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第31話:深淵から浮かび上がる③

「ほらほら姉さん、お酒がなくなってるよー」


 夕日が、黒く染まった広葉樹の枝に吸い込まれ、長い秋の夜は肌寒い空気を纏ってやって来る。林間キャンプ場の澄んだ空気は、数万光年離れた微かな星の光ですら、濁らせる事なく地上へと迎え入れてくれる。

 特別感のあるそんなキャンプの夜は、キャンプ慣れしている筈のたてはにだって、いつも新鮮な感動を与えてくれる。


「あー、ちょっとまってて。私、すけ君の事も呼んで来るから」


「あー、カレシさーん?」


「だーかーらー‥‥まあいいや。いって来るね」


「はーい」


 管理棟前の広場で豚汁を振舞っていた弥生やよいだったが、いつの間にかたてはの隣で500ミリの缶ビールを傾けていた。彼女に勧められるがまま酒を水のように呷っていたたてはだったが、ふと宗助の事が気になって席を立つ。


 宗助は今晩、遊歩道の坂を上った白錐山の見える丘にテントを張り、るりの記憶が戻るのか探りを入れる予定だった。

 事の成り行きは当然気になってはいたものの、弥生からひっきりなしに注がれるビールをやっつけていると、気が付けば夜も更け始めていた。


 若干の千鳥足で、熱った頬をくすぐる夜風を楽しみながら、たてはは遊歩道を上っていく。


 フクロウの鳴き声が不気味に響いた。


 風で揺れる乾いた木の葉の音は、秋の深まりと冬の訪れを感じさせた。


 弥生の作った豚汁は絶品だった。宗助に持たせてやれば、きっとるりも喜んで食べてくれるに違いない。

 ローテーブルを挟んで向かい合った二人が、うまいうまいと豚汁を味わっている様子を想像する。なんだか微笑ましくて、たてはは一人でニヤニヤと笑った。


 坂を登り切る。


 そこに、あるべきはずのワンポールテントはない。


「あれ? いない?」


 ついつい、そう独りごつ。


 もしかして勝手にテントを畳んで帰ってしまったのか。まさか二人の間で何らかの合意があり、二人だけで白錐山へと向かってしまったのか。


 酔って鈍った頭を回転させ、たてはは不可解な現状を一旦整理しようと試みる。


 そこでふと、暗闇の中に人間大の塊が鎮座している事に気づいた。


「あれ、すけ君?」


 塊は答えない。


 失礼ではあるが右手に持ったハンドライトの灯りを塊に向けると、椅子にもたれてぼんやりと虚空を眺めている宗助の姿が照らし出された。


「すけ君、何してんの?」


 宗助はやっとたてはの存在に気付いたようで、大義そうにゆっくりとたてはの方へと顔を向けた。

 ハンドライトの向きを変えながら、たてはは再び尋ねる。


「どうしたの? 何で一人で座ってんの?」


「るりの、記憶が戻りました」


 たてはは息を呑む。

 るりが自分の記憶を取り戻したという事は、つまり自らの正体が分かったということだ。


「るりちゃんは、やっぱり『ミヤマシロヒメ』だったの?」


「はい」


 自分の仮説が立証された事にほんの少しの喜びはあったものの、それもどこか気が抜けた宗助の様子と、あるはずのないテントが消えているという現象から、あまり好ましくない事態に陥っている事は容易に想像できた。


