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第29話:深淵から浮かび上がる①

 小学生の頃だったか。


 学校からの帰り道の途中、草木が生い茂った小道に入り込むと、その先に古ぼけたお堂があった。

 忘れられたように佇むそのお堂は、板の表面が黒く変色し、湿っている。所々に苔が群生していて、その緻密な造形に宗助そうすけは目を奪われた。


 時間の流れが堰き止められ、溜まりとなり、溢れ出して、染み入っている。

 自分達の住んでいる忙しなくて散らかった世界から隔離されたここは、きっと神様が住む世界なのだと、宗助は思った。


 厳かな気持ちで、宗助は苔生した丸石の表面に触れる。手のひらに小動物を撫でるような柔らかさを感じた。


 それから数週間、宗助は集団下校を抜け出しては、その場所で一人の時間を楽しんでいた。


 やがてその事に気付いた体格のいいクラスメイトと、その友人数名が、宗助の後をつけてお堂の場所へと辿り着く。


「すごいでしょここ。きれいな場所だよね」


 つけられていた事に対し不快感はあったものの、この場所の美しさを共に感じてもらおうと、宗助は不器用に言葉を紡ぐ。


「くらい」「ジメジメする」「きもちわるい」「くさい」


 クラスメイトからの反応は散々だった。

 作り笑いを浮かべながら、宗助は心の中で自問自答していた。


 僕の綺麗は、みんなにとっては汚くて、臭くて、気持ち悪いものらしい。だとしたら僕の『綺麗』は、間違っているのだろうか。

 この場所を綺麗と感じる僕の感情は、どこか壊れていて、ズレていて、バグっていて、誰からも理解されないものなのだろうか。


 なんとなく憂鬱な土日を終えて、宗助はまたお堂へと向かう。


 そこには、お菓子の袋と、空き缶と、カードゲームのパッケージが散乱していた。


 長い年月の果てに黒く変色した木部には、尖ったいしでクラスの担任教師の悪口が書き込まれている。小動物のように柔らかだった苔は、運動履で蹴り飛ばされ剥がれ落ちていた。


 この前の下校時に後をつけてきたクラスメイトがやったのは明白だった。神様が住んでいると感じた神聖で厳かなこの場所は、ほんの数日で生意気な小学生のたむろする散らかった秘密基地に変わっていた。


