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第15話:同じ景色を①

 吹き抜ける風も夏の生温さを帯び始めた7月の初め。門前宗助(もんぜんそうすけ)はしとしと降る雨の合間に大急ぎでタープを張り、雨の様子を見ながらのんびりとテントを張った。ぬかるんだ芝生を踏み込むと、溶けたアイスのように崩れ落ちる。

 いつものコットをテントの隅に置く。いつの間にか現れたるりがコットの上に座る。


「今日は雨かー」


「まだ梅雨明けしてないっすから」


「シェフ、今日のメニューは?」


「ローストビーフでも作ろうかと」


「ろーすとびーふ?」


「鰹のたたきの牛肉版、的なやつっす」


「いいね!」


「はあ」


 宗助はテントから出てタバコに火をつける。雨は止む気配を見せないが、夕方から夜にかけては曇りの予報ではある。山の天気は素直じゃないとわかっていはいるが、ここぞという時には神通力のように雨が止む事も多い。幽霊が存在するのだから、我らキャンパーに好意的な山の神や海の神がいて、少しだけ優しさを示してくれているのかもしれない。



   △



 今回は山奥の湖に面した隠れ家的湖畔キャンプ場を選んだ。徐々に暑さが厳しくなる中で、涼しげな水辺でキャンプをしたかったのが一つ。もう一つは夏に向けて人口が増えてくるキャンパー達の人混みを回避するため。

 キャンプ人口が増えることに対して批判的な感情は無いが、静かなキャンプの空気に水を差されたくないという思いは少なからずある。人が増えれば喧騒が増えるのは当然の事なのだから、それが嫌ならば人の少ないキャンプ場に自ら赴く事が筋だと宗助は考えている。

 そうした思いもあって人里離れたこのキャンプ場を選んだわけだったが、早くも選択ミスを痛感している宗助だった。


「ああああ! タープが倒れる!」


「もー最悪! 下着までぐちゃぐちゃだよ!」


 宗助達とは別にもう1組、このキャンプ場で設営を始めたわけだが、彼らは静かにキャンプを楽しむ余裕など持ち合わせてはいなかった。

 1組の男女、年齢は宗助と同じか少し年上だろうか。二人は見るからに経験が浅い様子で、右往左往しながらテントを組み立てている。女がスマホを確認しながら男に指示を出し、男はそれに従って膝を泥だらけにしながらペグを打ち付けている。他人の設営風景に何一つ興味がない宗助だったが、彼らが宗助のテントの側で設営を始めたものだから、否が応でも視界に入れざるを得ない。


 絹糸のような雨の隙間に染み入るように、タバコの煙が灰色の空へと広がっていく。


 慣れないキャンプとこの雨の相性は最悪だろう。効率的に動ければ雨に濡れる時間を最短に抑えつつ設営出来るだろうが、訳もわからず雨の中を走り回れば、当然天然のシャワーの餌食となる。


「あの人たち、大変そうだね」


 宗助の背中越しに、るりもまた彼らを眺めていたようだった。


「初めてのキャンプは、ああいうもんすよ」


 今日の天候に同情はするが、それを込みで楽しむのがキャンプだと宗助は考える。成功よりも、失敗から学ぶことの方が明らかに多い。


「手伝ってあげたら?」


「はあ」


「なんか、かわいそう」


「そっすかね」


 正直、助ける義理はないと思っているが、彼らのペグの打ち方ではぬかるんだ地面にタープやテントを固定するのは難しい。夜中にテントが倒れたワイワイガヤガヤされても、興が削がれてしまう。


 宗助はるりの方を見た。黒い影のるりの表情ですら、何となく理解できるようになっている。るりは心配そうな視線を彼らに向けていた。


 色々天秤にかけた末、宗助は立ち上がった。


「その打ち方だと、ペグが抜けますよ」


 のっそりと彼らの元に向かった宗助は、膝をついて懸命にハンマーを振り下ろしている男に声を掛ける。


「え?」


 顔を上げた男の頬を、雨の滴が伝っている。余計なお世話と突っぱねられる未来を宗助は予想したが、声をかけてしまった手前、何かしらの具体的なアドバイスをしないとただ単に嫌味を言っただけになってしまう。

 宗助は男の打ちつけたペグのフック部分に指をかけ引っ張る。ペグは意図も容易く抜けてしまった。


「あれ? そんな簡単に?」


 男は首を傾げる。


「これだけ雨が降り続いてると土に水が染み入ってるんすよ。特にこの場所は水捌けが悪そうだから、ちゃんと角度に注意しないと抜けますよ。テントの紐がこの向きでテンションかかってますんで、ペグの向きはその力と垂直になるように‥‥こう」


 宗助は地面にペグを当てて手のひらで押し込む。ぬかるんだ地面にペグは容易く突き刺さる。しかしロープをつかんで力のかかる方向に引っ張っても、今度は簡単には抜けない。


「あ、確かに、そうですねー」


 男は頷いた。

 おそらく予習はしてきているのだろうが、雨の中の設営という焦りが、こういう基本的な知識を水煙で覆ってしまっていたのだろう。


「じゃあ、そういう事で‥‥」


「あ、あの!」


 要は済んだとばかりに立ち去ろうとする宗助の背中に、二つの声が重なって投げかけられる。

 振り向くと、男女は宗助の方を見て、深々と頭を下げていた。


「あの、ありがとうございます!」


 男の方が言う。雨を拭った頬に、泥汚れがべったりと付着している。


「はあ」


 面食らって、宗助もペコペコと頭を下げた。

 他人に感謝されるのには慣れていない。仕事上のメールのやり取りで形式上の感謝の言葉を受けることはあるが、100均の熨斗に印刷されたような言葉とは違う、血の通った熱量のようなものが彼らの言葉にはあった。その熱にあてられたように、宗助は胸の奥がほんのりと温まるのを感じた。


