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第20話:花火の見える場所②

 布地の擦れる小波のような音をバックに、ペグとハンマーが軽快なリズムを刻み、ピンと張ったロープが弦楽器のように空気を震わせる。

 そんな音を目覚まし代わりにして、るりは徐々に睡眠から覚醒していく。

 目を覚ますと、いつものテントの中。中央に立てられたポールの前に座り込んでいる。


 今日はどんな景色が見られるのか。自分で開ける事の出来ないテントの入り口を見つめながら、るりはいつもそんな想像を巡らす。

 そういえば、今日はいつもと比べて、テントを照らす太陽の位置が低い。今日はもう西日に傾きつつある時間帯のようだ。


「‥‥起きたっすか?」


 テントの布地越しに宗助そうすけの声。

    るりは心臓が大きく跳ねるのを感じた。


 先日のキャンプから、るりは宗助に対する感情に靄がかかっているような気がしていた。それは感覚を全て覆い尽くしてしまうほど大きく広がり、自分の全てを包み込んでしてしまいそうだった。


 ただ、不快感はない。


 ほんの少しの胸の痛みはあるものの、全体的にそれは甘く心地よい感覚だ。

 そして、どこか懐かしくもある。


「起きたよ」


 答えると、テントのジッパーが開かれる音。隙間から西日が差し込み、カーキのテント地に陰影を彩る。

 テントの入り口に立つ宗助の頬が赤く染まって見えたのは、きっとこの西日のせいだろう。

 光を透過するはずの自分の頬もまた、同じ様に赤く染まってしまっているような気がして、るりは無意識に両手で頬を隠した。


「今日は、遅かったんだね」


「はあ、道中で居眠りをしたもんで」


 普段通りの素気ない返答。

 その視線はるりではなく、空間に漂う別の何かを目で追っているように見える。

 るりも宗助の顔を見るのが何だか気恥ずかしく感じ始め、視線を足元の芝生に向けた。小さな黒い甲虫が芝の間を縫うように走っている。



   △



 宗助はいそいそと料理を始める。


 その姿を視界の隅に捉えながら、るりはテントの出入り口から外の景色を見渡す。

 眼前に広がるのは雑木林。その隙間から赤い木漏れ日が差し込んでいた。


 暑さのピークを過ぎた生温い夏風が、茹だったような草の匂いを運んでくる。そこに宗助が炒める牛脂と玉ねぎの匂いが混ざり合い、小さな三角形の中へ流れ込んでくる。


 遠くで子供のはしゃぐ声が聞こえる。

 宗助は名の知れた人気のキャンプ場より、あまり知られていない辺鄙なキャンプ場を好む傾向があるから、今回子供連れで賑わうキャンプ場を選んだ事になんとなくだが不自然さを感じる。

 しかしその不自然さを問う気持ちなどるりにはない。ただ耳に流れ込んでくる情報の波の中を心地よく漂っていたいと考えていた。


「あの」


 まな板の上の豚肉から視線を逸らさず、宗助ぼそっと呟く。

 誰かに向けての呼びかけなのか、単なる独り言なのかはわからないが、るりは「なーに?」と返事をする。


 そして、そういえば自分が宗助の口から「るり」という名前を呼ばれた事がないと気づいた。

 2人きりのキャンプなのだから、呼びかける言葉は当然るりに対してのものだろう。だからわざわざ名前を呼ぶ必要などないと言えばそうなのだが、宗助がどこか自分との間に壁を作ろうとしているような気がして、少しだけモヤモヤした。


「ドライブレコーダーで道中の景色を撮ってみたんすけど、見ます?」


「ドライブレコーダーって何?」


「車の中から外の景色を録画するカメラ。主に事故とかがあった時に状況を判断するための材料になるらしいんすけど、今日の動画データは蓄積されてると思いますので、まあなんて言うか、暇つぶしになれば」


