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第19話:花火の見える場所①

 門前もんぜん宗助そうすけはノートパソコンでキャンプ場に予約を入れる。

 一仕事を終えてソファーに寝転ぶと、伸びすぎた前髪が目を覆った。薄く黒い靄がかかったような視界の先に、見慣れた天井のシミが映る。


 そろそろ髪を切らなければ、そんな事を考える。考えてしまうといてもたってもいられなくなり、再び起き上がるとパソコンで近場の美容室を検索した。

 人と会う機会などほとんどなかったため、今までは自前のすきバサミで適当に長さを整えていた。

 ゴワゴワの天然パーマのため、それでも何とかナチュラルなヘアースタイルの体を保ってはいたが、いつまでもそんな身形ではいけないような気がした。


 近所の適当な美容室を予約し、再びソファーに寝転んだ。


 最近は疲労の蓄積が顕著だ。常に眠気のモヤが頭の中を覆っていて、仕事を終えるとそのまま突っ伏して眠りにつく日が多くなった。

 加齢と、夏バテのせいだろうと自分を納得させる。それにパソコンの前で頭を使う仕事を続けていると、身体の方はどうしても鈍ってきてしまうのだろう。


 だからと言って、キャンプを止めるわけにはいかなかった。


 キャンプは宗助にとって魂の食事であり、精神の休息であり、そしてむず痒くも心地よい心のリラクゼーションでもあった。


 酒を飲もうかとも思ったが、体の方が深い眠りを求めていた。


 立ち上がり歯磨きを済ませると、そのまま布団に横になる。程なくして、小さなワンルームに小さな寝息が響き始めた。



   △



 キャンプ当日。


 早起きをして、身支度を整える。普段は剃ったり剃らなかったりする髭も、新品のカミソリを当てて丁寧に剃った。鏡を見ると、先日美容室で整えてもらった髪型も相まって、2〜3歳は若返ったような印象を持った。


 今日のキャンプ場は、花火が見えるキャンプ場として、詳しい人の間ではちょっとした話題となっていた。

 小高い丘の上にあるキャンプ場なのだが、フリーサイトの一角から丘の下の町の花火大会が一望できる。


 宗助はキャンプ場の開場と同時にチェックインを済ませ、花火が見える位置にテントを設営する計画だった。

 フリーサイトは基本的に区画が決まっておらず、エリア内に自由に設営する事が可能だ。おそらくテントから花火が見える一角は、いの一番で埋まってしまうだろう。

 だから今回のキャンプに遅刻は許されなかった。


 花火を見るだけなら、近くにテントを立てるまでもなく、歩いて見に行くことも当然可能だ。

 だが宗助にその選択肢はない。


    それは、この花火が宗助のためではなく、るりのためのものだからだ。


 テントに縛られている彼女に、夏の輝きを知ってほしかった。


 荷物の最終チェクを済ませると、意気揚々とアクセルを踏み込む。

 普段通り近くのスーパーでお酒と食材をカゴに入れ、レジ側で売られていた線香花火もカゴに投げ込んだ。この花火ならば、テントの中でも楽しめるかもしれない。


 キャンプ場は山を一つ超えた町の外れにある。


 車で1時間ほどの道のりのため、トラブルがなければチェックインよりかなり早く到着する計算だった。


 カーラジオから昔テレビの音楽番組で聴いた事がある、懐かしい夏の曲が流れる。

 目の前に迫り後ろへと消えていく色濃く力強い夏の緑と、どこまで走っても止まることのない雨音のような蝉の鳴き声に、宗助の胸は高鳴った。


 案の定、キャンプ場のある町にはかなり早い時間に到着してしまった。


 このまま車の中で待機するのも面白くないので、宗助はキャンプ場から数分の距離にある温泉施設へと向かうことにした。


 川沿いに建てられた木製の建物に入る。

 正面は休憩場所になっていて、窓からは雄大な川の流れを眺める事が出来るようだ。

 既に数人の湯治客が、木製の長テーブルに飲み物を並べ、窓の外の景色を眺めている。オレンジジュースのストローを咥えた小さな男の子が、テレビにに映るCMの歌を真似して、母親と思われる女性にたしなめられていた。


 なんともゆっくりとした空気が流れている。そんな空気感も、宗助は嫌いじゃなかった。


 階段を降りると脱衣所になっている。

 脱いだ服をロッカーに入れ、百円玉を投入し、

鍵を回す。取り外した鍵を左の手首に巻いて、宗助は立ち上る湯気の中に身を投じた。


 お湯は少し熱めだったが、ここ最近の疲労が蓄積している身体には心地よい。

 熱さにも徐々に慣れてきたため、湯船に浸かりながら窓の方に移動すると、先ほど見下ろしていた川が目の前を流れていた。


 老人が低いうめき声を上げながら、心地よさそうに体を湯船に沈める。


 高校生くらいの若者二人が、今夜の花火についての計画を立てている。


 宗助は川を眺めながら、今日の設営場所の脳内シミュレーションと、適当に買ってきた食材で作れそうな料理について考えていた。


 徐々に、身体の火照りが耐え難いものになっていく。先ほど休憩室の人達が飲んでいたコーヒー牛乳の事を思い出し、宗助は人知れず唾を飲み込んだ。

 湯船から上がり、浴槽の縁に腰掛けて粗熱を取ると、宗助は風呂から上がった。


 脱衣所の空気は入る前と比べて涼しく感じられた。汗が引くのを待ってから、Tシャツとジーンズを着て休憩室に向かう。休憩室の入り口の売店でコーヒー牛乳とスポーツドリンクを買い、休憩室の隅に腰を下ろした。


 近くに座ったカップルも、今夜の花火の事を話していた。開場近くの駐車場がどんどん埋まってしまうため、早めに会場に向かおうとの事だった。


 休憩室の壁にもたれかかり、コーヒー牛乳の甘みを舌で感じながら、宗助は花火に感動の声を漏らするりの姿を想像した。

 スマホの画面に映る彼女の横顔を、花火の虹色の光が照らす。

 それは、とても美しい光景だった。

 宗助は心の奥が温かく潤っていくのを感じていた。


 川はゆっくり流れている。


 コーヒー牛乳の瓶の表面に浮いた水滴が、周りの水滴と混ざり合いながら、流れ落ちていく。



   △



 いつの間にか、水滴は全て流れ落ち、テーブルの上に水溜りを作っていた。


 先程までおしゃべりを続けていたカップルも消えていて、休憩室にいる人の数もまばらだった。


 コーヒー牛乳に手を伸ばす。


 違和感。


 キンキンに冷えていたそれは、既に室温と同程度まで温まっていた。


 違和感の正体を見定めるため、宗助はスマホの画面を見る。


 15:18


 宗助は目を疑う。

 休憩室に座ったのは11時30分、キャンプ場のチェックイン時間は13時、そして今の時間は‥‥


 寝過ごした?


 普段は絶対に起こさないであろう自身の失態を、宗助はまだ飲み込めずにいた。



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