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第26話:緑の檻を抜けて②

 無垢な少女を言葉巧みに誑かし、本来あるべき場所から引き離すのは、人間社会において罪と呼ばれて然るべきだろう。


 ならば神と呼ばれる存在をあるべき場所から引き剥がした僕の背中には、一体どれだけの罪が貼りついているのだろうか。


 などと便宜上は自分の罪と向き合うスタンスを取ってはみたが、その実、罪悪感や後悔の感情などは一切湧いていない。


 結局のところ僕は、その瞬間瞬間の輝きにしか、価値を見出せないタイプなのだろう。

 多大な罪を背負った自分が今後どんな裁きを受けるかとか、統治者を失ったあの山にどのような厄災が訪れるのかとか、そんな先のことは心底どうでもいいと感じていた。


 小さい頃は体が弱く、明日が来るか不安で眠れぬ夜をやり過ごしていた。そんな先の見えない日々の中で、僕は自分の未来とか行く末とか、そういうものに対する興味を失ってしまったのだろう。


 今が幸せであればそれでいい。


 仮に未来に繋いでいくものがあるとすれば、それは幸せな今を切り取った一枚の写真だけでいい。


 カメラのフラッシュのような夏の日差しの下、小さな三角形が作る日陰の中で無邪気に笑う少女を写しながら、灰塚はいづか達樹たつきはそんな事を考えていた。



   ▲



 ミヤマシロヒメとの日々に慣れ始めていた。


 椅子に腰掛けた達樹は、左手に持った文庫本を読み上げる。身を持ち崩した若者が、とある町で出会った女性と恋に落ちる古い小説。


 隣に並んだ椅子の上では、黒い影が文章の波に漂うように心地良さそうに体を揺らしている。


 開け放たれたテントの出入り口から、隙間から秋の風が吹き込む。暑かった夏が終わりを迎えて久しいが、冬の訪れはまだ遥か先だ。文章を読み続けて疲れた目を癒すため、秋晴れの空にを移す。青い用紙に文字を記すように、沢山のアキアカネが縦横無尽に舞っていた。


 ひとつの章を読み終え、達樹はテントの外に出る。出入り口に立つ黒い影にカメラを向けると、背面のモニターに少女の姿が映る。


「ミヤ、僕は向こうの見晴台まで行ってくる。あそこから、いい写真が撮れそだ」


「はーい、わかった」


 モニターの中で頷く少女を写真に収めると、達樹はキャンプ場の外れの高台へと向かった。


 遠くから見るとそこまで高くは感じなかったが、近くで見ると丸太を連ねた階段が遥か遠くまで伸びている。体力には全く自信がない達樹だったが、ここまで来たからには写真の一枚は取らないと気が済まない。一念発起し登り始めたものの、3分の1を過ぎたあたりで足が上がらなくなる。


 後から来た老夫婦に追い抜かれながらもなんとか登り切ると、そこから見える景色は疲労感を吹き飛ばすほどに鮮やかなものだった。


 紅葉の時期にこの山並みを見れた事を、達樹は幸せに思う。


 何枚か写真を撮り、木製の床に腰を下ろして疲労の回復を待つと、達樹は膝を震わせながら階段を下った。


 帰りに管理棟に寄って、カップラーメンとチョコレートを買う。

     料理はあまり得意ではないため、キャンプの時に食べる食事はインスタントのものが多い。チョコレートは甘いものが好きなミヤの為に買ったものだ。


 コルクボードに貼られた写真を見ていると、従業員から写真の撮影を進められた。自身が被写体になることに気恥ずかしさを感じたが、鮮やかな自然に触れて心が大らかになっていた事もあり、折角の機会だと快諾する。


 撮られた写真に写っていた人物は、自分で言うのもなんだが痩せこけていて陰気臭い。そんな男が無理やりこしらえた笑顔をカメラに向けているのだから、達樹はその滑稽さに苦笑いしてしまった。