「見たい」


「はあ」


 カバンの中からノートパソコンを取り出して、SDカードを差し込む。いくつかのフォルダを開いていくと、画面にフロントガラス越しに見える景色が映しだされた。


「わぁ、こんなの見れるんだ」


「そこそこ画質がいいやつに買い替えたんすよ。鮮明に映ってた方が、情報量は多いかと思って。事故の時とか」


「ありがとう!」


「じゃあ、料理に戻るんで」


 宗助はそう言って調理に戻っていった。

 るりはコットに座って、ローテーブルに置かれたノートパソコンの映像を眺めた。

 広葉樹が連なる緑のトンネルを走り抜けていく映像、人が賑わう商店街の赤信号で小さな女の子が横断歩道を渡っている映像、スーパーの駐車場の片隅であくびをする猫。


「あ、ねこちゃん、かわいい」


 誰にともなくるりは呟く。


 全てが珍しく、輝いて見えた。


 テントの外には、きっと自分が見た事のない、そして今後も見る事が出来ないであろう景色がある。 

 今こうしている間も、かけがえの無い景色が生まれ続けているというのに、それは自分の目に留まらないまま、つけぱなしのテレビのように消費され、消えていく。


 右手に料理が山盛りに乗った平皿、左手にウイスキーの瓶を持った宗助が、腰を曲げてテントの出入り口をくぐる。


「そんなの見てて、楽しいっすか?」


「うん楽しい! さっき猫があくびしてたよ」


「そっすか」


「今日のご飯は何?」


「肉と野菜を適当に炒めたやつ」


「うん! 美味しそう!」


「手抜き料理っすけど」


 中央に置かれたローテーブルを挟んで、るりと宗助はお互い向かい合って座る。両手を合わせて「いただきます」の言葉が重なる。


 ふと、子供の声が聞こえた。 


 少しの間を置いて、爆発の音がする。


「花火始まったよー!」


 そんな男の子の声に、小さな子供たちの歓声が重なる。



   △



「本当は、花火の見える位置にテントを立てたかったんですけどね」平皿の料理を小皿に取り分けながら、るりの方を見ずに宗助は言う「温泉の休憩所で居眠りしちゃったもんで、場所取り競争に参加できなかったんすよ」


 俯く宗助の表情は見えない。

 声もいつもと変わらない淡々としたものだった。


「残念でした」


 タンブラーにウイスキーを注ぐと、溶けた氷が壁面に当たり、小さな音を立てた。


 その音をかき消すように、花火の音が響き、人々の歓声が聞こえる。


 静かなキャンプの夜が、音の洪水に飲み込まれていく。るりはテントという船に乗って異世界に迷い込んでしまったような、不思議な感覚を覚えた。


「私のために?」


 るりは宗助を見る。

 宗助はゆっくり顔を上げた。


 るりは今日初めて、宗助の顔を正面から見たような気がした。この前会った時よりも短く揃えられた髪。いつもの無精髭も剃られていて、少しだけ若く見える。

 だからかも知れないが、目の前の男が、まだ年端もいかない少年のようにも見えた。

 サプライズプレゼントとして書いた絵を、不注意で破いてしまった時のような、悲しい気持ちと、不貞腐れた気持ちと、それによって流れ出そうな涙を必死で堪えているような、少年の顔に見えた。


「私のために、このキャンプ場を選んでくれたの?」


「結局、見れなかったっすけどね」


 宗助はため息を吐いて、ウイスキーを一口含む。不器用な態度しか取れない自分に苛立ちながら、過敏になった感覚を麻痺させるように、もう一度酒を口に含む。


 そんな宗助の態度にも、るりは不快感は感じなかった。ただ素直に、自分に花火を見せようとしてくれた宗助の計らいが嬉しかった。


「宗助、ありがとう」


「はあ」


「いつも気遣ってくれて、美味しい料理を作ってくれて、綺麗な景色を見させてくれて、ありがとう」


「はあ」


 おそらく、お礼の言葉に何と返していいか分からなかったのだろう。ぶっきらぼうな態度だったが、そこが愛おしく感じてしまう。

 るりはそんな自分の感情をもはや隠す必要は無いのかなと思った。


 宗助は立ち上がると、カバンから小袋を取り出す。細い棒状の何かが入っている。


 再び花火の音がした。

 今度は続け様に3回。きっと外の花火は佳境に差し掛かっているのだろう。


「それ何?」


「線香花火。このくらいのやつなら、テントの中でも大丈夫」


「面白そう! 早く火をつけてみて!」


 宗助は頷き、まずは蝋燭に火をつける。そして蝋燭の火に線香花火の先端を近づけると、すぐに小さな火花が弾けた。


「ちっちゃいね。かわいい」


「はあ」


「お花みたいだね」 


 るりは花火に手を伸ばす。霊体の身体は熱さを感じず、火は広げた両の掌の上に乗った。

 黒い影の手が火を持ち上げる。


 火は一輪の花のように、黒い影の少女の手の上で花びらを広げている。


「これは、お礼の花束」


 るりが呟く。


 スマホ越しでは無いのに、黒い影のるりの姿に、少女のすがたが重なったような気がした。


 また花火が鳴った。


 外では再び歓声があがる。


 そして、おそらく大輪の花火が散っていくタイミングで、るりの手の中の小さな花も散っていった。



   △



 翌朝、目を覚ました宗助は激しい頭痛と倦怠感に襲われた。


 体調管理には常に気を遣っているため、今まで風邪をひくことなど滅多になかった。それに今感じている体の不調は、風邪や流行病のような明確な原因のあるものでは無いような気がした。


 例えるなら、命をカンナで薄く何度も何度も削られているような、不可逆的な魂の摩耗。


「宗助、大丈夫‥‥?」


 心配そうに自分を見下ろするりに「多分、寝てりゃなおるんで」と一言返す。


 テントの入り口の水を張った小さなバケツの中で、昨日の線香花火が漂っている。


 昨夜、強く儚い輝きを見せてくれたそれは、今は見る影もない薄汚れたゴミへと変わっていた。


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