「それで、るりちゃんは?」


「山に帰して欲しいって、そう言われました」


「そう、なんだ‥‥」


「でも、なんていうか言語化できないんすけど、それだけじゃないような気がして」


「帰っちゃったの?」


「いや、そこにます」


 宗助が顎で刺し示した先には、袋に仕舞われた件のワンポールテントとが置かれていた。

 るりがまだ止まっていることに、たてはは安堵の溜息を吐いた。最後のお別れもないまま離れてしまうなんて、そんなあっけないサヨナラは絶対に認めたくない。


「ちょっと、意見が合わなくて。一旦眠ってもらいました」


 抑揚のない話ぶりだが、宗助の心の中を様々な感情が渦巻いているのは見てわかる。タバコを咥えているが火はつけず、唇の先で無意識に弄んでいる。


「そっか。で、今日はそのまま椅子に腰掛けて朝まで過ごすつもり?」


「はあ」


「下で管理人さんが豚汁作ってくれてるから、とりあえず下りてきなよ」


「いいっす」


 拒否されたものの、このまま宗助を放っておくわけにもいかない。宗助の性格なら、おそらく朝までこのまま椅子に座り続けるだろう。体調が万全でない状態で、この寒空の下に座り続けたら、確実に体調を崩す。


「豚汁、あったまるよ」


「はあ、いいっす」


「いいから、おいでよ」


 無理やり宗助の手を掴む。

 その手は予想していた以上に冷たく悴んでいて、たてはは驚いた。



   △



「ほらほらカレシさん、お酒はビールでいいですか? 日本酒もありますよ。この辺の地酒ですよー」


「‥いらないっす」


「豚汁はー?」


「‥食べました」


「まだ汁しか飲んでないじゃないですかー。具沢山ですよー?」


「‥‥」


 虚空を眺める宗助。


「カレシさん‥‥えーっと、昼間よりも一段とクールになりましたねー。うん、かっこいー」


「んなわけあるかい」


 たてはが堪らずツッコミを入れる。


 朝まで椅子に座り続けそうな宗助を管理棟前に引っ張ってきたものの、普段に輪をかけて他人を寄せ付けない雰囲気を醸し出している。なんとか盛り上げようと一生懸命に話しかけている弥生が不憫でならない。


 気を紛らわす為に連れてきたのは失敗だったかもしれないな、とたてはは思う。


 宗助とるりの間でどのようなやり取りがあったのかはわからないが、宗助の様子からそれが納得のいくものであったとは考え難い。

 しかし、おそらく折り目のズレた紙飛行機のように、私達とるりの重なりは歪なものだったということは容易に予想ができた。その歪んだ飛行機は飛び続けることは叶わず、遅かれ早かれ地面に落ちていくものだったのだろう。


 頭ではわかっているけど、感情が理解を拒んでいる。そんな宗助の内面をたてはは推し量る事ができるし、過去の経験から共感することも出来る。


 宗助の今感じているののは、シチュエーションの特殊性はあれど、誰しもに起り得るありふれた離別の悲しみだ。


 そしてそれは、時に人を壊してしまうほどの破壊力を持ち、時には人を強く生まれ変わらせてくれる事もある。


 炭酸の抜けたビールを飲みながら、たてははそんな事を考えていた。


「あー、最近行ったキャンプの話聞かせてくださいよ。カレシさんはかなりのガチ勢っぽいですよねー」


 困った様子で、しかし笑顔は崩さず、弥生は宗助との会話の糸口を見つけ出そうとしている。

 他人に対して積極的に言葉によるコミュニケーションを試みる様子は、宗助と真逆だな、とたてはは思った。


「ほら『旅の話をすると山が喜ぶ』って言うじゃないですかー? あれ、言わない? あー、これってこの辺だけに伝わる言い伝え的なやつかもしれないですねー」


 聞いた事のない諺だ。


「えっとですねー、あたしはカレシさんがテント立てているところから見渡せる、あの三角形の山の辺りに実家があるんです。あの辺には旅の話が好きな『ミヤマシロヒメ』って山神様の言い伝えがあって」


 ミヤマシロヒメーーその名前に、宗助は弥生を見る。会話の糸口を離すまいと、弥生は話を続ける。


「山神様は旅人を呼び止めては、旅の話をせがむそうなんですよー。その時旅の話をしてあげれば、山神様は喜んで無事に山越え出来る。でも、もし旅の話を拒んじゃったりするとーー」


