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第33話:炎の中で頷いて①

 白錐山に向かって、宗助そうすけは車を走らせていた。助手席に座るたてはも、神妙な表情でスマホの画面を覗き込んでいる。


 通勤ラッシュの国道で、鈍間な赤信号が長い長い車の列を作っている。

 宗助は小さく舌打ちすると、コンビニとドラックストアの隙間の細い道から、車通りの少ない市道へハンドルを切った。

 登校中の中学生の列を慎重に横切り、アクセルを踏み込む。

 横目でたてはを見ると、まだスマホの画面を覗き込んでいる。そして眉間を中指の腹で押さえながら、長い溜息の後に言った。


「火、やっぱりまだ消えないみたい」



   △



 宗助は朝のルーティーンのBGM代わりに、いつものようにテレビをつけた。普段通りの朝だったが、ニュースキャスターが聞いた事のある地名を口にしたため、なんの気無しにテレビに目を向ける。


 そこで宗助は白錐山の火災を知った。


 昨日の夕方頃になんらかの理由で着いた火が燃え広がり、消防による夜通しの消火活動も鎮火には至っていないらしい。

 テレビ画面にはドローンで撮影された火の様子と、不安げな顔で遠巻きに火災を眺める近隣住民の後ろ姿が映し出されていた。


 呆気に取られて画面を見つめていると、枕元に置いていたスマホが鳴る。一瞬スヌーズの消し忘れかとも思ったが、画面を見るとたてはからの着信だった。


「すけ君! 起きてた!?」


 通話ボタンを押した途端、たてはの声が弾ける。


「はあ」


「ニュース見た? ヤバいことになってるよ!」


「山火事のことっすね」


「うん、そう!」


 食い気味の返答。たてははもどかしそうに捲し立てる。


「私、弥生やよいちゃんにLINEしたんだけど、火が全然消えないみたいなの! あ、弥生ちゃんは安全なところにいるから安心して! それでその火事なんだけど、このままだと山全体に燃え広がる可能性があるって! 消火活動も全く効果がなくて、おかしいって! 異常事態だって!」


「先輩、落ち着いてください」


「いやでも!」


「ヤバい事は分かりましたんで」


「うん、そうだね。一旦、深呼吸‥‥」


 電話の向こうから、たてはの呼吸音が聞こえる。


「それでね、私は思うんだ」


 落ち着きを取り戻したたてはが、ゆっくりと慎重に、言葉を選びながら言う。


「この消えない火災って、白錐山の『神の不在』が影響しているんじゃないかな」


 宗助は頭の中が熱くなるのを感じた。


 るりを白錐山に還す。

 その問題を「自分とるり」の問題だと過小に解釈していたが、本来それは白錐山という自然界の秩序にも深く関係する問題なのだ。


 農作物の不作。


 土砂崩れ。


 そして今回の火災。


 秩序を守る存在を失った白錐山のバランスは崩れ、徐々に破滅の方向へと傾いていた。

 考える事を避け、自分の手に余ると放置していたその問題が、今最悪の形で表面化してきている。


「行かないと」


 宗助は呟く。


「‥‥うん」


 数秒の余白の後に、たてはは応える。


 自分達の行動が本当に解決に繋がるのかはわからない。だが、このまま何の決断も下さず、全てを先延ばしにし続ければ、るりの故郷である白錐山は煤とヤニに塗れた寂寥の地へと変わってしまうだろう。


 急いで身支度を済ませた宗助は、ジムニーの運転席に乗り込む。

 バイクのエンジン音がアパートの駐車場で停止する。助手席のドアが叩かれ、肩で息をしたたてはがドアの外に立っていた。



   △



 田園を貫く農業道路を走る。


 たてはは助手席の窓から外を見渡す。

 先日この道を走った時、水田では稲穂の作る金色の波が揺れていたが、今それらは刈り取られ、ひび割れた褐色の土が露出している。

 冬の始まりを感じるその風景だったが、宗助やたてはにはその情緒を受け入れる余裕はなかった。


 道の先に聳える白錐山の、中腹から上る白い煙。


 それは、この事態が画面の中ではなく現実の出来事であり、予断を許さない状態である事を示している。


 山麓にはいくつかの家が立ち並んでいる。車の停まっている家では、膨らんだバッグをトラックに押し込んでいる様子が見えた。もし火の手が家の側まで伸びてきた場合の、逃げる準備なのだろう。


