願いと呪いは表裏一体と言われる。
山からくる災を恐れ、豊作を願い、古の人々は山の中に一人の少女を生み出した。少女は山を信仰する人々の願いを一身に受け、途方もない時間をこの白錐山の秩序を守る事に費やしてきた。
そんな人々の願いは、少女にとってはある意味呪いだったのかもしれない。
長い年月の中、石の中で眠る珠玉が流水で削られ顕になるかのように、少女の中に少しずつ自我が芽生えていった。そして少女は、この山よりも遥か先、広い世界を渇望するようになる。
しかし少女はこの地を離れる事など出来ない。そのまま幾度となく夏が訪れ、冬が過ぎていった。
やがて人々の信仰は長い年月の中で薄れていく。少女を山に縛り付けていた願いと呪いの鎖は、徐々に錆びつき腐食していった。
そして茶色く変色した輪の一部に亀裂が入った時、少女は一人の青年と出会う。
『僕と一緒に、行きませんか?』
青年は少女に新たな願いを掛ける。崩れ掛けの鎖は引き千切られ、少女は外の世界へと歩み出す。
しかしその願いもまた、新たな呪いと隣り合わせでしかない。
『次に目覚めた時、全ての足枷を外した君が、僕じゃない誰かと幸せな旅を続けている。そんな未来を、僕は願っているよ』
青年が去り際に掛けた願いは、今度は少女を、このワンポールテントへと固く縛り付けた。
たてはの願い。
ミヤマシロヒメーーるりの願い。
そして、燃え広がる火を不安な目で見つめていた
その内なる願いは、白錐山の麓で育った人々の根底に存在する、この山を愛する感情から湧き上がってくるものなのかもしれない。
いつしか誰しもが、昔語で聞いたミヤマシロヒメへと、事態の終息と山の平安を願っていた。
様々な願いが交錯する中、火はゆっくりと燃え広がっていく。
△
スマホの写真に収められた古い冊子の地図と、マップアプリを見比べながら、たてはは人差し指でルートを辿った。
「多分、ここが土砂崩れになっていると思うけど‥‥こんなふうに迂回して行けば、そんなに遠くないと思う。うん、大丈夫」
自信のなさを打ち消すように何度も頷く。
キャンプ場から御神木まではそれほど長い距離ではないが、途中の土砂崩れで道が遮断されているため、林の中を迂回して先の道へと辿り着かねばならなない。
さらに御神木に辿り着けたからといって、るりがテントから離れ、ミヤマシロヒメへと戻ることが出来るのかもまた未知の領域だ。
「よし、行こう」
「ちょっと待って」
テントを畳もうとするたてはを宗助が制す。
「何? 急がないと」
「先輩は、麓まで戻ってて下さい。俺が行きますんで」
「え、何言ってんの? すけ君体力落ちてるんだし、一人じゃ危ないよ」
「風向きが目まぐるしく変わってます。多分、誰かが火の状況を把握して指示してくれないと、火に囲まれて帰れなくなるかもしれないっす」
「うんそうだけど」
「麓に戻って、スマホで指示して下さい。先輩は地元の人と交流があるから、情報も仕入れられるかと思います」
確かに、一人で火の状況を把握するのは不可能だが、不安そうに火の動向を見守る地元ネットワークに接続できれば、ある程度の状況は把握できる。
そしてそれはコミュニケーション力が低い宗助よりもたてはが適任だろう。
「ほんと、大丈夫なの?」
「余裕っす。多分2時間くらいで事が終わると思いますんで、またこのキャンプ場で落ち合いましょう。連絡入れます」
「うん」不承不承といった様子でたてはは頷く「すけ君の車に乗って戻ってていいの?」
「はい」
「すけ君、車の保険は?」
「はい? あ、本人限定っす」
「もしぶつけたら、修理費割り勘ね」
「はあ」
たてははテントの中を覗く。
この作戦が上手くいけば、おそらくこのテントの中でるりと会うのも最後になるだろう。白錐山に来ればまた会うことも出来るだろうけど、るりと色々な場所へ赴く事は叶わなくなる。
スマホのカメラ機能を黒い影に向ける。
神妙な顔で頷く少女が映っている。
「るりちゃん、ごめんね」
最初にそんな言葉が口をついて出た。
るりの本当の願いを断ち切るような決断、その後押しをしてしまっている罪悪感。
そしてそれ以外も、様々な『ごめんね』がたてはの中で溢れてくる。
妹のような存在だと言いながらも、るりの正体を怪しみこっそりと素性を探るような行いをしてしまった事。純粋に自分を好いてくれる無垢な笑顔に、腹黒い偽りの笑顔で返してしまった事。そして宗助がるりに向ける視線への少しだけの嫉妬。
「なんで、あやまるんですか?」
緊張で引き攣っていた頬を弛緩させ、るりが問う。
「謝りたい事、いっぱいある」
「何でですか?」
「私、結局るりちゃんの嫌がることしかしていないから。だから、ごめんねって言いたいの」
るりは笑顔を崩さない。
その姿が一瞬霞む。再び姿を現した時、るりの服装は初めてたてはに会った日のキャンプスタイルに変わっていた。
「やっぱりこの格好が一番落ち着きます」るりはたてはに向けて伸ばした手を見つめ、苦笑いを浮かべる「とはいえ自分じゃ見えないんですけどね。でもたてはさんと同じだって思うと、落ち着くんです。いろんな本を見て、いろいろ真似したんですけど、やっぱりこの格好が一番なんです」
それは、たてはの感じているごめんねの全てではないかもしれない。しかし彼女の感情を精一杯受け入れた上で、るりは言った。
たてはは、そんなるりの気持ちが嬉しかった。
「似合っているよ」
「ありがとうございます」
「落ち着いたら、白錐山に会いに来るよ」
「楽しみにしてます」
「山が平和になって、土砂崩れが解消されて、このキャンプ場が無事再開されたら、月一でキャンプに来るからね」
「早く再開されるように、私頑張ります!」
「うん、お願い」
たてはの中で、何かが氷解していくような気がした。焦りや恐れ、様々な感情によって見えなくなっていた物が、心の奥底で輝きを取り戻していく。
「それと、宗助の事なんだけど」
「はい」
「無理やり突き放したりしないで、もうちょっと優しくしてあげてね。あいつ、るりちゃんの事好きみたいだからさ」
「は?」
「あなた達二人の、お姉さんからの忠告」
「はあぁあああ‥‥」
動揺して目を白黒させるるりを見ていると、自然と笑顔が溢れてきた。
「なんか、名前呼ばれた気がするんすけど」
不審そうな顔で宗助歩み寄ってくる。
「いや、何でもない。そろそろ行こっか。るりちゃん、テント畳むけどいいかな?」
「は、はい」
たてはの問いかけに、顔を赤くしたるりは何度も頷いた。
△
「じゃあ、あとは頼んだよ。情報があったったらLINEで連絡するし、緊急の時は電話するからちゃんと出てよね」
たてはは宗助のジムニーに乗り込み、山を下っていった。残された宗助はテントの仕舞われたバッグを肩にかけて、御神木へと通じる山道の入り口を見つめる。
焦げ臭い匂いがこちらにも流れてきている。また風向きが変わったのかもしれない。
たてはの前で強がってはみたものの、宗助は自分の身体が鉛のように重たい事を自覚していた。頭痛の種子が、頭の奥底で今にも芽吹こうとしている。
「行くか」
そう呟くと、宗助は山道に向けて踏み出した。