 怒りはわかなかった。


 ただ、すごく寂しい気持ちになったのを覚えている。


 自分が感じたもののほんの一欠片すら、彼らの中に共感してくれる人はいなかった。


 だとしたら自分は、きっと孤独な人間なんだ。


 これはちょっとした昔話。この出来事が自分の価値観を変えたとか、自分の心に深い影を落としたとか、そんな大それたものじゃない。

 ただ、こういったエピソードの一つ一つが、宗助の心の中に、梅雨時の霧雨のように、真冬の粉雪のように少しずつ、少しずつ、降り積もっていった。



   △



「まさかこんなに早くリピートしてくれるとは思わなかったよー。うちのキャンプ場、そんなによかったかな? えへへ」


 たてはの両肩を叩きながら、弥生やよいは嬉しそうに頷く。


「この前のキャンプのおみやげ話ししたら、自分も行きたいってこいつが言うもんだからーー」


 たてはに視線を向けられ、宗助は「ども」と軽く頭を下げる。


「おおー、なんか頭がボサボサでカッコいいね! この人が、お姉さんのカレシ?」


「違う!」とたてはは大袈裟に首を振る「大学時代のサークルの後輩!」


「えー、ほんとー?」


「嘘をつく理由がないじゃん。もういいから、早く受付してよ」


 ため息をつくたては。年下に女性に揶揄われる先輩の様子が珍しくて、宗助はそんな二人のやり取りを無言で眺めていた。


「ところで、予約の時に電話で言ってた件だけど、本当にあんなところでいいのー?」


 弥生が訝しげな目で宗助を見る。


「うん。むしろ勝手なお願いしちゃってこっちが申し訳ないよ」


「いやいや、あそこもうちの土地ではあるから、全然構わないんだけど、水道もトイレもないところだよー?」


 弥生が管理棟の窓から、遊歩道の入り口に視線を移す。そこは先日たてはが白錐山を眺望した、あの林道へと繋がっている。


「あんな所でキャンプしたいなんて、お姉さんのカレシさんはなかなかのキャンプガチ勢だね。ほんと尊敬しちゃうなー」


「だからカレシじゃないって!」


「ふーん」


 含みのある笑いを見せながら、弥生は宗助を見る。


「何かあったら、遠慮なく管理棟に来てくださいな。あたし、今晩はずっと管理棟にいますのでー」


 弥生は自分の足元を人差し指で指し示した後、宗助の顔を正面で見据えながら満面の笑みを浮かべた。心の日陰にランタンを灯すような、天真爛漫な笑顔だった。


 お礼を言って去ろうとする二人を、思い出したように弥生が呼び止める。


「そうそう、今日は豚汁作るんで、よかったらぜひー♪」


 ピースサインを見せる。


「はあ」


 宗助は曖昧に頷いた。



   △



 管理棟からキャリアーを借りて、宗助とたてはは山道を登る。

 坂を登り切り、少し開けた場所で足を止める。眼前には巨大な三角形が聳え立っている。


「これが、白錐山、っすか」


 体力の衰えで息も絶え絶えになりながら、宗助は目の前に広がる山を眺めた。

 紅葉も見頃を過ぎつつあるためか、赤い紅葉がまるで湿疹ように、荒れた山肌を覆っている。その様はどこか病に伏せる巨大生物のようで、生命力が希薄な印象を受けた。


 たてはと二人でテントを組み立てる。


 テントの入り口を開けると白錐山が一望できる位置に、向きを上手く調整してペグダウンする。


 組み上がったテントの入り口から中を覗くと、そこにはいつも通り、黒い影のるりがいた。


「うーん、今回は、結構長く寝てた気がする」


「仕事が立て込んでたんで」


「そっか、お疲れ様だね。あ、たてはさんもいるー! わーい!」


「るりちゃん、久しぶり、元気だった?」


「うん! あ、今日の洋服もかわいい。お揃いにしてもいいですか?」


「うん、もちろん」


「‥‥よしっ! どうだろ? スマホで見てみて?」


 宗助がスマホカメラで黒い影のるりを写す。スマホ画面にはモデルのようにポーズを決めた、少女の姿のるりがいた。

 たてはと同じような服装に身を包んではいるが、色合いがは異なっているようだ。たてはがブラウンを基調とする落ち着いた色でまとめているのに対し、るりは赤っぽい色を取り入れている。


「色違いのお揃いみたいですよね?」


「うん、かわいいよ」


「宗助は、どう?」


「さあ、いいんじゃないっすか」


「感情がこもってない‥‥」


 画面の中で頬を膨らませるるり。

 たてはは、黒い影の頭部に手を伸ばす。その手に感触はなかったが、画面の中では自分の右手がるりの頭を優しく撫でていた。


「じゃあ、私は自分のサイトに戻るね。るりちゃん、また来るよ」


「またねー」


 るりが小さく手を振り、それにたてはも返す。去り際に宗助と目が合うと、たてはは小さく頷いた。


 たてはが去り、るりと二人きりになる。


 宗助はのろのろとテントの入り口に向かい、シートを大きく開け放った。外の光と、湿った腐葉土の匂いが、テントの中に流れ込んだ。



   △



 るりと白錐山を対面させることで、彼女の失われた記憶に何らかの変化が生じるのではないかーーたてはの考えた案に表向きは賛同し、宗助はこのキャンプ場にやってきた。


 しかし本心では、謎が謎のまま終わってくれることを望んでいる。そんな煮え切らず中途半端な感情を、宗助は自分らしくないなと鼻で笑う。


 「山の神」とか、「ミヤマシロヒメ」とか、そんな荒唐無稽で滑稽な背景など、宗助にはどうでもいい事だった。今、目の前に立っている「るり」だけが、宗助にとってのるりなのだから。


 黒い影の少女という超自然的な存在を、ありのまま黒い影の少女として、宗助は完全に受け入れてしまっている。

 数ヶ月前の自分であれば馬鹿らしいと吐き捨てるだろうが、今の宗助にとってはそれが完成された唯一の関係性だった。そこに彼女の正体という無粋な調味料なんて必要ないと思っていた。


 だから宗助は、テントを開けて目の前に広がる白錐山をるりに見せながらも、彼女がいつもの調子で「うわー、綺麗な山だね!」と歓喜の声を上げて、満足そうにこちらを振り返る様子を切望していた。


 開け放たれたテントの入り口から、るりは白錐山を見る。


 しばらく無言の時間が生まれる。


 その時間は、宗助にとって10倍にも100倍にも長く引き伸ばされて感じた。  


「すごい、めちゃくちゃ三角形の山だ! テントみたい!」


 るりがはしゃいだ声で言う。


 宗助は息を飲んで、呼吸を整えたあと「そっすね」と答える。


 これでいいんだ。


 彼女の正体が何だっていい。一生謎のままだって構わない。

 これで自分は、また彼女とのキャンプを続けることができる。彼女と同じものを見て、同じ感動を共有し、時に違った意見をぶつけ合いながら、きっと幸せな時間を積み上げていける。


「あ、そーだ、今日の晩御飯は何かな?」


「寒くなってきたんで、適当に鍋を作ろうかと」


「いいねー、楽しみだなー」


「はあ。あくまでもテキトーっすけどね」


 いつもの意味のない会話。


 この場で生まれて消えていくだけの、飴細工のような関係性。


 それが心地よい。


「ううん、全然いいよー。いつもありがとう『たつき』!」


 しかし、亀裂が走る。


 彼女の口から知らない名前が溢れた。


 いや、知らないとは嘘だ、自分はその名前を、たてはの話の中で何度も聞いている。


 このテントの前の持ち主。


 このテントにるりをーー白錐山の神『ミヤマシロヒメ』を招き入れた男。


 灰塚はいづか達樹たつき


 宗助はるりの顔を見る。

 黒い影の表情が震えているように感じた。


「たつきって、誰っすか‥‥?」


 宗助は問う。


「わかんない‥‥」


 るりは返す。


「なら、きっとただのーー」


「わかんないけど!」


 宗助の言葉を遮るように、るりはかぶりを振って叫ぶ。


「わかんないけど、絶対に忘れちゃいけない名前だった気がする」


 るりは自分自身を叱責し、罰するように、強い口調でそう言い切った。


 宗助はポケットからスマホを取り出し、カメラを立ち上げる。自分の指が、自分のものではないようにぎこちなく、カメラのアプリを起動させる。


 スマホ画面に映されたるりの顔からは、笑顔が消え去り、睨みつけるように白錐山を見つめてた。


 そして宗助は、この脆弱な関係性の終わりを悟った。



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