目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第39話:別れの言葉は雨音に消えて

 木之元弥生は不可思議な感覚を覚えた。何処か懐かしい、鼻の奥がツンと締め付けられるような、胸の奥がじんわりと温かくなるような。

 公民館から出て、白錐山を見る。

 抜け殻のように無味乾燥で、暴れ回る炎に蹂躙されていた死にかけの山に、霧のようにじんわりと何かが染み入っていくような気がした。


「山が、生き返った‥‥」


 説明しようがない感覚を無理やり言葉にしてみる。その表現は、あながち間違いではないように思う。


 戸惑う弥生の鼻先に、小さな水滴が当たった。


 空を見上げると、さっきまで快晴だった青空を灰色の雲が覆い隠していた。山の天気は変わり易いとよく言うが、これ程まで目まぐるしい速度で衣を纏っていく空を、山育ちの弥生ですら見た事はない。


 それは後に奇跡の様な出来事として語られる。


 大粒の雨が、白錐山に降り注いだ。



   △



 慣れない車のハンドルを握りしめ、アクセルを力一杯踏み込みながら山道を登っていたたてはは、突然の大雨に視界を遮られ、やむなく路肩に急停車した。

 高速でワイパーを動かしても間に合わないほど大粒の雨が、小石を撒き散らしているかの様な騒がしさで車の屋根を叩く。


 たてはは呆気に取られながらも、フロントガラス越しに空を見上げる。木々の隙間から見える空は、遥か遠くまで濃い雨雲に覆われていた。


 たてはは連絡のつかない宗助の元に向かうため、潰れたキャンプ場までの道のりを引き返していた。視界がほぼゼロの状態で走り慣れない山道を運転するのは危険だが、この突然の大雨に晒されているであろう宗助の事を想像すると、のんびりと日和っている訳にはいかない。


