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第37話:炎の中で頷いて⑤

 熱いココアに溶けていくマシュマロのような感覚だった。


『また、あの山に戻るのかい?』


 懐かしい声が、曖昧なままで漂っていたい意識を、小さなスプーンで掬い上げる。


『戻らないと、いけないから』


 スプーンの縁に納まったるりは、徐々に形作られている意識の中で、その問いに答える。


『なぜ?』


『私が、ミヤマシロヒメだから』


『それだけ?』


『私のわがままのせいで、山が、弱っているから』


『それだけ?』


『私と一緒にいたら、きっと宗助は、いずれ死んでしまうから』


『死んでしまう』


『そう、達樹(たつき)みたいに』


『そうか』


『だから、私はここにいちゃいけない。もといた場所へと戻らないといけないの』


『あの寂しい山の中で、これからまた何百年も、一人で生きていくつもりなのかい?』


『うん』


『それは、きっと、君が思っている以上に辛い』


『わかってる』


『今までの百年と、これからの百年は、きっと重みが違う』


『そうなのかな』


『君は、外の世界を知ってしまったから』


『そうかもしれないね。でも、行かなくちゃダメなの』


『本当にそう思うの』


『だってしょうがないもん』


『本当に、そう納得しているの?』


『してる』


『本当に?』


『してるよ!』


 スプーンから柔らかなマシュマロが流れ落ちる。


『本当は私だってもっと色んなものを観たいよ! もっと美味しいものを食べたいし、宗助やたてはさんともっとお話ししたい! でもしょうがないじゃん。そうしないと、悲しむ人がいっぱいいるんだから』


『そうなのかな』


『全部、ただの私の我儘なんだよ』


『幸せを望むことを、我儘とは言わないよ』


『わからない』


『君はもっと素直になっていい。あの日、僕と一緒に勇気を出して踏み出したように、勇気を出してここに留まる事だって、悪い事じゃない』


『宗助が呼んでる、行かなくちゃ』


『待って』


 走り出そうとするるりの手を、彼が強く握る。触れた事など無いはずなのに、どこか懐かしい温もりを感じた。


『達樹‥‥』


 固く握られた手を、るりは振り解くことが出来なかった。


『ミヤ、僕はこの場所で、ずっと君の幸せを願っているよ』



   △



 テントの中で、るりは再び目を覚ました。


 日は登り始めているのに体は睡眠を求めている。そんな冬の朝を思わせるような、気怠い目覚めだった。頭の片隅に溶けかけたマシュマロがこびり着いているような不快な感覚。しかしその残滓が何であるかなど些末な事だ。


 開け放たれたテントの三角形の出入り口からは、懐かしい巨木の幹が見える。短くも長い時間の中で、樹皮を覆う苔が織りなす模様がほんの少しだけ変わってしまっているが、そこは間違いなく懐かしき自分の居場所だった。

