「うわー、懐かしいねー」
店内を見回しながらたてはが言う。
「いえ、全然」
宗助はそう返す。
「ほら、大学ん時にさ、なんかあるとここによく集まってたじゃん」
「俺、そういうのあんまり参加しなかったんで。思い入れは全くないっす」
「あー、そっか。それなら、店のチョイスを失敗したかもね」
「いえ、いっすよ。お酒はどこでも飲めますし、まあ、思い入れはないけど1、2回来た記憶はありますんで、微妙な懐かしさもなくはないっす」
「ふうん」
どこか不満そうなたてはを尻目に、料理が運ばれてくる間、宗助は店内を見回した。赤いマジックでオススメのメニューを書いたA4サイズの紙が、壁の至る所に貼ってある。紙と、店内の壁は、料理の脂とタバコのヤニで薄黄色く汚れていた。この紙を剥がせば、変色を免れた白い壁が見えるのだろう。
宗助とたては、二人が通っていた大学の最寄駅にあるこの居酒屋は、一部の学生達の憩いの場として機能していた。店自体がそんな学生をメインターゲットに展開しているため、金がない、でも沢山飲みたい学生の為に、安かろう悪かろうな酒と、素朴だがボリュームのある料理を提供している。
見栄えだったり、質を求める学生達は、ここから電車で2駅の中心街に行く。そこには華やかな夜の街があり、少し背伸びをした大人の時間を楽しむ事が出来る。
一方この居酒屋は、切れかけの街灯で照らされた薄闇の街角で、墓地に浮かぶ人魂のようにポツンと貧相な看板を浮かび上がらせている。
そんな居酒屋の小さなテーブル席に、向かい合って座る2人。奥の座敷からは、おそらく学生であろう大人数の黄色い声が響いてくる。
宗助は伏し目がちに、正面に座るたてはの様子を伺った。いつもの体裁を保ってはいるが、どこか緊張しているようにも見える。
「あ、タバコいっすか?」
「うん」
「先輩も吸います?」
「いらないよ」
困った顔で笑う。
宗助はテーブルの隅に置かれた灰皿を手元に寄せて、店の電話番号が書かれたマッチを取り出す。着火し、タバコに火を灯すと、最初の一瞬だけ燃えた燐の風味がする。その味が好きだから、宗助はマッチがある場所では遠慮なく使う事にしている。
「この店で、私が悪酔いした日のこと、覚えてる?」
「さあ? 俺、居ました?」
「居たよ。私覚えてるもん」
「でしたっけ」
タバコの煙を吐くために、正面のたてはから顔を逸らす。
実は、その当時の事を宗助はしっかりと覚えていた。ただ、それはたてはにとって『忘れてもらいたい記憶』だろうと判断したから、あえて知らないふりをしていた。
「ほら、四年の頃かな? 私、彼氏に振られて、ここでヤケ酒しちゃったじゃん」
「はあ」
あの日のたてはは、鼻水を垂らしながら泣きじゃくるし、トイレに篭って吐きまくるしで、酷い有様だった。そんな彼女を介抱する先輩方を横目で見て、何か手助けできることは無いかと考えながらも、全く動く事ができない当時の宗助だった。
「だって、大学四年じゃん。就職も決まってたし、仕事に就いたら出会いなんて無いんだから、私は密かに結婚を考えてたんだよ」
「就職してからも、適当に出会えばいいじゃないすか」
「そんなに簡単な話じゃないから、今の私があるって事をわかってる?」
「はあ、すいません」
「まあ、いいんだけどさ」
「そっすか」
「なんだろ、別れの悲しみってのは、誰だって、それこそこんな私だって、取り乱してしまうくらい辛いって事」
「仏教の八苦にも、愛別離苦ってのがありますね」
「うん、まあ、そうね」
「ゲロ吐きまくって、大変でしたね」
「うっさい。そう、別れというのは辛いものなんだ。でも時には、それを受け入れなくちゃいけない場面もある」
宗助をまっすぐ見るたてはの目。店員が料理と酒を運んで来ても、その目が逸されることはなかった。
「私、この数ヶ月、何をしてたかわかる?」
「さあ、知らないっす」
「調べてたんだよ、るりちゃんの事」
宗助の見据えていたたてはの目が、その一瞬だけ逸らされる。彼女が自分の行動に後ろめたさを感じている事を、宗助は理解した。
「ごめんね、勝手なことして」
「別にいいっすけど。なんかわかったんすか?」
「これ、見て」
たてははスマホの画面を宗助に見せる。そこには古びた安っぽい冊子の一文と、イラストが、写真として収められている。
「はあ。ミヤマ、シロ、ヒメ? なんすかこれ?」
「多分、この子が、るりちゃんの正体だよ」
そしてたてはは、るりの正体を求めて自身が辿った道のりを、ぼつぽつと語り始めた。
△
あのテントの前の持ち主は、
彼が写真に記した『ミヤ』という名前。
枯れつつある山ーー白錐山。