 弥生は悪戯っぽく笑い、伏し目がちな宗助の目を覗き込む。


「旅の神様は悲しくて雨を降らせて、そっからの山越えは散々らしいですよー」


 おそらく小さい頃に聞かされていたであろう、地元にまつわる神話を思い出しながら話す弥生。彼女にとっては単なる昔話なのだろうが、たてはや宗助にとっては全く異なる意味を持つ。

 人々が徒歩で山を越える時代、そんなはるか昔から、るりはあの山で外の世界に憧れ、他人のする旅の話を拠り所にしながら、悠久の時を生きてきたのだろうか。

 もしそうだとしたら、宗助と、そしておそらく灰塚はいづか達樹たつきと過ごした小さな三角形の下での日々は、きっと夢のような日々だったのだろう。


『私を山に帰して』


 るりの言ったらしいその言葉の真意を探ると、たてはは胸が痛むのを感じた。そしてそれは、宗助も同じだろう。


 これ以上ミヤマシロヒメの話題に触れるのは、宗助の傷を抉ることになりかねない。たてはは適当に話題を変える。


「そういえば、今日は旦那さんはいないんだね」


 前回のキャンプでは男性キャンパーと酒盛りをしていた弥生の旦那さんだったが、今日はその姿が見当たらない。気が付けば豚汁を頂いた数人のキャンパーさんも、各々のテントへと戻っているようだ。


「あー、今日はうちの親に呼ばれて、晩酌に付き合ってるよ」


「わあ、仲良いんだね」


 結婚の経験があるわけではないのでよくわからないが、旦那さんが奥さん抜きで、奥さんの両親に晩酌に呼ばれるって言うのは、なかなかの親密度なのではないだろうか。


「いやー、こんな感じになったのも最近だよー。うちのお父ちゃんって単細胞だから、旦那の事何度もぶん殴ってたしー」


「ええ‥‥」


「ほら、私と旦那の出会いって、結構普通じゃない感じがあったじゃん。それで親に無茶苦茶心配かけちゃったから、第一印象最悪って言うかー」


 弥生がキャンパーの旦那さんの所に入り浸って、行方不明事件に発展していた例の件のことだろう。それは確かに、ご両親の旦那さんに対する印象は最悪だろう。ある意味、誘拐犯と思われていても仕方がない。


「旦那には親に内緒で入り浸っているの伝えてなかったから、悪いのは全部あたしなのにねー。結婚したいって挨拶に行った時も、どの面下げて言っとんじゃい! ってめちゃくちゃ怒鳴られて、殴られてーー」


 弥生は溜息を吐く。

 凍てついた関係が氷解したとは言え、あまり良い思い出ではないようだ。


「ごめん、なんか嫌な過去を思い出させちゃった?」


「ううん、全然! 話したいのはここから。ここからうちの旦那のノロケ入りまーす」


「うんうん」


「お父ちゃんは旦那の事が気に入らないから、顔を出す度に殴って追い返すわけよー。その度に青あざが増えていって、あたしももう見てらんないから『もう親のことなんて放っとこう、二人だけで暮らしていこう』って何度も言ったの。でも、うちの旦那『ご両親に認めてもらえないと、本当の意味で弥生ちゃんと家族にはなれない。ご両親があってこその弥生ちゃんなんだから。俺はお義父さんに殴られるたびに、弥生ちゃんがどれだけご両親に愛されてるか実感できて幸せだよ』ってーー」


 そこでビールを一気に飲み干す。


「くぅー! カッコいい! やっぱりうちの旦那は最高だよー」


 確かに、そこまで相手の親御さんに拒否されたら、普通は逃げるか抵抗してしまうだろう。自分の非を認め、しかし信念を曲げないその姿勢が、弥生の心を釘付けにし、彼女の両親の心を動かしたのかもしれない。


「あなたはーー」


 気がつくと、ただ黙って煌々と燃える焚き火を眺めていたはずの宗助が、焦点の定まった目で弥生を見ていた。



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