下味を付けたブロック肉を、炭火の上でじっくり焼く。弱目の火力でじっくり火を通すと、表面は香ばしく、中身はしっとりしたローストビーフになる。
日常生活であれば時間は出来るだけ短く、手間は出来るだけ少なく作れるレシピが求められるが、キャンプではその逆の価値観が好まれる場合もある。肉をこまめに転がし全体に満遍なく火を通す手間も、その先に美味しい夕食が待っているのであれば楽しみの一つへと昇華される。
グリルの上で芳香を放つ肉を眺めながら、時折ウイスキーを流し込む宗助と、その後ろ姿を期待の眼差しで見つめるるり。
夏の夕暮れは長く、まだ太陽は西の峰にへばりついている。ランタンを着けるにはまだ早いが、木々の影は長く伸び、水墨画のような深い陰影が刻まれている。
表面に焦げ目がついたところでアルミホイルの上に置き包む。数枚のアルミホイルで巻かれた銀色の球は、東の空から転がり落ちた星の破片ように見える。余熱で中まで十分に火が通れば、ローストビーフの完成。その間にスキレットに火をかけ、刻んだ玉ねぎとニンニクで醤油ベースのタレを作る。
「宗助の料理はいつも美味しい」
テントの隙間から聞こえるるりの声。
スマホでの画面で黒い影を映すと、胸の前で両手を合わせて目を輝かせたるりが見える。
「キャンプ飯は、カップ麺でも美味いんで」
ソロキャンプを始めた頃、初めての夜に食べたカップラーメンの美味さを、宗助は今でも覚えている。そしてそれを超える料理を作ろうと試行錯誤をしているものの未だに到達出来ていない。
結局のところ、その瞬間に感じた星の輝きや、空気の匂い、焚き火の暖かさ、暗闇の心細さなど、全ての要素による感動の振れ幅が、料理の味に溶け込んでいたのだろう。
あの時と同じ感動を再び味わうことは出来ないが、別の何かから同じ振れ幅の感動を味わうために、宗助は今もキャンプを続けている。
まな板の上でローストビーフを切り分け、テントの中央に置かれたローテーブルに並べた。タレをシェラカップに注ぎ、切り分けた肉を3切れ、るりの側のカップに入れる。そうしてあげないとるりは料理を味わうことができない。
御供物みたいなだ、と宗助は毎回思う。
「うーん! 美味いっ!」
黒い影がシェラカップのローストビーフを覗き込み、無大袈裟に何度も頷いた。
「わさびも添えるとさらに美味いっすよ」
「あ、辛いの苦手だからちょっとでいいよ」
「はあ」
テントの中に香ばしい匂いが広がり、開け放ったメッシュ窓から流れ込む湿った夜風と混じり合う。中央のポールにかけられたLEDランタンの灯りを目指して、小さなハムシがゆっくりとポールを登っている。
「昼間の2人、大丈夫かな?」
るりが言う。昼間に森林香をお裾分けしたあの男女2人の事だ。
「まあ、夏のキャンプは死ぬ事はないんで。ただ、初めてキャンプするのには、このキャンプ場は色々不便かもしれないすね」
薄汚れた小さいトイレ、蜘蛛の巣が張っている炊事場、照明の少ない真っ暗なキャンプサイト。快適なキャンプとは程遠い設備のため、アウトドア自体が初めての人達にとっては、不便を感じるかも知れない。ただ、それも人によっては「味」と言えないこともないだろう。
「カップルでキャンプって、楽しそうだよね」
「そっすか」
「宗助は、彼女とかいるの」
「いないっす」
恋人どころか友達すらいない。自分がコミュニティから弾かれた存在である事など今更言う必要もない周知の事実だと考えていたが、るりはキャンプ以外の自分を知らないのだった、と宗助は思い直す。
「あ、傷付けちゃった? スイマセン‥‥」
「謝んなくていいすけど。恋人とか、そういう関係性が、自分にはよくわからないんで、あんまり興味無いっす」
「ふーん」
るりは釈然としないようだった。
「わたし、この姿になる前はめちゃくちゃ素敵なカッコいい彼氏がいたと思う」
「あー記憶が戻ったんすか?」
