南極の氷が溶けるように、パチパチと小さな音を響かせながら、記憶の気泡が澄んだ意識の水面へと浮かび上がってくる。
水面を震わせ、白く濁らせながら、微細な記憶の泡が体を、そして心を、満たしていく。
自分が何者なのか、何のために存在しているのかーーその問いから目を逸らし偽りの幸せを貪る日々には、もう別れを告げるべきなのだ。
私は知ってしまった。
私の頭の中にある空っぽの瓶は、目を背けられない事実と、犯してしまった罪と、儚き願いの破片で満たされてしまった。
空虚な見つめる先には、白錐山。
その緑の檻に、無意識に引き寄せられる自分がいる。
△
「全部、思い出したよ」
るりは言った。
「‥‥私、生前はめちゃくちゃカッコいい彼氏がいる、世界一かわいい美少女だったと思ってたのに、全然違ったね」
そのセリフは、どこか芝居めいていた。
雨を蓄えた薄黒い雲が、空の半分の覆っている。黒雲と青空のコントラストと、切間から降り注ぐ日の光が、眠りにつこうとする晩秋の山に彩りを添えている。
一羽の野鳥の声が響き、それに呼応するようにもう一羽が鳴き始める。風が木々を揺らすと、鳥の声は止み、木の葉の乾いた音と幹の軋む音が聞こえてくる。
湿った落ち葉の匂い、乾いた砂埃の匂い、テントにこびりついた焚き火の匂い。複雑に入り混じったそれらは、身体をほんの少し動かすだけで流動し、また違った表情を見せる。
色々なものが移り変わっていく。
変わらないなものなど、この世界には何一つとして存在しない。
「宗助、教えて」るりの声が震えている「達樹は、今どうしているのか、知ってる?」
宗助は答えない。
タバコの煙だけが、漫画の吹き出しのように唇の隙間から漏れる。この場面がもし漫画のワンシーンなら、結末まではあと何ページ残されているのだろう、そんなことを宗助はぼんやりと考える。
「聞かないんだね、達樹って誰? って」
タバコの先から灰が落ちる。宗助はつま先でそれ揉み消す。
「知っているのに、答えないってことは、やっぱりそういう事なんだね」
黒い影のるりの顔が絶望に歪む。表情を読み取る事は出来ないが、彼女の声や仕草が、影の内側の顔を浮かび上がらせている。
「私が、死なせてしまった」
死という単語が、るりの口から放たれる。
重く鋭い言葉の刃で自らの心を傷つける事が、せめてもの罰であり償いであるかのように、るりは胸を押さえながら痛みに肩を震わせた。
何も知らないトンボが、ランタンポールの先に止まった。その羽に沈みかけの日光が反射し、小さなプリズムのような輝きを生んだ。
宗助はテントから出ると、ローテーブルに置かれたバーナーに火を付けた。ペットボトルの水を小さなケトルに注ぎ、バーナーにかける。
るりは無言でその姿を見つめる。
作業を続ける宗助の背後で、まるで彼を捕食しようとする巨大な獣のように、白錐山が夕暮れの空に鋭い牙を突き立たてていた。
ケトルの蓋が踊り出す。
二つのカップにドリップバッグを乗せて、ケトルのお湯を注ぎ入れる。
立ち昇る湯気と、赤く染まり始めた薄雲が、合わさり、溶け合っていく。
全てが幻想のように、るりは感じた。
もしかしたら今まで見て、聞いて、感じてきた物全ては、苔生した岩の上に寝そべりながら、微睡の中で見た夢だったのかもしれない。
「これ、コーヒー淹れたんすけど」
ローテーブルをテントの入り口前に置き、二つのコーヒーを対面で並べる。
「いらない」
るりは視線を足元に移し、首を振る。
「るりのには、はちみつを入れたんで、甘いっすよ」
「いらない」
「なんか、コーヒーにはちみつも合うらしいっすね。自分は基本ブラックにしか興味なかったんで、調べて初めて知りーー」
「だから、いらない」
るりの声は枯れ葉を騒がす秋の風のように、冷たい響きを纏いながら、宗助の耳元を掠めていった。
「はあ、そっすか」
「ねえ、宗助」
「はい?」
「私、もうあなたと一緒にいられない。やっぱり一緒にいるべきじゃないんだよ」
「なんでっすか?」
「私は、ここにいちゃいけない存在なの」
るりは小さな三角形の内側を見回す。
もはや見慣れてしまったコットンの生地。染みの場所も、小さな解れの場所も覚えている。朝日に照らされた色も、夕日に染まる色も、ランタンの灯りを受けた色も知っている。風にはためく音も、雨に打たれる音だって。
「私が本来存在すべき場所は、あの山。小旅行はこれでおしまい。いい感じにストレスを発散した私は、きっとこれから百年だって、千年だって、ずっとあの山を守っていけるはず」
「それで、いいんすか?」
宗助が尋ねる。
「だって私は『ミヤマシロヒメ』だから」
るりが答える。
「それ、質問の答えになってないっすよ」宗助は溜息を吐く「自分の正体を思い出して、それで好奇心が消えたんすか? テントの下から見える景色にはもう見飽きました? そういう事なら、別に俺はいいんすけど」
「そんな意地悪、言わないでよ」