 従業員からペンを渡されたため、少し考えから短い言葉を記す。


『ミヤと、一緒に』


 その言葉に、何か青臭く甘酸っぱいものを感じて一人悶絶する達樹だったが、今更書き直すわけにもいかず渋々従業員に手渡す。

    従業員はそんな達樹の心情に気付くわけもなく「うん、いい写真ですねー」と言いながらコルクボードの空いてるスペースにその写真を貼った。


 テントに戻ると、そんな写真のくだりをミヤに話す。


「その従業員さん、ミヤって誰? って思うだろうね」


 可笑しそうに笑うミヤを見た達樹は、改めてそんな彼女をとても可愛らしく感じた。

 美しい景色の中で、美しい被写体の少女と共に生きる。それはその一瞬だけで一生の幸せを代替わり出来そうな、夢のような瞬間だった。


「ほら、あの高台から撮った写真」


 カメラのモニターをミヤに見せると、ミヤは両手を叩いてその景色に感嘆した。


「うわー、もう山はこんなに色づいてるんだ! 綺麗!」


「管理棟はこんなところ。小さな風呂も付いているんだって」


「いいね、行って来なよ」


「僕は、いいよ」


「何で?」


「そんな気分じゃない」


 出来ることなら、夜の間はずっとミヤと一緒にいたい。彼女と会えるのは、このテントの下だけなのだから。


「もったいないよ。きっと気持ちいいよ。白錐山の温泉に来てた人たちも、すごく気持ちよさそうにしてたし、ここだって‥‥」


 こんな時、ミヤは少しだけ遠慮する。自分を放って置けないからと、達樹が自らの選択肢を狭めることに対して、ミヤいつも反感を示す。


「え、もしかして僕、臭い?」


「ううん、そんな事はないけど」


「じゃあ、やっぱりいいよ。僕はこのテントの下に、君と一緒にいる方が幸せなんだ」


 こんな歯が浮くような台詞を吐いてしまう自分が可笑しかった。


 人生最高の瞬間が、幾度となく繰り返される生活。この幸せが今後も続いてくれるのであれば、この先たとえどんな罰を受けたとしても、達樹は受け入れられると思った。


 夕食に食べたカップラーメンは、代わり映えのしない塩と油の味がした。空腹を満たすためだけにそれを頬張ると、物欲しそうな顔のミヤに小説の続きを読み聞かせる。


 そして、昼間に登った長い階段の疲れのせいか、連日のキャンプのせいか、夜も更ける前に達樹は強い眠気と鈍い頭痛に襲われ、早々に寝袋へと潜り込んだ。


「達樹、今日もありがとう」


 眠りに落ちる寸前の達樹に、ミヤが言う。キャンプの夜は、そんなミヤの囁きを聴きながら眠りにつく。


「今日は大きな鉄塔が見れた、山を覆う紅葉が見れた、気になっていたお話の続きも聞けたし、チョコレートはすごく美味しかった。それから‥‥」


 今日あった事を子守唄のように囁く。


『僕の方こそ、愛しい君と一緒にいさせてくれてありがとう』


 そんな言葉を返したいのに、いつも泥のような眠りに飲み込まれてく。



   ▲



 ミヤに出会ったあのキャンプ場。

 その地区の図書館で読んだミヤマシロヒメに関する資料を、達樹は思い出していた。


 ミヤマシロヒメは白錐山の治安を守り、木々を繁らせ、動物達を育んでいる。

 古の人々は、そんな山の神に感謝と印として山から得た作物の一部を供え、彼女の祝福の存続を祈っていた。


 神が贄を求める伝承はよく聞く。


 ミヤマシロヒメは自らが繁栄させた山の一部を、贄としてほんの少し自らに取り込む事で、自分という存在を維持していたのだろうか。


 それは木々になった小さな木の実の一つかもしれないし、鹿の親が子鹿に与える乳の数滴かもしれない。

 もしかしたらもっと形而上的な、山に住む命、山の恩恵を受ける人々の生命エネルギーのようなものを、彼女は受け取り、自らを保っていたのかもしれない。


 だったら。


 もしそうだったとしたら、白錐山から離されたミヤマシロヒメは、何を贄にその存在を維持しているのだろうか。



   ▲



 息苦しさを感じて目を覚ます。


 小さなランラタンの作る橙色の灯りを背景に、黒い影の塊が達樹の顔に覆いかぶさっていた。

 その動きに意志のようなものは感じられない。

 カラカラに乾いた脱脂綿が、机の上の水滴を吸い込んでいくような、自然の摂理に則った命の移動。


 飢えていたんだな。


 ぼんやりとした意識の中で、達樹はミヤの苦しみを考えた。

 徐々に弱っていく体を補うため、自らの意思とは無関係に、ミヤマシロヒメは自らが統治する三角形の下に住む者から、自身を維持するための命を吸い上げている。

 あの笑顔の裏で、筆舌し難い飢えと彼女は戦っていたのだろうか。そう思うと、達樹は胸が苦しくなった。


 もしこの事をミヤが知ってしまったら、きっと彼女はこの小さな三角形の下から消え去ることを望むのだろう。

 自分の存在が達樹の命の上に成り立っている事を知り、それでもなおこの場所に居座るような性格ではない事を、達樹は知っている。


 それならば、達樹はこの事実を受け入れようと思った。


 自分のような小さな人間の命を犠牲にするだけで、ミヤマシロヒメのーーミヤのあの笑顔を見ることが出来るなら、それで構わないじゃないか。


 達樹は意志を持たないミヤの身体を抱きしめようとした。


 その手は何も触れることはなく、空を切った。



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