自由に翔ける鳥達が羨ましかった。
広葉樹の檻で過ごす月日と共に、私の中に芽吹いたはしたない欲望は、澱んだ時間の流れと共に絡み合いながら枝葉を伸ばしていった。
欲望もまた、私という檻の中で出口を探し、小さな理性の中を歪んだ蔦で満たしていたのだろう。
やがて欲望は、ほんの少し生じた心の亀裂に蔦の先を押し込むと、鈍い音を放ちながら押し広げて行った。
そして私の体と心は、欲望に支配されていく。
どこかの神話の話だったか。
蝋で固めた羽で空を飛んだ若者は、高く飛びすぎたあまりに太陽に蝋を溶かされ、地面に落ちて行ったらしい。
なんだか今の私に似ている。
こんなことになるのなら、初めから自由なんか求めなければ良かったんだ。
あの薄暗い森の中で、木々の一本一本、虫の一声一声に意識を向けながら、岩肌の苔のように生きて、死んでいけば良かったんだ。
なのに私は今ここにいる。
忌まわしい記憶や、感情に蓋をして、何事もなかったかのように、ここにいる。
△
普段から顰めっ面で血色がいいタイプではないのだが、今日の
「よっ! お客さん、今日は何買いに来たの?」
ただ、仕事で疲れが溜まることは社会人なら誰だってあるだろう。
宗助の仕事は忙しさの波が激しいと聞いている。ベースとなる収入の基盤がないフリーランスなのだから、舞い込んできた仕事はことごとく受けといた方が安全なのだろう。
そんな事を考えて、特に詮索はせず、いつものわざとらしい営業スマイルで迎える。
「『ほりにし』のブラック、ないっすか?」
カウンター側のスパイスが置かれた棚を眺めながら、宗助は応える。普段と変わらない声に一安心。
「あー、全部売れちゃったんだよね。来週にはまた入荷する予定だけど」
「そっすか」
「あっ、ちょっと待って」
踵を返した宗助を呼び止めるたては。
「なんすか?」
「どう、最近のキャンプは? るりちゃんとは上手くやってる?」
たてはの脳裏に、三人で行ったキャンプの夜の光景が思い浮かんだ。
宗助の身体に覆いかぶさる黒い影。
きっと何事もないと思うし、宗助の様子からも普段通りのキャンプを楽しんでいるであろう事は想像がつく。
しかしたてはは、あの夜の衝撃が頭から離れなかった。
「‥‥‥」
しかし、宗助は無言だった。振り向いた姿勢のまま固まっている。
そして宗助の顔は目に見えて赤く染まっていく。
「え、何? この沈黙は」
「な、な、な、何でも、ないっす」
「いや、明らかに動揺してるでしょ」
「何言ってんすかそんなわけないじゃないですかいつも通りっすよるりとは何もないですよいつも通り楽しくキャンプしてますよ悪いですか」
「‥‥明らかに饒舌というか、なんか言い訳がましいんですが」
あからさまに溜め息を吐いて見せるたてはだったが、内心はほっと胸を撫で下ろしていた。
動揺している理由はさて置き、宗助が言った『楽しくキャンプしてますよ』の部分は多分偽らざる言葉なのだろう。
目の前の後輩が、嘘や誤魔化しを言えるような器用な人間じゃないことを、たてはは理解している。
今のうちに、不安の芽は摘んでおかねばならない。
△
次の休み、たてははバイクに跨りソロキャンプへと繰り出した。
るりがあのテントに取り憑いた経緯を解き明かすために、ヒントとなる情報は結局のところ
たてはは付近のキャンプ場ならほぼ行き尽くしているため、行ったことがあるキャンプ場もいくつもある。過去の記憶を思い出してみるが、幽霊の噂や、不幸な出来事があった記録などは無かったはずだ。
頭の中で情報をこねくり回す事に限界を感じたたては、意を決して灰塚達樹の足跡を辿る事にした。
元々自分は、頭で考えた事よりも、肌で直接感じたものへの感受性が高いと理解している。灰塚達樹が巡ったキャンプ場を同様に辿っていけば、何か見えてくる物があるかもしれない。
一見遠回りのようにも思えるが、同じキャンプ好きであれば通じるシンパシーのような物が、正しい情報を仕入れる近道になるような予感がある。
だから、あれからたてはは、灰塚達樹とあのワンポールテントと所縁があるキャンプ場を巡っている。
