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第38話:炎の中で頷いて⑥

 窓を開けると既に夕闇が広がっていた。


 季節が切り替わるたびにゴムのように伸び縮みを繰り返す昼と夜。連続した変化を繰り返していく時間と感覚の伸縮は、その中で生きる全ての生物の足場を揺さぶり、決して同じ場所に留まらせてはくれない。


 門前もんぜん宗助そうすけは冷え切ったサンダルに足を通し、ベランダの手すりに肘をついてタバコに火をつけた。


 るりはどうやって生まれたのだろう。


 るりがの記憶が戻ったあの日から、宗助はそんな事をずっと考えていた。

 るりーーミヤマシロヒメという存在の成り立ちを理解すれば、その存在の軸をずらす事も可能かもしれない。山に依存し、山から離れることを禁じられた彼女の鎖を、もう少し伸縮性のあるものに変える事だって出来るかもしれない。


 日本における神の発生は、人々に信仰に寄るものだと聞く。山からもたらされる恵みに感謝し、時に山から来る災いを畏怖する、そんな古代の人々の念が、山の神ーー白錐山のミヤマシロヒメを自然発生させたのだろうか。

 今のるりは、その根源的な存在理由の枠に嵌め込まれ、山から出る事を許されない不動の存在として定義されてしまっている。

 その定義を少しでもずらす事が出来れば、ミヤマシロヒメの自由がもう少しだけ拡張される可能性があるのではないか。


 では何が、ミヤマシロヒメを今の形で固定してしまっているのだろう。それは多分、人の信仰の形。人々が「そう思う」から、彼女は「そうなる」のだ。


 神と呼ばれる揺るぎない偉大な存在は、もしかしたら何よりも虚な存在なのかもしれない。


 そんな事を考えている間に、部屋着の中に溜まっていた暖かな空気の層はすっかり冷え切ってしまった。既に消えているタバコの吸い殻を床に置かれた灰皿に投下する。


 部屋の中に逃げ戻った宗助はパソコンの前に座り再び作業を始める。


 誰かに負わされた仕事ではない。


 自分自身が掲げた、今自分がやるべき事を実現させるために。



   △



「体が、前に進まない‥‥」


 絞り出すような声でるりは言う。


「やっぱり、ここから出られない」


 風は強く吹き、煙の臭いと温かな空気を運んで来る。火は向きを変え、風に導かれるまま確実にこちらへと向かって来ていた。


「宗助はもういいよ。早く逃げて、早く!」


 何度もかぶりを振りながら追い立てるようにそう叫ぶと、るりは宗助を見つめる。

 しかし宗助は御神木の根元に座ったまま動かなかい。右足を伸ばし左足を立てて、御神木に身をもたれ掛けたまま、るりを見ている。


「宗助!?」


「来る途中、足首を怪我しました」


「え?」


「無理やりここまで来て、テントを張ったんすけど、なかなか良くない状態ぽいっすね。這って移動するのも可能なんですけど、それも面倒なんで、ここに座ってようと思います」


 あくまで淡々と宗助は言う。


 るりは改めてテントを見回した。いつもなら几帳面なほど均衡の取れたテンションで張られているこのテントだが、今日は不恰好に歪み、ペグも所々が抜けかけている。時折吹く突風に大きく歪みながら、それでも何とかテントの体を保っているといった感じだった。


「そんな事はいいんで、早く出てきて欲しいんすけど。テントが倒れたら、また立て直すのしんどいんで」


 宗助は緊迫しつつある現状に不釣りいなほど、大儀そうな溜息をついた。


「でも‥‥!」


 焦りの感情がるりの足先を焼く。

 このままでは宗助が山火事の餌食となってしまう。焦れば焦るほど、頭が混乱していく。


「バカ! めんどくさがってないで這ってでも逃げてよ! 死んじゃうよ!?」 


「デカい焚き火の中で命尽きるのも、それはそれで」


「そんな事言ってる場合じゃないでしょ!?」


「それに、俺はるりを信じてるんで」


 その時、スマホが鳴った。

 繰り返し鳴り続ける電子音が、遮るもののない冬の枝の隙間を抜けて、静かな山の奥底まで染み入っていく。

 宗助は画面を見る。

 画面にはたてはの名が表示されている。


 それをしばらく見つめた後、宗助は電話を受ける事なく、スマホを手元の地面に置いた。


 電子音は2回繰り返され、止まる。


 再び静寂が訪れる。


「俺は、山火事とかホントは、どうでもいいんすよ」


 言葉が見つからずまごつくるりを制するように、宗助はテントと、その中で揺れ動いている黒い影を見ながら、淡々と語り出す。


「先輩が困ってるなとか、この山に住んでる人々が大変だとか、るりが自分を責めるんじゃないかとか、他人の事ばかり考えて自分が心底納得しないまま動いた結果がこれっす。散々っすよ、ほんと」


