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第36話:炎の中で頷いて④

 宗助そうすけの足取りは重かった。


 キャンプ場から御神木へと通じる遊歩道。近年は多くの人に忘れ去られ、土砂崩れの末に通行止めとなった今ではこの道を歩く人は皆無だろう。夏の間に自由気ままに生い茂った草木が、褐色の紐のように宗助の体にまとわりつく。


 やはり体力の衰えは回復していない。

 るりによって削り取られた魂の摩耗は、可逆的な減退なのか、それとも不可逆的な損失なのかはわからない。いずれにせよ、今この場で足を止めて一息入れたところで、状況はさして変わらないだろう。


 るりの宿ったテントが肩に重くのしかかる。ここからるりが消えたら、21グラムほど軽くなるのだろうか。物理的には単なる誤差の範囲だが、心における損失は如何程なのだろうか。


 宗助はるりの事を考える。

 別れ際、るりに伝える言葉がみつけられていない。そんな焦りが宗助の足取りを更に重くしていた。


 しばらく歩くと目の前に土塊の山が立ちはだかった。

 遊歩道の右上から左下に向けて地面が盛り上がり、乾燥した表面からは小さな雑草が生え始めていた。宗助は足を止めて、土砂崩れの範囲を確認する。左下は深い渓谷になっているためそちら側から迂回するのは不可能だし、右側は高い壁になっていて同様に迂回は難しい。やはり、土砂の山をよじ登って先に進むしかないようだった。


 テントを背負い直し、土砂の山に足を掛ける。両手両足にかける体重を上手く調整すれば、何とか登る事が出来そうだ。

 素手で触れた土は冷たく、体の芯から体温を奪っていくような感覚があった。


 山を守る。

 人々の暮らしを守る。

 小さな問題など包み込んでしまう程の、大きな使命のようなものに突き動かされて、宗助はるりをミヤマシロヒメへと戻すために奔走している。

 しかし本当にそれでいいのだろうか。

 この決断によって再び檻へと閉じ込められてしまうるりの夢や望みは、止むを得ない犠牲だと割り切ってしまっていいのなのだろうか。

 誰かを犠牲に誰かを助ける。トロッコ問題に正しい答えがないように、限られた選択肢、限られた時間の中で、どちらの行いが正しいかなど判断できるわけがない。

 今は目の前に生じている大きな問題を表面上でも解決していく事が、自分のするべき事なのだろうと宗助は思う。

 そして、その決断をるりが拒む筈がないという甘えもまた心の何処かに巣食っている。自分の為に他者が犠牲になるくらなら、喜んで何百年もこの山に縛られる事を望む、るりがそういう少女だと宗助は知っている。


 でも、だからこそ、彼女が声に出せない本当の望みを汲んであげられるのは、この世界で自分しかいないのではないか。だったらーー


 思考の足踏み。


 一瞬の油断。


 均衡を保っていた体幹のバランスが崩れ、左肩に背負っていたテントが滑り落ちそうになる。

 それを阻止しようと右側に側に体重を移す。

 重みに耐えきれず、足場にしていた土塊が崩れる。


 バランスを崩した宗助の身体は、渓谷へと傾いていった。



   △



 路肩の停車スペースに車を停め深くため息を吐いたたてはは、サイドミラーで来た道を眺めた。普通自動車の免許は持っているものの、普段はバイクしか運転していないためどうにも慣れない。運転中の視点がやけに高く、自分の足周りが確認できない事が妙に不安感を煽る。

 シートにもたれかかると、たてははスマホを覗いた。地図アプリで自分の位置を把握し、窓を開けて風向きを確認する。


「風向きが、マズイかも‥‥」


 山火事の地点から御神木の辺りに向かって風が吹いている。それなりに距離があるため問題はないと思うが、時間が掛かると危険かもしれない。

 その旨を宗助にLINEで送る。既読がつかないところを見ると、まだ歩いている最中なのかもしれない。


「ほんと、気を付けてよね」


 再びハンドルを握って、たてはは呟いた。



   △



 土砂の横に倒れ込んでいた宗助はゆっくりと体を起こした。左手にテントが握り締められていることを確認し安堵すると、その先に渓谷が大きく口を開けている事に気付き、慎重にテントを引き寄せた。

 運良く渓谷に落下する寸前で踏みとどまる事ができた。土砂崩によって隆起した木の根で踏ん張ることが出来なかったら、確実に渓谷へと落下していただろう。

 這いつくばりながら土砂の山を登り切り、テントを抱えて向こう側へと滑り降りる。


 両足が地面についた時、右足首に激痛が走った。


 痛みに顔を歪ませ、足を引っ込める。再び恐る恐る足を地面に置くと、痛みの刃が足首に突き刺さる。


「くそっ‥‥」


 悪態を吐いて、右足の靴下を捲る。赤く腫れ上がった足首は少しの可動で骨が擦り切れるような痛みを主張した。おそらく落下を免れようと木の根を踏みしめたとに捻ってしまったのだろう。少し休んでいれば痛みは引くのかもしれなが、そんな悠長なことを言っていられる場面ではない。

 宗助は這いつくばって、土砂崩れで倒壊した木へと向かう。適当枝を折って右足に添え、脱いだ靴下で巻き付ける。気休め程度だが、これで右足を固定する事ができるだろう。

 左足に比重を置いて立ち上がった。肩にかけたテントの重みが増したような気がする。

 右足を引き摺りながら、再び御神木までの道を歩み始めた。


 痛みで脳が徐々に麻痺していく。


 全身の筋肉が硬直し、錆びた薪バサミのように軋みを上げている。


 今まで歩いてきた距離から判断すると、御神木まではあとほんの数百メートルのはずだ。

 そのはずなのに、どれだけ痛みに耐えて足を前に進めようと、一向に辿り着けない。


 焦情が炭酸の気泡のように浮かび上がり、水面で破裂し消えていく。感情が徐々に弱まり、炎天下に放置された栓の抜けたラムネのように温くベタついていく。


 空を見上げた。

 何処からか流れてきた煙が、真上に浮かぶ太陽を霞ませている。


『あの煙はーー』ある日のキャンプで、テントの入り口から空を見上げたるりは言った『あの煙は何処まで流れてくんだろうね』


『さあ』宗助は素気なく返し、るりの次の言葉を促すように煙の行く末を辿った。


『多分さ、どんどん薄くなって、空気に溶け込んでいくんだろうね』焚き火の煙と空との境界が、徐々に曖昧になっていく。


『そうやって、消えていくんじゃないっすかね』


『消えないよ、きっと』るりは首を振る『小さな目に見えない粒になって、世界中を旅するんだと、私は思う』


『はあ』


『いつか宗助が、遠くの街や、もしかしたら地球の裏側で吸い込んだ空気の中にだってーー今日の焚き火の煙が含まれてるかもしれないよ』


『それは、まあ、あり得るかもしれないっすね』


 焚き火の煙は空へと登っていく。


 あれは蝉の鳴き声が五月蝿い、夏の日の午後。色濃く葉を広げたクヌギの木を揺らす風によって、煙は左右に靡きながら世界の隅々まで染み入っていく。


 テントの影の中に紛れるように、空を見上げている黒い影の少女は、世界の果てまで繋がっているこの空を、恋焦がれるような目で見つめているに違いない。


 自分自身の運命を抗いもせずに受け入れながら、過去も、そしてこれからもずっと。


 伝えるべき言葉が見つかった気がした。


 それはおそらく、別れの言葉ではない。



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