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第27話:緑の檻を抜けて③

 灰塚はいづか達樹たつきは、自室のデスクに腰掛けて溜まっていた仕事を片付けた後、自身のブログを更新した。

    紅葉を撮った写真のうちどれをブログに添付しようかしばらく考え、赤い紅葉をアップで撮影した写真に落ち着く。

    カップの底に残っているココアを舌の先に流し込むと、牛乳の微かな甘味が疲れた脳に染み渡った。


 最近では常に粘性の高い疲労感が体の節々を覆い隠していて、首元まで浸かったプールの中を歩き回るような、手足の重たさを感じていた。

 頭痛は慢性的に存在していて、鎮痛剤を飲んでも治る事はない。鋭い痛みではないものの、おでこに開けた小さな穴から脳漿を少しずつ吸い出されているかのような、じわじわとした不快感が常に前頭部を覆っている。


 そろそろかもしれない、と達樹は予感する。


 常人よりも虚弱な自分の身体がどの程度の命の摩耗に耐えられるのかはわからないが、電池が切れかけたオモチャのように緩慢な動きしか出来なくなっていく現状を考えると、その時はそう遠くはないような気がした。


 パソコンの写真フォルダの奥、日付ごとに整理されたいくつものフォルダの下に『ミヤ』と書かれたフォルダがある。

 そこを開くと、この数ヶ月の間に撮影したミヤの写真が保管されている。

 その写真を一枚一枚表示しながら、達樹は写りの良い写真をフォルダ分けしていく。

     しかし結局のところ、全ての写真が神々しく、美しく、懐かしく、愛おしい。そしてそんな写真たちの存在が、自分のした選択に間違いはなかったと確信させてくれる。


 選りすぐった写真をプリンターで出力し、印刷された写真をアルバムに差し込んでいく。


 データは完全に消滅してしまうが、現実世界の形ある写真は、徐々に色褪せていくものの完全に消え去る事はない。


 その中から一枚、達樹とミヤの二人がテントの中に並んで座っている写真を取り出すと、いつもキャンプ時に着ているアウターの胸ポケットに入れた。

 普段は自分自身を撮ることなどない達樹が、ミヤにせがまれて唯一撮った写真だった。


 コーヒーを淹れるために台所へと向かう。


 最近老眼が進んだとぼやいていた父は、この時間はもうイビキをかいているだろう。階段を下りると居間の電気が付いていることに気付く。ドアを開けると、ソファーに座った母がドラマを観ていた。


「あら、まだ起きてたの?」


 ちらりとこちらを見て、再びテレビの方に視線を戻す。


「ほら、このドラマ、結構面白いのよ。この主人公の男の子の演技が上手くて」


「へえ」


 特に興味はなかったが、達樹はそのまましばらくテレビ画面を見続けた。テレビドラマを観たのはいつ以来だったか。


「仕事、大変なの?」


「いや、写真の方で、色々整理してて」


「そうなの。あまり無理しない方がいいわよ。楽しいからと言ってはしゃぎ回ると、すぐ息切れしちゃうものだから」


「うん」


 風呂上がりであろう母の髪が、少し薄くなっているような気がした。その目尻にはいくつもの皺が刻まれ、普段は化粧で隠しているシミが頬に浮いている。


 体の弱かった自分は、おそらく他の同年代の子供たちよりも、両親に多大な苦労をかけて来た。

    その結果、一人でアウトドアを楽しめる程度の身体を手に入れる事ができたが、両親の身体はどんどん弱く年老いていったような気がする。

 そんな両親に対する感謝の気持ちが芽生えると同時に、今から自分が辿ろうとする道が親不孝の極みなのではないかと自問自答する。


 しかし、これだけは知ってもらいたい。


 あなた方が、この軟弱で自分勝手な男を全力で育ててくれたのと同じように、自分にも命を賭して幸せに導いてあげたい相手が出来たという事。


 今、自分は幸せである。


 生きがいと呼べる相手を見つけ、その人に対して全身全霊を注ぐ心地よさを知れたから、自分は幸せであると。


「なに、ぼーっとして。座ったら?」


「ううん、大丈夫。すぐ部屋に戻る」


「そう」


「母さん、今までありがとう」


「どうしたの急に? 何かあったの?」


「たまには、感謝の気持ちを声に出さないとね」


「そうね。達樹も、立派に育ってくれてありがとう」


「どういたしまして」


 そんなやりとりの後、親子は互いに照れ笑いを浮かべた。



   ▲



「どうしたの? なんか眠そうだよ?」


 テントの下でミヤが言う。


 秋は足音もなく去っていき、彼らの落としていった赤い残り火が、茶色く変色した芝生の上で燃えている。虫の鳴き声の消えた静寂の夜に、それらは風と共に乾いた音を鳴らして消えていった。