「ううん、全然戻ってないけど、そんな気がする。だって私、かわいいでしょ?」
「はあ」
「たてはさんとは、そういう関係じゃないんだ?」
「先輩は、尊敬している先輩なんで」
「それってある意味、恋愛感情に通じるものなんじゃないの」
そうなのだろうか。しかし自分は大学時代に先輩が付き合っていた相手に対して何の感情も抱かなかったし、今先輩に交際相手がいるのかなども全く気にならない。恋愛なんて独占欲を耳触りのいい言葉に言い換えたものだと考えている宗助にとって、この関心の無さと恋愛感情は明らかに両立しなかった。
「いや、そういうんじゃないっすね」
そうキッパリと言い切って、ウイスキーを口に含んだ。冷たさの後に広がる舌を焼く辛さが心地良かった。
そして宗助は、幽霊になる前のるりの事を想像した。
このテントの下に縛り付けられる前の彼女は、立派な2本の足でどんな景色でも見に行く事ができて、どんな人にだって歩み寄る事ができたのだろう。
きっと、自分のようなつまらない人間に依存する事などなく、陽の光の下を自由気ままに闊歩していたのだろう。
△
焚き火を眺めたくてテントから這い出た宗助は、遠くに見える真っ暗な湖をぼんやりと眺めた後、焚き火台に薪を組んで火をつけた。
焚き火の上にグリルスタンドを置き、格子の上に蓋を開けた焼き鳥の缶詰を置く。焚き火の熱で芳香を放ち始めた缶詰をつまみながら、酒を飲み進めるつもりだった。
テントの中ではるりがたてはから貰った雑誌を眺めている。霊体の彼女はものに触れる事ができないため、宗助に開いてもらったページを隅々まで読み込み、モデルの女性が着ている服装を小物の一つまで記憶に刻み込んでいるようだった。
宗助は、幽霊とはいえ『他人』とキャンプを共にしている事実に、今更ながら困惑していた。
それはるりがこぼした幽霊になる前の自分という言葉ーー彼女にも幽霊ではなかった過去があるという至極当然の事実について、改めて思い至ったからかも知れない。
なぜ自分はるりとのキャンプを続けているのだろう。
テントだって、無理をすれば買い換える事だって出来る。金が無いのは嘘ではないが、壊れたキャンプ道具を買い替える程の蓄えは常に確保している。それにたてはからだって、テントの買い替えを促すような提案をもらったばかりだった。
だったら何が、その決断に二の足を踏ませているのだろうか。
宗助は小学生の頃、近所の庭先に繋がれた犬に哀れみを覚えて、勝手にリードを解いてやろうとした事があった。すぐに飼い主に見つかってこっぴどく叱られたのだが、大人になるまで自分のとった行動は正しかったのだと信じて疑わなかった。
それはその犬の目が、ここではないどこか遠くへ恋焦がれているように見えたからだった。
テントの窓からしか世界を見ることの出来ない少女。
テントの下でしか存在できない、好奇心に目を輝かせた記憶のない幽霊の少女。
初めてにスマホの画面でるりを見た時、宗助は彼女の目が、あの犬と同じ感情で染まってることに気がついた。
だからきっと、条件反射的に、彼女のリードを解いてやろうとしたのかも知れない。
でも今は本当にそれだけなのだろうか。
るりとのキャンプを心の底から楽しんでいると気付いた瞬間。
新しい景色や、新しい匂いや、新しい料理に目を輝かせているるりを見て、喜びを感じている瞬間。
るりと一緒に同じ景色を眺め、同じ声をこぼしている瞬間。
そんな一瞬一瞬の中に垣間見える、不可解な自分に気が付くたびに、宗助は心の裏側に生暖かい手が張り付いて、無理やり外へと押し広げるかのような息苦しさを感じた。
俺は、一体何がしたいんだ。
自分の感情なのに、自分の思うように動いてくれない。そんな不快感を紛らわすために、宗助はカップに半分まで注いでいたウイスキーを一気に飲み干した。
「あのー」
