仕事帰り。
昨日、宗助
少し間が空いて『体調崩したんで今度でいいですか?』との返事。
『そうだったんだ、ごめん、ゆっくり寝てて』
『了解』
そこそこ長い付き合いではあるが、宗助が体調を崩したという話を、たてはは聞いた事がなかった。
喫煙者だし、健康に気を遣っているというわけではないようだが、彼の規則正しい生活と栄養バランスの整った料理がもたらした恩恵であろう。
そんな宗助が、わざわざ自分に公言するレベルで体調を崩している。少し、サポートしてあげる必要があるのかも知れない。顔を見なくなったと思ったら死んでいた、なんてオチは全くもってお呼びではない。
『今仕事終わったんだけど、何か買ってきて欲しいものあったら買ってくよ?』
そう送ると、しばらくして返事が返ってくる。
『お願いします。卵1パック、ポカリスエット1.5l×2本』
『りょ』
謎のシロクマのキャラクターが敬礼しているスタンプを貼る。
宗助からの返答はなかった。
△
宗助の部屋には何度かお邪魔したことがある。不要なものが少なく、こざっぱりとしていて、生活感がない。
意識してミニマリストを実行しているというよりは、興味の幅が極端に狭い、もしくは日常の生活に関する領域からズレているといった印象を持った。その証拠に、彼の愛車の中には興味の中心であるキャンプ道具が大量に、綺麗に並べられ詰め込まれている。
そんな宗助の部屋へ久々に入ったのだが、テーブルの片隅に置かれた女性向けアウトドアファッション雑誌の煌びやかな表紙が目に留まり、何もない荒野に一輪の花が咲いたような、温かな感情を覚えた。
簡素なベッドに横になっている宗助の顔は酷くやつれていた。
たてはが買ってきたポカリスエットをコップに注いで渡すと、半身を起こした宗助はそれを半分ほど飲み干して息を吐いた。少しだけ顔色が改善されたような気がする。
聞くと、鼻水や喉の痛みなどの風邪の症状があるわけではないらしい。頭痛と、発熱と、疲労感。
「キャンプ中に体調を崩したんだ?」
「そっす。無理やり荷物を片付けて帰ってきたんすけど、家に着くまでの記憶が曖昧っす」
「‥‥事故らなくてよかったよ」
「人間、無理すれば何とかなるんすね」
「いや、そういう時は私に連絡くれてもよかったんだよ? 助けに行くし」
「ソロでキャンプに向かったんだから、帰ってくるまでがソロでしょ。他人の手を借りたくはないっす」
「律儀というか、バカというか」
たてはは呆れて、ベッド側の床に座り込む。
辛い時こそ協力し合うのが、理想の人間関係だと思うのだが? シンクに洗いそびれたキャンプの食器が放り投げられていたから、それくらいは洗っていってやってもバチは当たるまい、そうたてはは思った。
「花火は見れた?」
「いえ、見れなかったっす」
「昨夜から体調悪かったの?」
「いえ、途中寄った温泉施設で居眠りしてしまって、見える場所にテントを立てられませんでした」
「うわぁ、初歩的なミスだね。らしくない」
「最近、なんかおかしいっす。疲れてんだろうけど、そんなに無理してるわけじゃないんすけどね。歳なんすかね」
「年下に『歳』とか言われると、私の立つ瀬がない」
「はあ」
「るりちゃん、残念がってた?」
「さあ、どうなんすかね? 線香花火やったんで、それでチャラかと」
ベッドから半身を起こし、正面を見ながら話していた宗助が、その時だけ顔を反対側に向けた。
その何かを隠すような仕草を見て、たてはは他にも何かあったのかもしれないと勘繰ったが、それを言及するのも野暮だろうと何も言わなかった。
ただ一言「じゃあ、喜んでくれたんだ?」と一言尋ねると。宗助は再び正面を向いて「そっすね」と答えた。
シンクの前に立って、放置された食器を洗う。
彼氏もいないのに、何で自分はこんな脈も何も無い後輩に対して、女子力の無駄遣いをしているのだろう。そう考えると少し悲しい気持ちになった。
ベッドに寝転がる宗助の様子を横目で見ながら、蛇口から流れる水音を聞いていると、不意に今までの出来事が予期せぬ形で一列に繋がったのを感じた。
「あ‥‥」
たてはは小さく呻き、その感情を隠すように宗助に振り向くと、努めて明るい声で言う。
「じゃあ、洗い物も終わったし、私はこれで帰るね。ゆっくり寝てな」
「かなり体力も回復してきたんで、問題ないっす」
たてはを気遣ってか、不恰好な笑顔を作る宗助。
宗助のアパートのドアを閉め、バイクの前に立ったたてはは、唐突に両掌で顔を覆い大きく溜め息をついた。
嫌な想像が頭の片隅をよぎってしまった。
そしてその最悪の想像が、頭から離れない。
宗助の唇に食らいつく、るりの姿。
日に日にやつれていく宗助。
そして、唐突に命を落としてしまった灰塚達樹(はいづかたつき)。
この想像はただの考えすぎなのだろうか、それとも真実を示唆するピースの一つなのだろうか。
誰かの意見を聞きたいのに、誰にも頼る事が出来ない。こんな荒唐無稽な相談など、信じてもらえるわけがない。
しかし、そんなガタついてアンバランスなたてはの肩に、宗助の人生、もしかしたらその命までもがかかっているのかもしれない。
そう考えると、顔を覆う両手が小刻みに震えた。
たてはは、途方もない孤独を感じていた。
△
前回のキャンプで、るりと灰塚達樹が出会った時期を絞り込む事ができた。そしてるりが『るり』と呼ばれる前に『ミヤ』と呼ばれていた可能性。
絞り込んだ時期のキャンプ場を今一度精査してみると、少し気になる記事を見つけた。
『○○県○○群○○村で、18歳の三河弥生(みかわやよい)さんの行方がわからなくなりました』
3年前に村のホームページの記載されていた記事のようだが、続報は書かれていなかった。そしてこの村は、灰塚達樹がるりと一緒に訪れたであろうキャンプ場がある村でもある。
みかわ やよい
み や ?