 この雨がこのまま降り続いてくれれば、山火事は鎮火に向かうかもしれない。

 しかし、もし宗助が山道の途中で立ち往生しているのであれば、この大雨で誘発された土砂崩れに宗助が巻き込まれる可能性もある。


 急がねば、と再びアクセルを踏もうとしたたてはのスマホが鳴る。


『任務完了』


 宗助からのメッセージはいつも簡素だ。


 慌ててギアをパーキングに入れ、宗助に電話をかける。宗助はすぐに電話に出た。


『あ、先輩、終わりましたよ』


「終わりましたじゃないよ! なんで電話出なかったの!?」


『すいません』


「ほんと心配したんだからね‥‥。大丈夫? 怪我はない?」


『はあ、まあまあです』


「まあまあって何よ」


『足、挫きました』


「歩けるの?」


『少し休めば』


「迎えにいくよ」


『雨が止んでからでいいっすよ』


「そう、だね」


 確かに、この天候で山道を歩き回れば、二次災害に遭う可能性もある。


「今どこにいるの?」


『御神木んとこ、テントの中っす』


「るりちゃんは?」


『ここにいますよ。テントの外に』


 テントの外。


 その言葉にとても新鮮な響きを感じた。

 るりはあの小さな三角形から解き放たれ、再びこの大きな三角形ーー白錐山の神ミヤマシロヒメへと返り咲いたのだろう。

 ならばこの雨は、自身を焼く炎を鎮めるため、山の神が起こした奇跡なのかもしれない。


「天候を見て助けにいくから、歩き回らないでそこにいてね」


『はあ』


「それから、電話したらちゃんと出てね!」


『はあ』


 電話を切ったたてはは、運転席のシートにもたれ掛かって、大きな安堵の溜め息を吐いた。


 雨は衰える事なく、激しくボンネットを叩き続けている。

 このタイミングでのこの雨は、やはり何処か神懸り的な力を感じざるを得ない。ましてやたてはは、その神が実在することを知っている。


 きっと事態は終息に向かうだろう。

 そんな希望的な予感が足先からゆっくりと上がってきて、同時に緊張で強張っていた筋肉が徐々に弛緩していく。


 シートのヘッドレストは少しだけ宗助の匂いがした。緊張から解き放たれて初めて、そんなどうでもいい事に気付く。


「ありがとう、るりちゃん」


 たてはは小さな声で呟く。


 彼女が山の神ならば、この小さな感謝の言葉も、きっとその耳に届くだろう。



   △



 激しい雨がテントを叩く。


 ぬかるんだ地面に適当に打ちつけたペグがどれだけ保つのか気にはなるが、そんな瑣末な不安など掻き消すかのように、雨は衰える事なく降り続ける。


 宗助はたてはとの通話を終えると、スマホを握ったままテントの入り口に目を向けた。


「火、消えてきたみたい」


 テントの入り口の前に立ったるりが言った。

 雨は彼女の黒い影のような身体を透過し、彼女の足元に大きな水溜まりを作っている。


 テントの下でしか存在を許されなかった少女が、テントの外から、テントの中に座り込む宗助を覗き込んでいる。

 その構図が、このテントに染み付いた思い出の対比のように感じて、宗助はそんな感傷に浸ってる自分をなんだか可笑しく感じた。


 スマホのカメラをるりに向ける。

 はにかんだ表情のるりが、照れ臭そうに宗助に笑いかけていた。その服装はいつものキャンプと同様、アウトドア雑誌に載っていたお気に入りのキャンプファッションだった。


「私は、ここでしばらく眠りにつくと思う」


 空を見上げ、降り頻る雨を心地よさそうにその顔に受けながら、るりは言う。


「この山と一つになって感じたの。私が居なかった一年の間に、この山はすっかり弱り切っちゃったみたい‥‥。それに加えてこの山火事と、無理やり降らせたこの雨。流石の私も、もうヘトヘトだよ」


 るりは両膝に手を当てて、大袈裟な溜め息を一つ吐いた。


「まあ、そっすね」


 宗助もまた、今までの疲労が一気にのしかかって来たような身体の重さを感じていた。

 しかし頭は不思議なくらいすっきりと冴えていて、テントを叩く雨音の一つ一つ違いすら、明確に聞き取れるような気がした。


「だから私はしばらくは深い眠りについて、山と自分の力を回復させなくちゃいけない」


 再び背筋を伸ばすと、まっすぐな目で宗助を見つめてそう告げる。


「‥‥そっすか」 


 宗助はいつもの気のない返事を返した。しかし少しだけ語気を強めたその声には、彼の覚悟が込められている。


 るりは振り向き、御神木の長く伸びた葉の隙間から、遠くの空の雲の切間から差し込み始めた光を眺めた。


 光は降り続ける雨を照らし、光の粒の様に彩る。


 宗助もるりと同じ世界に目を向けた。


 テントの中と外。


 お互いの立ち位置が変われど、二人は同じものを見て、同じ感動を共有していた。


「お別れだね」


「暫くの間、っすけどね」


 小さな希望の火に小枝をくべるように、るりの放った別れの言葉に別の言葉を添える。


 スマホの画面の中でるりは「うん、そうだったね」と頷いた。


「宗助が言ってくれた言葉、嬉しかったよ。またいつか、一緒にキャンプ出来るといいな」


「その、またいつか、って言葉は、基本的に守られない約束で使われる事が多いんすよね」


 ふわっとした雰囲気で語られる、実現性の乏しい未来のビジョンとして終わらせるつもりなど、宗助にはない。


「またいつか、じゃなく、絶対にキャンプに行くんすからね。これは、約束なんで」


「ありがとう。ちょっとだけ期待しながら、待ってる」


「多いに期待してればいいっすよ」


 宗助の言葉に、るりは大きく頷く。


「それじゃあ、またね」


「ああ、また」


 るりは宗助に背を向ける。


 しかし、急に溢れ出した言葉達が、るりの足を止めさせる。深い森の奥で渾々と湧き出る地下水のように、感情の水流が言葉の砂利を舞上げて、辺りへと散らしていく。その中から一つをつまみあげて、るりは震える声で問う。


「もし本当にーー」振り向き、宗助を見る。宗助は首を傾げる「本当にまたキャンプに連れていってくれるなら、その時は、あの、この前飲めなかったハチミツ入りのコーヒー、飲みたいな‥‥」


 宗助は口を開かなかった。


 しかし、言葉にならない決意を表すように、口元に笑みを浮かべながら、深く、大きく頷いた。


 それを見たるりもまた、満足そうに頷いた。


 やがて冬の短い日が傾き始める頃、るりの身体は徐々に霧散し、雨音と、煤の匂いを含んだ風と、冬の寒さの中へと消えていった。


 焚き火の煙が空へと消えるように、あまりにも自然な流れで、その姿をこの白錐山へと溶け込ませていく。


 そして元から何もなかったかのように、巨大な御神木だけが、宗助の視界に残された。


 宗助はしばらく、るりの立っていた辺りを見つめていた。


 いつしか雨は雪へと変わり、裸の御神木の枝を白く染めていった。



   △



 そして、季節は巡る。


 あれから2回目の冬を終え、命の芽吹く春が始まろうとしていた。




この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?