物思いに耽っていると、ランタンの向こうに広がる暗闇の中から、男の声が聞こえた。キャンプの夜に他人から話しかけられる事などそうそうあることではない。管理人かと思い暗闇に目を凝らすと、そこには昼間の男女の片割れが立っていた。
「あのー、もし良かったらお裾分けです」
男の手にはスキレットと日本酒が握られていた。
「アヒージョを作ってみましたので、もし良かったら。あとこの日本酒、隣県の地酒なんですけどぜひ味見していただければと‥‥」
「あ、いや、その」
先程まで物思いに耽っていたせいで、上手く言葉が出ない。
「昼間色々良くしていただいたんで、そのお礼です」
「はあ」
「日本酒嫌いですか?」
「いえ、嫌いではないっす」
「なら、どうぞ」
男はスキレットをグリルスタンドに置き、プラスチックカップに日本酒を注いで宗助に手渡した。そうすけがカップを掴むと、自分のカップにも日本酒を注ぎ、一気に飲みほした。
「いや、あのですね、我々キャンプ初心者なのですが、彼女の方がランタンの虫に参ってしまって、早々に眠ってしまいまして」
「はあ」
あまり呂律が回っていないことに気がついた。一升瓶の日本酒が半分ほど減っている事や、さっきの飲みっぷりから推察するに、今まで結構な量を飲んでいる事が予想できた。
大方、パートナーが早々に寝入ってしまったが、自分自身はまだまだ飲み足りない。とは言え一人で飲み続けるのは心細くて、繋がりを求めてやって来たのだろう。
適当に会話を合わせれば、いずれ飽きていなくだろうと、宗助は特に追い返すでもなく頂いた日本酒を口に含んだ。
なかなかに美味い日本酒だった。
夏の夜の暑さで常温に戻されてはいたが、冷やで飲むと一層美味しく飲めそうな、キレのある味わいだった。
「キャンプって難しいですね。楽しいんですけど、やっぱなんていうか、色々と慣れないといけない事も多くて」
「このキャンプ場は設備が乏しいんで初心者にはお勧めしないっすよ。この近辺だと○○あたりがいいんじゃないすかね」
「そう○○! あ、アヒージョ食べてください、どうぞどうぞ」
「はあ」
「そう○○なんですよ。実は先日初めて会社のレクリェーションでキャンプをやりましてね、○○に行って来たんですよ。そしたらもう、めちゃくちゃ楽しくて。星は綺麗だし、夜空の下で飲む酒は格別だし、僕めちゃくちゃ感動しちゃって」
「はあ」
「この感動を是非彼女にも教えてあげたい! 美しい星とか、幻想的な焚き火とか、そう言うのを見せてあげたいと思ってですね、道具をかき集めてキャンプに繰り出したんですよ! ○○は予約が埋まっちゃってたから、ここになりましたけど」
「あそこは高速沿いで他県からくる人も多い人気キャンプ場なんで、2か月前くらいから予約しないと無理っすよ」
「ですよねー、舐めてましたよ」
男はアヒージョのウインナーを箸で摘んで口に放り込む。
「なんだろう、ほんと上手くいかないですね。僕は本当に心から感動したから、その感動を彼女とも分かち合いたかっただけなんですよ。彼女はインドア派だから、新しい楽しみを見つけられるんじゃないかなって、良かれと思って企画したのに、結果として彼女を怒らせてしまいました」
「はあ」
「こんなに虫が多いとは思わなかった、疲れたし、もう最悪、とか言ってテントに引きこもってしまいましたよ」
男は自重気味に笑った。
おそらく失敗に終わってしまった初キャンプの鬱憤を吐き出したくて、この男は自分に声をかけて来たんだろうと宗助は感じた。そしてキャンプ慣れしてる自分の様な人間に愚痴を吐いて、いやいやキャンプはこんなに素晴らしいものなのだと、そんな返しを期待しているのだろう。
そんな内面を感じ取ってはいたが、生憎宗助はキャンプの素晴らしさを他人に説いて納得させるだけの言葉を持っていない。
「夏のキャンプは色々大変なんで、涼しくなってきた10月ごろにもう一回行ったほうがいいですよ」
そんな色気のない具体的なアドバイスをすると、男は「あーそっすねー」と頷き、誘い文句を色々考えとかないと、と笑った。