 テントに戻ると、黒い影が心配そうに宗助を見ている。


「どうだった?」


「まあ、教えてあげてよかったっす。あのままたててたら、確実に倒れていたと思うし」


「そっか」


 宗助は小さく頷いて、椅子に座り直した。

 ローテーブルに置かれたコンロに火をつけ、お湯を沸かし始める。来る途中の道の駅で買った生麺タイプのご当地ラーメンを茹でて、すこし遅めの昼飯としよう。


「やっぱり、宗助っていいやつだよ」


 背後からるりの声がする。宗助は振り返らずにコンロの火を調整した。

 タープにあたる雨音は徐々に弱まっているような気がする。いずれ誰も気付かないうちに雨は止み、色の抜けた雲の後ろで太陽が空気を熱し始めるのだろう。

 変化はいつだって、自分の意識の届かないところで起こる。それを観測する者たちは、ただその結果を享受し、時に喜び、時に悲しむだけだ。

 同様に自分の中でも確実に起こっている変化について、その最中である宗助自身は気づいていない。


 ぼーっと雨の糸を眺めていた宗助は、鍋の中で踊る中華麺の変化に気が付かず、グズグズに伸びた麺を前に溜息をつく結果となった。



   △



 雨はいつの間にか上がっていた。


 水分を含んだ空気に新緑の匂いが煮出され、越しに汗ばんだ肌を包んでいた。蝉は鳴き始め、トンボは飛び始め、足元を蟻が歩き回り始める。止まっていた時が動き始めたかのように、生命が活動を再開した。

 夕食の準備までの間、宗助は湖の畔を散策した。薄く差し始めた日光を、波打つ水面が反射している。足元の手頃な石を掴んで水面に投げると、石は3回水面を跳ねた後に水中へ沈んでいった。生み出された波紋はさらに光を乱反射させ、砂金を散らしたかのように瞬く。


 戻りがけに先ほどの男女のサイトを横目で見ると、設営は何とか終わったようで2人でぐったりと椅子にもたれていた。設営で体力を使い果たすのは、初心者キャンプのあるあるである。


「あ、なんか虫!」


 女性の方が叫び声をあげる。


「え、これ何!? ハチ?」


「うわなんだよこいつ!」


 満身創痍の2人だったが、足をバタつかせ、手を振り回しながら、飛び回る虫を追い返そうと躍起になっている。この時期はアブが増えてくるため、当然といえば当然のシチュエーションではある。

 このまま放って置くのも騒がしくてたまらないため、宗助はテントに戻ると、ポールに吊り下げていた小袋を片手に彼らのサイトへと向かった。


「うわっ! うわっ!」


「もう、やだぁ!」


 阿鼻叫喚の彼らの足元に、火を付けた赤い渦巻き状の線香を置く。突然の部外者訪問に、叫び声を忘れる2人。


「あの、どうしました?」


 冷静さを取り戻した男の方が、宗助に尋ねる。


「これ、森林香っていう、蚊取り線香の強力版みたいなやつなんですけど、虫除け効果あるんで」


 森林香を指差しながら宗助は答える。


「え、あの、いいんですか?」


 女の方が言う。


「予備もいっぱいあるんで、別に」


 騒がれるよりは全然マシですので、その一言が口を突いて出そうになったが、押し留める。


「すみません。なんせ初めてのキャンプなので、準備も段取りも不足ばかりで」


 男の方は人懐っこい笑顔を見せながら、恥ずかしそうに頬をかいた。短髪でやや垂れ目、年齢的にはやはり宗助より少し上の20代後半くらいだろうが、年上だからという威圧感は全く感じられず、低姿勢で物腰が柔らかい。自然と人に好かれるタイプなんだろうな、と若干の劣等感を含んだ目で宗助は男を見た。


 一方、女の方は少し気が強そうで、シフォン生地のフェミニンなスカートを履いているその姿からも、アウトドア慣れしてない様子が窺える。都会では精錬されたファッションとして喧騒に溶け込むのだろうが、こんな山奥では逆にひどく浮いてしまっている。白いストライプのサンダルは雨上がりの泥でひどく汚れていた。


「最初は、そんなもんです」


 素気ない言い方かもしれないが、それ以外の言葉を宗助は思いつかなかった。踵を返した宗助の背中に、男が言う。


「あの、後でお返しさせてください。料理とか、お裾分けしますんで」


「はあ」


 断るのも面倒だったので、宗助は適当に濁した。


 足元の芝生についた水滴を弾きながらテントへと戻る。椅子に腰掛け、遠くに見える湖を眺めながら、視界の隅に映り込む二つ並んだ椅子に、理由がわからない焦燥感を感じていた。


「ねえ、早く夕食作ってよ」


 るりの声が、宗助の背後から聞こえる。


「ああ」


 答えながら、るりの声が隣から聞こえる場面など、あの小さなテントの中以外ではあり得ないという事実に、心が揺さぶられている自分がいた。





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