「俺は、るりにまだ見せてない景色が、いっぱいあるんすけどね。ちょっと遠いっすけど、クリスマスのイルミネーションが見れるキャンプ場があるんすよ。賑やかで落ち着かないっすけど、まぁ、なかなか綺麗なんすよ」
「宗助は何もわかってない。そんな、好き嫌いで判断できるような物じゃない」
「自分の生き方を、好き嫌い以外、何で判断すればいいんすかね」
「そんなの『人間』の理屈だよ」
「人間ってなんですかね。少なくとも俺にとって、るりは誰よりも『人間』なんすけど」
「また屁理屈言ってる。やっぱり宗助はかなりの偏屈者だよ」
「はあ」
「平行線なんだよ、私たちは」
「そっすかね」
「ねえ、私が今、何を考えているかわかる?」
「さあ?」
「自分の存在を維持するための贄として、目の前にいる、この生き物の命を吸い尽くしたい」
宗助はるりを見る。
黒い影の口元が不気味に笑ったような気がした。
しかし、それは縫い針で雑に縫い合わされた、つぎはぎの目立つ仮面だ。現実を受け入れようとしない、わからず屋を拒絶するための言葉だ。
「なら、吸い尽くせばいいっすよ」
宗助はそう吐き捨てる。
るりは何も言わず、押し黙る。
小さい頃の記憶が宗助の脳裏を掠めた。
古く朽ちかけたお堂と、苔むして柔らかな丸石に腰掛け、見上げた木漏れ日。
あの日、もし自分の隣にるりが居たのなら、子供だった自分は嬉々としてこの場所の素晴らしさを語りながら、二人で枝葉の隙間から聞こえてくる小鳥の囀りに耳を傾けていたのだろう。
風の音が大きくなった気がした。
その音は目の前に佇む黒い影から聞こえてくる事に気付き、彼女が声を押し殺しながらも溢れ出る嗚咽を止められない音なのだとわかった。
「今日は、もう眠った方がいいっすよ」
宗助はそう言ってテントのメインポールに手を伸ばす。
「宗助」
「なんすか」
「私を、あの山に帰してよ」
「るりが、本心でそう望むなら」
「私だって、もっといろんなところに行きたいよ。でも、そんな私のわがままのせいで、達樹は死んでしまったんだ。そして、たぶん今度は、宗助の命を奪ってしまう」
「どうなんすかね」
「記憶が戻った時に、私のお腹の中心でいつも感じていた不快感の正体がわかったの。きっとこれは『飢え』なんだと思う」
るりは自分の腹部に手を当てる。最初は触れるだけだった指先が、次第に強張り、その中にある概念的な胃袋を掻き毟る。
「小さな生き物が、少し大きな生き物を食べて、少し大きな生き物は、もっと大きな生き物に食べられる。私は山の中で、そんな命の連鎖を何度も見てきたよ」
指先の力が抜け、両腕が垂れ下がる。
「生き物の命を奪うって事は、すごく大事で、尊い事なんだ。だからきっと、それをするための『理由』が何より大事なんだと思う」
黒い影のような指先が、ゆっくりと持ち上がり、宗助に向けられる。
「私は、自分の勝手な欲望を理由に、無関係な命を吸い尽くそうとしている。それが、正しい理由だなんて、私にはどうしても思えない」
宗助に向けられていた指を、自分自身の胸に向ける。手を広げ、自らの心臓を掴み取るように、握っては開く。
「ねえ、宗助、お願いーー」
声が震えている気がした。
脳内に直接語りかけて来るその声に、空気を振動させる力はないはずなので、宗助はその声の持つ波に揺さぶられるような感覚を覚えた。
「もうこれ以上、私に大事な人の命を、奪わせないで」
納得などできるわけがない。
るりが勝手な欲望と自分の感情を揶揄するのなら、宗助の中にある『るりと一緒にいろんな景色を見てみたい』という思いもまた、唾棄すべき感情という事になる。
それの何が悪いのだろうか。
たとえ自分の命をすり減らすとしても、誰かと一緒に居たいと思う事、それのどこが悪いのだろうか。
しかし、そんなふうに駄々を捏ねるのは憚られた。
なぜなら今の「るり」の雰囲気が、自分の知っている彼女とは少し違っていたから。
白錐山の神「ミヤマシロヒメ」としての彼女が、目の前に立っているような気がしたから。
「少し、眠ってください」
宗助は疲れていた。
しばらく、考える時間が欲しかった。
「うん」
宗助はテントのメインポールを倒す。
るりの姿は消えた。
△
気が付けば夜になった。
遠くに見える白錐山は、黒の塗料で塗り潰され、同じように黒い夜空へと溶け込んでいる。
あの山が夜に溶けて目の前から消えてしまえば、こんがらがってしまった問題が一気にいい流れへと変わってくれるような気がした。でも、そんな期待など儚いもので、どうせ明日の朝日が上れば、あの山は依然としてそこに聳えているのだろう。
コットに寝転んで、宗助は空を見上げた。
今まで感じたことは無かったのに、三角形の屋根がない事を酷く心細く感じた。
料理も酒も口に入れる気分にならなかったので、ひたすらタバコを咥えては、数口で揉み消すのを繰り返す。
夜がこんなにも静かだった事を、宗助は思い出していた。
冷めてしまったはちみつ入りのコーヒーを一口飲む。それは甘すぎて、自分の口には合わなかった。