミヤマシロヒメのるりちゃんは、キャンパー達の間で密かなブームとなっている『キャンプする神様』なんすよ」





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