 二年に満たない、るりからすれば瞬きとも言えるほど一瞬の離別だったはずなのに、恐ろしく長い年月が経過しているようにも感じる。


 その御神木の根元に、宗助が座っていた。


 酷く疲れた様子で、片膝を立てながら巨木にもたれかかっている。ボサボサの髪はいつも以上に乱れていて、俯いた表情を前髪が覆っている。


「宗助!」


 宗助が顔を上げる。頬と髪の毛に乾きかけの土がこびりついていた。


「大丈夫?」


「はぁ、ちょっと手間取りました」


「ありがとう」


 るりは頷く。

 最後に気の利いた別れの台詞を告げ、芝居がかった雰囲気で湿っぽい気持ちを煙に巻こうと思ったが、何の言葉も見つけられなかった。

 感情の湖底から何らかの気泡が浮かび上がってくるのを待つ間、不自然な沈黙が風の音を強調させる。

 今の感情を言語化してしまえば、きっとその何処かに弱音が混ざり込んでしまう。そう思ったるりは、口元から溢れそうになっていた言葉を飲み込んだ。


「後は私が頑張るから、気を付けて帰るんだよ。じゃあ、さよなら」


 感情を込めずに形式的な別れの言葉を呟くと、るりはテントから足を踏み出す。

 しかしその足は、テントの外の地面を踏む事なく、再び元あった場所へと着地する。


「‥‥出られない」


 愕然とした様子でるりは呟く。


「体が前に進まない」


 るりは振り返る。

 テントのポールの辺りから伸びた黒い影が、るりの左手を掴んでいた。


 それはある男が残した思念だった。

 ミヤマシロヒメの幸福を願った男が、最後に残していった願いの残滓。巨木に巻きついたまま枯れていった固い蔦のように、その願いがるりの腕を掴み、彼女との別れを拒んでいる。

 そしてるりは、その朽ちかけた手を振り払う事が出来なかった。


 今このテントとの繋がりを断ち切れば、再びこの『緑の檻』に囚われてしまう。


 名残惜しさを通り越し、身悶えるほどの渇望を呼び起こすほど、このテントでの日々は、そして左手を掴むこの手は、温かかった。



   △



 避難所となっている公民館側の空き地に車を停めて、たてははスマホを開いた。スピーカーから山火事の状況が断続的に流れ、土地勘のないたてははその内容とスマホのマップを見比べながら現状の把握に努めた。


「ったくもう、山南地区ってどこよ‥‥」


 放送はあくまでも土地勘のある近隣住民に向けておこなわれているため、門外漢のたてはが見つめる大雑把なスマホのマップでは状況を把握し切れない。

 ただ、風向きが変わって、火の勢いが強まっている事はわかった。その断片的な情報は、余計にたてはを焦らせる。


「山南地区はね、えっと、あのミヤマシロヒメ様の御神木があるあたりだよー」


 予期しなかった返答にたてはが驚き振り返る。疲れた笑顔の弥生が立っていた。


「弥生ちゃん、大丈夫なの?」


「うん、取り敢えずは避難所待機だし、他にする事ないから、うろうろしてるんだー」


 じっとしていると落ち着かないのだろう。右足の踵が小刻みに震えている事にたてはは気が付いた。


「山南地区が、どうかしたの?」


 弥生のその一言で、本来の目的を思い出す。放送では確か、火は山南地区に向かって燃え広がっていると言っていたはずだ。


「弥生ちゃん、ちょっとごめん!」


 たてははスマホを操作し宗助を呼び出す。

 現状を報告し早く戻って来てもらわないと、もしるりが山火事を鎮火する事が出来なければ、逃げ遅れて火事に巻き込まれる可能性もある。もし何かトラブルがあって動けない状態なら、すぐに助けに向かわなければならない。いや、そんな事考える前に、今すぐにさっきのキャンプ場跡に引き返すべきかーー

 10回コール電話は繋がら図、留守電に転送される。一度切ってもう一度かけ直しても結果は同じ。

 たてはは小さく舌打ちをした。


「宗助さん、御神木のあたりにいるの?」


 何かを察してか、弥生が首を傾げながら尋ねる。

 この事態の最中、山火事の中へと飛び込んでいった宗助の行動について、納得のいく説明が思い付かない。

 たてはは答えあぐねて、曖昧に返答を濁した。


 しかし、弥生はその反応に納得したのか、大きく一回頷き、山から立ち上る煙に視線を向けた。


「消防の人達は、今も消火活動を頑張ってくれてるよー。だからきっと、大丈夫。なんか情けないけどさー、今の私に出来る事は、みんなの無事をミヤマシロヒメ様に祈る事くらい」


 大きな溜め息をついた弥生は、たてはに横顔を見せたまま言う。


「あたし達に出来ることなんて限られてるし、その中で何が一番大事かって考えたら、切り捨てなくちゃならない望みだってある。でも、宗助さんには別の答えを見つけてほしいなー」


「えっ?」


「なんちゃって」


 弥生はたてはの方を向いて、悪戯っぽく笑う。

 たてはの表情を覗き込み、予感していた何かが確信に変った満足感で、再び大きく頷いた。


「多分、宗助さんはわかってくれてる。あたしの旦那がそうだったように、ね」



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