「お兄さんはキャンプ歴長いんですか」
「はあ、10年くらいっすかね」
「ベテランじゃないですか」
「ベテランとか、そういうのないと思うんで」
「はー、なんか、お兄さんかっこいいですね。職人というか、質実剛健というか」
「はあ」
「キャンプはいつも一人なんですか?」
「‥‥そっすね」
テントの中のるりの存在がふと頭をよぎる。しかし幽霊とキャンプをしている、などと言ったところで、お互い引き攣った笑いを浮かべるだけの惨憺たる結果となるだろう。
スキレットの中でオリーブオイルが泡立ち始めた。宗助はスキレットをグリススタンドの端へとを移動させる。
宗助の中に一つの疑問が浮かんだ。
その疑問を、キャンプで顔を合わせただけの名前も知らない男に問いかけてしまったのは、宗助も酒と夏の夜の残り火でのぼせ上がっていたからかもしれない。
「メインはソロキャンプなんすけど、俺も最近、なんだろう、キャンプに連れて行ってあげたいって思う奴がいるんっすよね。俺の見たものを、感動を、教えてあげたいというか、共有したいというか何というか。何なんすかね、この感情は」
宗助が突然語り始めた事で、男は面食らって目を丸くした。それを見た宗助は、恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じた。
相手が打ち解けた会話を仕掛けて来ているとはいえ、なぜ同じテンションで言葉を返してしまったのだろうか。空気が読めずに集団から浮いていた学生時代の自分を思い出す。
「えっと、その相手って、女性ですか?」
しかし、馬鹿にするわけでもなく男は問う。
「まあ、そっすね」
宗助は焚き火を見ながら頷く。
男は悪戯っぽく微笑むと、真剣な顔になって言った。
「それは、その女性に対して、異性として好意を持っているんじゃないですかね」
「あ」
宗助が短く声を上げる。
「大好きな彼女と同じ景色を見たいっていう、僕と同じ感情じゃないすか、それって」
そう言って、男は笑った。
△
消灯時間が近づいて、男は自分のサイトへと帰っていった。残された宗助は、燻り始めた焚き火の薪に火吹き棒で空気を送る。波打つ鼓動のように空気を受けた薪は赤く色付き、すぐに黒色へと還る。
何も考えられなかった。
ただ頭の中は霧が晴れたみたいに妙にスッキリしていた。
「宗助」
テントの中からるりの声がした。
宗助は答えない。返す言葉を探しているのに、今までの人生経験の中では適切な言葉が見つからなかった。
「宗助、さっきの話、聞こえてたよ」
返事はないが、るりは続ける。
「あの、あれって、私のこと、なのかな‥‥?」
「なんすか」
やっと出た言葉は、自分の意志とは何して酷くぶっきらぼうに響いた。
「さっき、あの男の人に話してた、キャンプに連れてってあげたい相手って‥‥」
「他に誰がいるんすか」
宗助は突っぱねると、焚き火の薪を強引に火消し壺に突っ込み、ガスランタンの消した。人の作り出す音が消えると、夏の夜は虫の声だけが鳴り続けている。
大きく息を吸い込んで吐き出す。その呼吸音ですら、なんだか無粋なもののように感じた。
「もう、寝ますんで」
そう呟いてテントを開ける。
開けた瞬間、目の前にるりが立っていた。
「宗助、あの、私をさ、スマホで見てよ」
「はあ」
宗助は手が震えているのを感じた。でもそれは恐怖や不快感からくるものではない。今にも暴れ出しそうな感情を抑え込んでいるような、強張った筋肉の震えだった。
ポケットからスマホを取り出し、カメラをるりに向けた。
画面の中には、頬を赤く染めたるりがいた。
「ねえ、わたし、今どんな顔してる?」戸惑いながら、るりは尋ねる。
宗助は息を呑んだ。
「なんだか、顔がすごく熱い。どうしちゃったんだろうね」
るりは困った顔で笑う。
宗助は、半信半疑だったあの男の言葉が、確認に変わるのを感じた。