 泥で汚れて垂れ下がり目にかかった前髪をかきあげると、ポケットからタバコを取り出し火をつける。


「俺は我儘で、自分勝手な人間なんで、やりたい事しかやりたくないんす。るりは、俺が今何を思っているかわかります?」


 その問いかけは、記憶が戻ったばかりのるりが宗助に投げかけた質問の意趣返しだった。

 あの日るりは、目の前の命を吸い尽くしたいと言って、寄り添おうとした宗助を拒絶した。その事を思い出したるりは、黒い影の体を強ばらせた。


「わかんない」


 震える声でそう返す。


「るりと一緒にこんなデカい焚き火にあたれたなんて、一生の思い出になるな」


「は?」


 あまりにも素っ頓狂な返答に、るりは言葉を失う。


「それと、デカい焚き火もなかなか迫力があるから、るりと次にキャンプに行く時までに、もうちょい大きい焚き火台を買っとこうかな、っすかね」


「次の、キャンプ‥‥?」


 意外な言葉。

 宗助の言葉は、存在するはずのない、存在してはいけない未来を語っている。それを聞いたるりは、考えがまとまらないままおうむ返しに呟いた。


「俺はね、るりなんかじゃ相手にならないほど我儘で自分勝手だから、自分のやりたい事は絶対にやるんすよ」


 そこで一旦言葉を止め、タバコを深く吸い込み、紫煙を細く長く吐き出した。吐き出された煙は、薄らと辺りを覆い始めた巨大な焚き火の煙へと溶け込んでいく。


 るりは自分を我儘と言った。


 ならその我儘を、宗助のより大きな我儘へと溶け込ませてしまう。そんな詭弁も、るりが自身に向けた刀剣の刃を包み込むくらいの意味はあるだろう、そんな風に宗助は考えていた。


 るりは何も言わない。


 何かを考え、投げ捨て、再び拾い上げてを繰り返しているようだ。


 宗助は携帯灰皿を取り出し、タバコの火を揉み消す。そして吐き捨てるように呟いた。


「だって、自分の好きを他の何かに歪められる人生なんて、やっぱりクソじゃないっすか」


 再びスマホが鳴る。

 宗助はもはや画面も見ず、その呼び出しを受け流す。


 宗助は目の前の靄が晴れた気がした。

 実際はどんどん濃くなっていく煙と煤の臭いの中で、上空に輝く太陽だけが、不自然なほど明るく輝いているような気がした。


 宗助は俯いて大きく咳き込み、再びるりを見た。

 小さな三角形の中で、小さな黒い影が不安そうに揺れている。

 初めてるりと出会った頃は、この小さな一人用のテントに居着いた同居人が疎ましく、狭苦しく感じていた。しかし今は、その狭苦しさが懐かしく、それがなければ心の一部が欠けてしまったような虚しさすら感じる。


「私も、またキャンプに行って、いいのかな」


 消え入るような声でるりは言う。


「俺が、何とかしますよ」


「‥‥何とかって?」


「るりがまた、キャンプを始められる方法を見つけて、ここに迎えに来ます」


「でも‥‥どうやって?」


「俺は自分のやりたいキャンプのためなら、どんなに無茶な仕事の依頼だってケリをつけてきました。絶対に何とかします」


 るりは俯いて何も言わなかった。

 肯定も否定も、心にない言葉は全てこの立ち込める煙に覆い隠され、宗助には届かないような気がした。


「るりのキャンプはまだ終わんないっすよ」宗助はるりへと右手を差し出す「だから、そこから出てきて、この手を掴んでください」


 るりの右手が小さく揺れる。


「信じていいの?」


「俺は、るりが信じてくれるって、信じてます」


「何だよそれ」


「だから、ほら」差し出していた右手を突き出す「これは、契約締結の握手っす」


 突風が吹いた。


 どこからともなく運ばれて来た無数の火の粉が、宗助とるりの視界を覆い尽くした。


「宗助!」


 るりは咄嗟に宗助の元へと飛び出す。

 その足は何の束縛もないまま、呆気ないほど簡単に前へと踏み出す。


 そこでるりは、自分の心の枷が既に外れていたことを悟る。


 一瞬だけ振り返ったテントの闇の中に、名残惜しそうに、しかし満足そうに笑う達樹たつきが見えた気がした。


 宗助の右手に、るりの右手が重なる。


 死にかけの山が息を吹き返した。



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