その山を治める、ミヤマシロヒメという山の神。
黒い影のような、彼女の姿。
「荒唐無稽っすね。すみませんが、俄には信じられないっす」
灰皿でタバコを揉み消しながら宗助は言う。
「でも、ミヤマシロヒメとるりちゃんには付合する点も多いよ」たてはは前のめりになって宗助を説く「これが偶然だとは、私には思えない」
「そっすか」
矢継ぎ早に次のタバコに火をつける。何か嫌な予感がした。『るり』が『ミヤマシロヒメ』であると認めることは、自分とるりの関係を嫌が応にも別のステージへと引き上げるような気がした。
留まっていたい、宗助はそう思っていた。
「すけ君、最近調子悪いでしょ?」
「仕事疲れっす」
「それだけじゃない」
「何でそう思うんですか?」
「山の神が、山から離れたら、どうなるかわかる? 私にはわからない。わからないけど、それはきっと、正しいことじゃない。その皺寄せの兆候が、白錐山には見られ始めてる。すけ君の体の不調だって、無関係とは言い切れない」
あの夜、宗助の唇に食らいつくるりの姿。あの行為が宗助の不調に関係していると、たてはは確信している。しかしその様子は余りにも生々しく、この場で口に出すのは憚られた。
「じゃあ、どうしろって言うんすか」
宗助の声が低く響く。
「あのテントを使うのはもうやめようよ。白錐山の麓の町に持っていって、神社とかに引き渡すのはどうかな」
「嫌です」
「なんでよ」
「俺のテントなんです。そんな、よくわかんない理由で手放したくない」
「でもね、命が危ないかもしれないんだよ!」
たてはが声を張り上げる。その声は居酒屋の喧騒に飲み込まれ、霧散する。
「命って」
「前の持ち主、灰塚達樹は、死んだんだよ‥‥」
死んだ、その言葉は口に出した瞬間、異常なまでに重たく響いた。
「ねえ、わかってよ」たてはは語気を強める「別れは辛い、それは私だって知ってる。彼氏と別れた時の私の取り乱し方を、ほんとはすけ君だって覚えてるんでしょ? 私も辛かった。でも今となっては全然だよ。そんなもんだよ」
「先輩は」食い気味に宗助が口を開く「先輩は、るりの事を、悪霊か何かと思ってるんすか。そんなに、あいつが嫌いなんですかーー」
「嫌いなわけないじゃん!」
たてはは声を荒げる。
たてはの話に頷き、目を輝かせるるりの顔が頭を過る。あんなに人懐っこい女の子を、嫌いになるわけがない。
「すけ君、ふざけんなよ! 嫌いなわけないじゃない! 本当は私だって、私だってね、るりちゃんともっと一緒にいたいよ! でも、でもさーー」
たてははそこで大きく息を吸い込んだ。暴走している感情を抑え込むように。
「ーーそれよりも、私は、すけ君の方が大事なんだよ」
ため息を吐くように、たてはは呟いた。
「‥‥すいません」
宗助はそう返す。理解したわけでも、納得したわけでもないが、そう応えるしかなかった。
△
二人は店を出た。
重苦しい空気が漂ってしまった店内で、これ以上互いの意見をぶつけ合っても埒が開かない。腹の奥底に溜まる濁った空気を入れ替えるために、宗助とたては暗い町をぶらぶらと歩いた。
二人の足取りは、自然と過去に何度も通ってた道を辿る。短い年月の間に、少しだけ変わった町並みの細部に目を凝らすと、心のわだかまりがぼやけるような気がした。
無言のまま歩く。
スニーカーがアスファルトを擦る音だけが、不自然に誇張されて響いている。
静寂は宗助に夜のキャンプ場を思い起こさせた。こんな静かな世界の中で、感情に塗れた激しい言葉を吐き出すのは極めて不粋な事だろう。
吐き出す息は冬の訪れを予感させる。一定のリズムで視界を掠めていく白いもやの中に、やがてかつての学舎が浮かび上がった。
あの頃から色々なものが変わった。
でもたてはが、後輩である自分のことを大切に思ってくれている事は、今も昔も変わらない。
「とりあえず行ってみます。るりと一緒に、白錐山に」
宗助は言う。
「先輩の事を信じてないわけじゃないし、不満があるわけじゃない。でも俺は、自分の目で確かめないと納得できない性分なんで」
「うん、わかってる」
「行って、何かわかったら、その時どうするか考えますよ。少なくとも、今、現状の情報だけで、るりをどうするかは決めかねるんで」
受け入れ難い仮説を、自分なりの方法論で検証しようとする宗助。
「そうだね。私も付き合うよ」
「色々、心配かけてすいません」
「いいんだよ。大事な後輩のためだもん」
「はあ」
宗助は足元を見つめる。
落ち葉が風に乗って、乾いた音を鳴らす。
そして視線を空に映すと、秋の夜空には寂しそうな星が一つ、儚げに瞬いていた。