 道路傍では老人が不安そうな眼差しで、自分の家と山の煙を見比べていた。


 消防車のサイレンが聞こえたため、宗助は車を路肩に寄せる。大きな消防車が、路肩に呆然と立ち竦む老人達を慎重に横切りながら、通り過ぎて行った。


「あ、ちょっと止まって!」


 しばらく走ったところでたてはが声を上げる。宗助は言われるまま道路横に車を停めた。


「あれ、弥生ちゃんだ」


 たてはが指差す先には数人の人集りが出来ていた。その中の一人の顔が、先日キャンプ場で会話した管理人の女性と重なる。

 車を降りて小走りで歩み寄ると、その見覚えのあある顔の女性もこちらに気づいたようで、手を振った。しかしその表情は記憶にある柔らかな笑顔ではなく、不安と緊張で引き攣っている。


「弥生ちゃん」


「お姉さん、宗助さん」


 弥生は無理やり作った笑顔を二人に見せる。しかしその目の奥には隠しようもない恐れの感情が宿っていた。生まれ育った家が炎に包まれるかもしれない恐怖が、化粧っ気のない瞳の奥で揺らいでいる。


「来てくれたんだー、なんか、ありがとー」


 来たからといって自分達に何かが出来るわけではない。少なくとも、常識の範囲内では。

 側から見れば単なる野次馬でしかないであろう自分達の行動に後ろ暗いものを感じながら、宗助とたてはは弥生の周りの人集りを眺めた。


 若い男性と、中年の男女、老人が一人。


「火は、まだ山の向こうだから、うちの方までは来ないと思う。でも念のためで貴重品は車に詰めたから、何かあったらすぐに逃げられると思うよー」


 そう言った弥生だったが、やはり心配そうに煙の上がる方を見ている。


「これはこれは、先日の学者のお嬢さん」弥生の隣に立つ老人がたてはを見る「いやはや、酷いことになりましたよ」


「先日はありがとうございます」


「ミヤマシロヒメの資料は役に立ちましたか?」


「はい」


 たてはは二度、小さく頷いた。

 この老人が弥生の祖父で、たてはがミヤマシロヒメについて調べる手助けをしてくれた人物なのだろう。たてはが居酒屋で語った話を思い出しながら、宗助は二人の関係を推察した。


「なかなか手強い火のようですが」老人も後ろを振り返り、煙の上る山並みを眺める「最後にはミヤマシロヒメ様が、きっとなんとかしてくれますよ」


「そうですね」


「実は私、子供の頃に。御神木の側でミヤマシロヒメ様を見たことがあるんですよ」


「はい」


「私が旅人じゃなかったからですかね、話しかけられる事はなかったんですが、慈愛に満ちた様子で御神木を眺めてましたよ」


「そうなんですか」


 たてはは口を挟むわけでもなく、老人の言葉に頷き、次の言葉を促す。


「そんな彼女が、山の危機を見過ごすわけがない」そう言って老人は振り返り、宗助とたてはを交互に見比べた「だから大丈夫です。心配はご無用です」


 折れない信頼に裏付けられた、力強い笑顔だった。



   △



 宗助とたてはは再び車に乗り込んだ。


「潰れたキャンプ場に向かおう」


 スマホの地図アプリを操作しながらたてはが言う。


「そこなら誰もいないはずだから、テントを立てても怪しまれたり止められたりないと思う」


「そっすね」


 山の向こう側から待ってくる煤をワイパーで払いながら、宗助は頷いた。


 先程の老人の言葉が宗助の胸に強く残っていた。るりをテントに留め続けた事が、見ず知らずの人々の信頼を損ない、山に生きる生物の秩序を乱している。それを実際に目の当たりにして、強い罪の念が心を覆う。

 しかしそれと相反するように、るりと共に歩むことへの憧れや喜び、そして何より、スマホの画面の中で屈託なく笑う彼女の姿が、暗闇に灯した一本の蝋燭のように揺らめき、黒の侵食に抗っている。


 この後に及んで、まだ尚感情を統合できていない自分に対し、宗助は苛立ちを覚えた。


「出来る事をやるしかないよ」


 舞い落ちる煤を目で追いながら、たてはは言う。


「今目の前の惨事を食い止めるために、私達が出来る事を考えて、それをやってみるしかないんだよ」


 たてはの言葉は自分自身に言い聞かせるようだった。


 宗助は無言で頷く。



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