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第32話:深淵から浮かび上がる④

「あなたは、自分の身を危険に晒してまで、親の元からあなたを奪おうとすする旦那さんを見て、どんな気持ちになったんすか?」


「ちょっとすけ君!」


 不意に宗助そうすけが放ったその言葉は、抜き身の刀剣のように鋭かった。

 おそらく宗助には明確に問いたい疑問があるだけで、無神経に相手を傷つけるような人間ではないとわかっている。ただその発言は、あまりにも誤解を招きかねないものだった。

 だから、たてはは慌てて止めに入る。


「うーん、旦那が殴られてる時のあたしの気持ちですかー?」


 しかし当の弥生やよいは不快感を示す様子もなく、宗助の質問に首を傾げる。

 彼女は他人の悪意にひどく無頓着であり、だからこそ他人の善意を素直に受け止める寛容さを持ち合わせているのだろうか。


「うーん、なんだろう、もうやめてほしいなって気持ちだったかなー。こんなセリフは自意識過剰っぽいけどさ、あたしのために争わないでー、っていうかー」


 言って、恥ずかしいのか照れ笑いを浮かべる。


「やめて欲しかったんすか? 旦那さんには自分の身を案じて、身をひいて欲しかったんすか?」


「そうかもしれないねー。だって大事な人が傷つけられるのって辛いもん。あたしなんかのために傷つくなら、あたしの事なんて忘れて、別の人と幸せになって欲しいって思ったよ。でもーー」


 風が吹いて焚き火が揺れる。乱れた陰影が、弥生の表情を覆い隠す。

 風が止み、再び暖かな炎が辺りを照らした時、慈愛に満ちた表情の弥生が、頬をあからめながら頷いていた。


「でも本当は、本当はね、すっごく嬉しかった」


 秋の虫はそれぞれが違った音を響かせながつつも、調和のとれた荘厳な楽曲を組み上げている。焚き火の中で枝葉が爆ぜる小さな音が、疎な拍手のように楽曲の節目節目を彩る。


「そっすか」


 宗助はそう一言だけ返すと、再び焚き火を見つめる。


 たてはは、彼が聞きたかった事が何なのか、わかった気がした。宗助はきっと、弥生の経験にるりの現状を照らし合わせている。

 弥生の放った『本当はすごく嬉しかった』という言葉が、宗助の心情にどのような影響を与えたのかはわからない。ただたてはは、この親愛なる後輩の心に、何らかの救いをもたらしてくれて欲しいと切に願っていた。


「今になって思えば、あたしがお父ちゃんをぶん殴るってのも一つの手だったかもしれないねー」


 弥生は握った拳を天に掲げる。

 そこには、雲の隙間を抜けて白い満月が輝いていた。


「仮に‥‥仮になんすけど、もしその『ミヤマシロヒメ』とやらが現実に存在していたとしたら、そいつは自分を山から連れ出してくれる事を、望んでるんですかね」


 宗助は焚き火を見ながら、独り言のように呟く。


「そうですねー」弥生は唇の先に人差し指を当てる「えーっと、あなたの名前、何でしたっけ?」


門前もんぜん、宗助っす」


 弥生は含みのある表情で何度か頷いた後、全てを包み込むような笑顔で言った。


「宗助さん、あたしは神様の気持ちはわからないですけど、やっぱり嬉しいんじゃないですかね。誰かが、心の底から、本気で、自分を連れ出そうとしてくれるのなら」



   △



 21時を過ぎたところで、管理棟前の集まりはお開きとなった。

 再び坂の上に戻って、椅子に座ったまま夜を越そうとする宗助を引き留め、たてはは自分のテントに泊まる事を提案した。あんな防寒が不十分なところに放置して、翌日冷たくなって発見されでもしたら寝覚が悪い。

 最初は嫌な顔をして断っていた宗助だったが、何度も引き留めるたてはに根負けし、渋々たてはのテントに泊まることにした。


 そして今、薄暗いテントの中でたては、寝袋の裏地を摘みながら宗助の動きに耳を澄ませていた。


 寝息が聞こえないところをみると、宗助はまだ起きているのかもしれない。1mほど離れた位置にいる異性の存在が、たてはの胸を昂らせ、流れのまま宗助を同じテントの中に招き入れてしまった事を酷く後悔していた。


 同じキャンプを趣味とする者同士だったが、二人でキャンプに繰り出す事などほとんどなかったし、まして二人で同じテントに寝泊まりする事なんて今まで一度もなかった。


 自分が宗助に感じている関心の根源が一体何なのか、たてはにはわからなくなっていた。


 寝袋に埋めていた顔を上げ、衣擦れの音に酷く敏感になりながらも、目だけで宗助の表情を覗き見る。


 宗助は目を開けたまま、暗い天井を眺めていた。


 無表情ではあったが、その横顔には悲しみと悩みと戸惑いが滲み出ている事に、長い付き合いのたてはは気付いてしまった。


 やっぱり、るりの事を考えている。


 たてはは自分の勘の良さを憎んだ。


「すけ君‥‥」


 音のないテントの中に、たった一つの小さな言葉が転がる。


 私が、いるよ。


 そんな感じの言葉を呟いて、彼の頬に手を伸ばしたくなる自分の感情を、たてはは既の所で押し止める。


 そして、代わりの言葉を投げかける。それは代替の言葉ではあったが、彼女の本心でもあった。


「すけ君、らしくないよ」


 暗闇を眺めている宗助の目が、瞬いたような気がした。


「自分が正しいと思ったら、空気を読まないで行動するのがすけ君でしょ。るりちゃんが気遣いで、さよならを切り出したんだとしたら、そんなの関係ないって、俺がなんとかするから自分の本心に従えよって、不器用に解決に向けて行動するのが、私の知ってるすけ君じゃん」


 言いながら、たてはは自分の気持ちに気付く。

 しかし即座にそれを覆い隠して、いつもの先輩としての自分を作り出す。


「殴られればいいじゃん。ボコボコに、さ。ボコボコになりながら、二人共が納得のいく解決策を見つけてみせなよ」


 そこまで言って、たてはは「もう寝る」と寝袋に顔を埋める。


 宗助の返事はなかった。


 しかし、しばらくして小さな寝息が聞こえ始める。

 たては彼に似つかわしくない、その可愛らしい息遣いに安堵し、眠りについた。



   △



 それから数日が経った。


 それは、ある老人が、畑仕事の終わりに吸ったタバコの火が発端だった。


 小さな火種は徐々に広がり、気が付けば秋の終わりの枯れた草木に燃え移っていた。


 後に、その火種の燃え広がり方は通常と比べて明らかに早く、風や草木の状況などの悪い偶然がいくつも重なった、との見解が出される。

 しかしそれが、山を守べき『神』の不在が原因であると知る者はほとんどいない。


 いずれにせよ、黄昏時に燃え始めた火は、明け方には巨大な炎の渦へと変わっていた。


 白錐山の火災。


 それを宗助は、テレビのニュースで知った。



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