今回のキャンプ場は3件目。
前の2件では関連する情報は何一つ見つけられなかった。
灰塚達樹があのテントを使ったキャンプ場は30件程。中には数ヶ月先まで予約が一杯の人気キャンプ場もあるため、順番まで踏襲する事は出来ないわけだが、可能な限り当時の順番を辿りながら、たてははキャンプを続けるつもりだった。
キャンプ場に向かう途中、ブログに書かれていた観光名所の滝に寄り道する。
滝の近くに観光者用の食事処があったため、たてはは東屋下の席に落ち着くと、冷やしとろろ蕎麦を啜った。空気を震わせて響き続ける滝の音に、様々な蝉の鳴き声が重なる。木漏れ日が木製の手摺の上で踊り、羽を休めていたトンボが首を傾げている。
会ったことも無い人の足跡を辿る旅。
そこでるりの謎を解く何かを見つけられるかなんて、滝壺の中に流れ落ちた一滴の雨水を探し当てるような、途方もない事なのかもしれない。
ただ、果てのない作業を強いられているような徒労感は無く、むしろこのキャンプを楽しんでいる自分がいる事にもたてはは気付いていた。
灰塚達樹が残したブログ、そこに記載された写真。その写真の一枚一枚が、彼の目にした景色や彼の感じた気持ちの揺らぎを、この上なく魅力的な絵画のように切り取っていた。見ているものに『同じ景色を自分も見たい』と思わせてくれるような、そんな写真達だった。
もし、まだ時間が残されていたとしたら、きっと彼は沢山の人の感情を動かすようなカメラマンになっていた事だろう。
そう確信を持ってしまえるほど、たてはは彼の写真に魅了されていた。
そしてそんな自分を鼻で笑う、もう一人の自分の存在も同時に感じていた。
こんな写真を撮れる人物が、るりの人生に悪い方向で影響し、結果として彼女を地縛霊に変えてしまったとは、到底思えない。
いや、芸術の道の深部に足を踏み入れた者ほど、現代社会の倫理観から外れ、美の追求の名の下に人の命を軽んじる場合もあるのではないか。
相反する二つの仮定を間を行ったり来たりしながら、たてははこのキャンプを続けていた。
木漏れ日のトンネルを抜ける。
本日のキャンプ場が見えてくる。
フリーサイトの木陰にテントを貼ると、たてはは貴重品をリュックに入れて周辺の散策を始めた。
まず管理棟にいる管理人さんと世間話をして、それとなく灰塚達樹についての情報を聞き出そうと試みる。キャンプ場の管理人は比較的社交的な人が多い印象があり、今回の管理人もたてはの話を笑顔で聞いてくれた。
「私、このブログの写真家さんファンで、彼の行ったキャンプ場を巡っているんです。この写真を撮った場所って、どの辺りになるかわかりますか?」
ブログの写真をプリントアウトしているため、それを見せながら管理人と言葉を交わす。何枚かの写真については、撮られた場所を特定する事ができた。
「それと‥‥」たてはは声をひそめる「実は、このキャンプ場の側で女性が亡くなった事故があったとネットの噂で見て‥‥私ソロなんで、危険な場所があったら聞いておきたいんです」
実際にはそんな噂などない。
良心が痛むが、かまをかけてみる。
るりのような幽霊が誕生するきっかけとなる事件、事故があったかについて『このキャンプ場で亡くなった女性がいますか?』などと聞いて『はい、いますよ』と答えてくれる人がどれだけいるだろうか。
だから、あくまで事故の存在は承知していて、危険回避のため前向きに詳細を知りたがているような風を装った。
もちろん、公になっているような事件事故が起きていない事はインターネットで事前に確認している。
管理人は目を丸くし、そして首を捻る。
「そんな事故、私は聞いたことないですよ。それは多分根も歯もない噂せす。安心してください、うちはしっかり安全対策してますんで」
「そうなんですか! 安心しました」
どうやら、何もないようだった。本当のことを隠している可能性もなくはないが、そこまで疑ってしまってはキリがない。
何度もお礼を言って、たてはは管理人室を後にした。