「いや、大丈夫」


 垂直落下しそうだった意識が、ミヤの声で踏みとどまる。達樹はウインドブレーカーのファスナーを顎まで上げて、背中を丸めながら立ち上がる。


 テントの出入り口を開けて外を見た。


 雲一つない夜空に、青白い満月が浮かんでいる。


 それは空に開いた大穴のようにも見える。も

 しかしたら人間や山の神よりも上位に位置する存在が空の向こうに住んでいて、あの穴からちっぽけな存在の末路を見下ろしているのかもしれない。

 荒唐無稽なその想像は、枯れかけた達樹の心に小さな火種を灯した。


「あなたを愛してる、その言葉を、月が綺麗ですね、と訳した昔の作家さんがいるんだ」


 自分の背中を見つめるミヤの視線を感じながら、達樹は言った。


「ただただ、綺麗な表現だな、って思ってたんだ。でも、君とこうして色んな景色を見れた事で、より深いところまでその言葉が落とし込まれ気がするんだ」


 自分は、目の前に広がる景色をたった一人見て、感動し、声を詰まらせてきた。

 それらを写真という画に収め、切り取ることで、大勢の人に見てもらえるようになったと思う。しかし自分が感じた感動の本質が、どこか薄れてしまう様な虚無感に駆られていた。


 そんな中、ミヤと出会った。


 誰かと、一瞬の感動を共にする事が、こんなに心を震わせる事なのだと知った。


 たとえその感情が向かう先に、何もないとしても。


 達樹はゆっくりとテントのシートを持ち上げる。隣に立つミヤにも、この月が見えるように。


「ミヤ、今日も、月が綺麗だね」


「‥‥うん」


 彼女が頷くのを感じて、達樹は満ち足りた気持ちになった。


 もうこれ以上、自分は何も望まない。


 あとは、君が、自分の感情の思うがままに、悠久の時を生きていけばいい。


 僕という足枷、ミヤマシロヒメという足枷を外して、自由に。



   ▲



 そして『ミヤマシロヒメ』は夢を見た。


 仕舞われたテントの中、花開くことを待つ蕾のような時間の中で、彼女は微睡の時間を過ごしていた。


 そんな彼女の前に達樹が現れた。


 彼は寂しそうな、しかし幸せそうな目で、彼女に手を伸ばす。

 その手が、ミヤマシロヒメの髪に触れた。


 彼女は初めて、人の肌が温かい事を知った。


 達樹は頬を緩ませる。

 ミヤマシロヒメもまた、頭の中が溶けていくような心地よい感覚に身を委ねる。


 大事な何かが、滑らかな流動体となって流れ落ちていく。


『次に目覚めた時、全ての足枷を外した君が、僕じゃない誰かと幸せな旅を続けている。そんな未来を、僕は願っているよ』


 達樹が何か言ったような気がした。

 しかし、岩肌を転げ落ちるような眠気の中では、その言葉を心に刻むことは叶わなかった。


 そして『ミヤ』は、長い眠りについた。



   ▲



 一年後の、秋。


 灰塚はいづか誠子せいこは未だに片付けられないでいる息子の部屋に立ち、再び沸き起こった喪失感に苛まれていた。


 数ヶ月前に、息子が所持していたテントの件で、キャンプ用品展の女性と話す事になった。あの日から無理やり蓋をしていた感情が滲み出ているような気がする。

 息子の遺言とはいえ、あのテントを売りに出して本当に良かったのだろうか。息子の所持品が一つなくなるたびに、彼が存在していた証が一つ失われていくような、そんな喪失感を覚えていた。


 息子は幸せだったのだろうか。


 弱い体に生まれ、友達と走り回って遊ことも叶わず、好きな事を楽しむ事すら自身の命を削る結果になってしまった。

 そんな息子の人生は、萎んでしまった風船のように、満ち足りないものだったのではないだろうか。


 そんな体に産んでしまった自分をひどく責め、その答えを知りたくて、息子の部屋に立っていた。


 ふと、息子がいつもキャンプの時に着ていたアウターが目に入る。ハンガーにかけてあるが、最後にキャンプに行った日から洗濯はされていないようで、煤で汚れている。

 このまま置いておくと、カビて劣化してしまうかもしれない。息子の生きてきた証明を、また一つ失ってしまう恐怖が胸を覆う。

 とりあえず、洗濯しよう。

 何かにやる事を見つけたことで、少し前向きになれた気がする。洗濯の前に、ポケットの中を確認する。


 ポケットの中に一枚の写真があった。


 その写真を見て、灰塚誠子は答えの一つを見つけたような気がした。


 押し込められていた感情が溢れ出し、自然と涙が流れる。


 写真の中の息子は、見たこともないほど満ち足りた表情で、はにかみながら笑っていた。


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