たてはは頭を抱える。かなりこじつけに近い根拠だが、様々な偶然が重なっているのも事実だった。
行方不明の三河さんは残念ながら命を落としていて、浮遊霊となっていたところで何らかの理由で灰塚達樹と出会い、あのテントに取り憑くことになる。
たてはが想像した筋書きはこんなところだ。そしてその『何らかの理由』の部分が明確になれば、現状に対する何らかの解決策が見えてくるような気がした。
これから、たてははその村のキャンプ場へキャンプに向かう。
輪郭が見えてきたとはいえ、どの様な切り口で真実に迫ればいいのか、皆目見当がつかない。何の情報も得られないまま、踵を返すことになるかもしれない。
ただ、粘ついた焦りの感情だけが、たてはを動かしていた。
事態は、自分が想像していたよりも、ずっとずっと深刻なのかもしれない。
△
寄り道する事なく、チェックインの2時間前には件のキャンプ場に着いていた。
管理棟の前の駐車場にバイクを停めて、うろうろと辺りを散策してみる。山の麓にあるキャンプ場で、管理棟から3キロ程のハイキングコースが設けられている。
木々は少しだけ秋の色を帯び始めていて、ハイキングコースの入り口に植えられた紅葉の葉は、緑から赤へのグラデーションを見せていた。
水筒とおにぎりを一つ、それと付近に地図が書かれたパンフレットをボディバッグに入れて、チェックインの時間までハイキングコースを散策してみることにした。
管理人室に人がいれば話を聞こうと思っていたのだが、生憎受付奥の事務所には誰もいないようだった。
のんびり、ゆっくり、様々な事に気付けるように意識を集中して歩こうと努めていた。しかしそんな理性とは裏腹に心臓は鼓動を早め、気が付けば息が切れるような速度で足を進めている自分に気づく。
不安で、落ち着かない。
焦って歩き回ったところでどうしようもない事はわかっているにもかかわらず、たてはは居ても立ってもいられなかった。
そんな気持ちばかりが空回りする自分の頭を冷やそうと、ハイキングコースの途中にある木製のベンチに座り、少し早めの昼食を取ることにした。
ベンチは木の幹縦に割ったような形をしていて、座ると少し冷たかった。雨や霧の湿気が乾かないのか表面には水分が染み込んでいて、ズボンのお尻の部分が少し湿ってしまった様な気がする。
端の方には苔が生えているが、なんて名前の苔なのかはわからない。宗助が隣にいたら解説してくれるのだろうが、生憎マニアックな知識が豊富な後輩は、今頃部屋で寝込んでいる。
顔を上げるが、空は見えない。
濃い緑の屋根が天井を覆い、所々に開いた小さな穴から、雨漏りのような日光が滴っている。
たてははボディバッグから水筒を取り出し、一口の飲んだ。少しだけ気分が落ち着いたような気がする。
今度はコンビニ袋からおにぎりを取り出して、海苔を巻く。口に入れると、パリパリと軽快な海苔の音が、山尾の奥深くまで染み入っていく様な気がした。
おにぎりを咀嚼しながら、あたりを見回し、首を捻る。
心なしか、倒木が多い様な気がした。朽ちて寿命を迎えたというよりも、成長の途中で理不尽に命を摘まれた様な、そんな感じ。
ただ、たてはは樹木について特別詳しいわけでもない。その為、その気付きが何らかの理解につながることはなく、一瞬で思考の流れに飲まれていった。
ふと、木の根元に赤い塊を見つけた。
黒と茶と緑の中に見える燃えるような赤い色は、気が付いてしまうと避けようがない吸引力でたてはの興味を惹いた。
たてはは立ち上がると、赤い物体の元へと近付く。それはキノコのようだが、燃える炎を象った様な形状をしていた。何かの本で読んだ事がある気がするが、思い出せない。
何の気なしに手を伸ばす。
「ダメ!」
急に声が響いて、たてはは手を止める。声のした方を見ると、女性が険しい顔でたてはを見ていた。
「それカエンタケ! 触っただけで毒だから!」
「え、あ! すみません!」
たてはが慌てて手を引っ込めると、女性は溜息をついた後にニカッと笑う。
「危ないところだった!」
女性は左手に籠をぶら下げながら、空いてる右手で茶髪の長い髪をかき上げた。