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第12話:初夏の日差しと暗雲③

 巨木の幹にもたれながら、彼女は日が沈んでいく山並みを眺めていた。

 あの山の向こうに何があるのか、その更に向こうには何があるのか。知る事は叶わないと理解しているから、彼女は想像の世界で鳥になり、風になり、世界中を飛び回る。

 一頻り想像の世界を楽しんだ後、再び巨木の根元に舞い戻った彼女は、自分の足元を見る。

 どこにも踏み出す事ができない、この地に根を張ろうとしている無様な足が、そこにはあった。



   △



 たてははスマホの画面に映る光景から目を離す事が出来なかった。目を逸らしたい逃避の感情と、目を逸らすことで全てが有耶無耶の坩堝に消えてしまうかもしれない恐怖がせめぎ合い、もはや言葉も発せないまま画面を見続けていた。

 ともすればこの光景は、単なる情愛によってもたらされた行為なのかも知れない。幽霊という前提を取り除けば、るりが持ち得たかも知れない感情も、それを起点として生じるであろう行動も、間違いではない。それはたてはだって理解できる。

 しかし一糸纏わぬ姿で宗助の口に自らの口を重ねる彼女の姿から、愛情とか、性衝動とか、そういう生々しい感情は1ミリも読み取る事ができなかった。微動だにせず口を繋げるるりの様子は、皮膚に針を突き刺し機械的に体液を吸い上げる昆虫のようだった。


「るり、ちゃん‥‥」


 やっと一言、声が絞り出された。薪の下で弱々しく燃える種火のような声だった。

 今の状況をそのまま放置してはいけないと、たてはの本能がそう叫んでいる。種火に空気を送り込むように大きく深呼吸を繰り返すと、火は大きく燃え上がり、心は徐々に冷静さを取り戻す。


「すけ君! すけ君!」


 るりに声が届かないなら宗助を叩き起こそう。四つん這いで宗助に近づくと、その手を強引に何度も引っ張った。その間も黒い影のるりは、無言で宗助の顔に顔を重ねている。


「すけ君!」


「なんすか‥‥熊でも出ました?」


 揺り起こされた宗助が薄目を開けてたてはを見た。その瞬間、黒い影のるりは顔を上げ、ゆらゆらと立ち上がると、定位置であるコットの上へと戻っていった。


「嫌がらせっすか?」


「すけ君、なんともない?」


「なんともなくないっす。眠いっすよ」


 不機嫌にそう答える宗助はいつもの無愛想な後輩だった。たてははホッと胸を撫で下ろし、コットの上に漂う黒い影にスマホを向けた。

 スマホの画面の中で、裸のるりが虚な目をこちらに向けている。


「るりちゃん?」


 返事はない。たてはは息を吸い込むと、語気を強める。


「るりちゃん!」


「は、はい!」


 スマホの中のるりの目に意識が舞い戻る。状況が飲み込めないのかそのまま視線を泳がせ、たてはを見て止まる。


「あれ? なんでたてはさんがいるの?」


 その表情はいつもと変わらぬ『るり』だった。


「るりちゃん、どうしちゃったの?」


「どうしたって、何がですか? たてはさん、いつの間に遊びに来たんですか?」


「覚えてないの?」


「覚えてないって‥‥いきなりたてはさんが目の前にいたからびっくりしましたけど」


「いきなりって‥‥」


「なんで気づかなかったんだろう。ぼーっとしてたのかな」


 首を傾げるるりの表情は、嘘や誤魔化しを言っているようには見えなかった。

 異様だった空間が、照明のスイッチを入れたように明転し、いつもの空間へと切り替わる。その変化の反動と、緊張の糸が切れたことによる脱力感で、たてははその場に座りこんだ。


「たてはさんって、忍術かなにか使えるんですか? 瞬間移動の術とか?」


「そんな忍術ないと思う」


「うーん、まいっか」


「ていうか、るりちゃん、裸だよ」


「え、あれ、うそ! なんで!?」


 顔を真っ赤にして叫ぶ。いつものキャンプスタイルに切り替えたるりは、ため息と共に宗助を睨みつける。


「見た?」


「スマホの画面、小さいんで」


「でも見えたでしょ」


「ちょっと」


「ひどい!」


「すんません」


 そんなやり取りを見ていると、たてはは先ほどまでの光景が自分の見間違いだったかのように思えてくる。全ての違和感に蓋をして、無かった事に出来たらどんなに楽だろう。しかし、宗助に覆いかぶさる虚な目をしたるりの姿は、どんなに蓋をしようとしても覆い隠す事は出来ない。

 やはり、異質なのだ。

 この少女の存在が常識の範疇から外れているのだから、その少女が引き起こす事態の全てが、常識の範囲内で収まるとは到底思えない。

 戯れ合うような二人のやり取りを聞きながら、たてはは足元を孤独に歩く一匹のアリを眺めていた。



   △



 テントの外に出ると、少し離れたところで宗助がタバコをふかしていた。夜空を見上げて煙を吐き出している。たてはは大学のキャンプサークルで初めて宗助にあった日を思い出して、なんだか懐かしい気持ちになった。


 波の音がする。


「すけ君」


 呼びかけた声をかき消すかのように、波の音が大きくなる。


「なんすか?」


 空を見上げながら宗助は返す。


「私のテント、あげようか?」


「はあ」


 言葉の意味を読み取れないようで、宗助は眉根を寄せてたてはを見た。


「私、使ってないテントいくつかあるから、一つくらいあげても困らないし」


「はあ、別にいらないっすけど」


「この前すけ君が羨ましがってたテントあったじゃん、あれバイクに積むには嵩張っちゃうから、このさい別に譲ってもーー」


「いらないっす」


 宗助は携帯灰皿でタバコをもみ消して、たてはの目を見た。

 普段の宗助は照れ隠しなのかあまり相手の目を見ない。しかしボサボサの前髪の隙間から見えるその目は、言葉の皮膜で隠した真意を見抜こうとしているようで、たてはは無意識に目を逸らす。


「間に合ってるんで、いっすよ」


「そうだね」


 予想していた返答だった。

 多分、今の宗助にとって、もはやこのテントは『壊れたテントの代替品』ではない。自分が何かをしてあげたいと思え、それを笑顔で受け入れてくれる相手と、唯一会うことの出来る小さな城なのだ。

 本当は止めさせたい。

 このテントでるりと会い続けることで、何か良くないことが起こるかも知れない。

 でもたてはがその真意を吐き出してしまえば、自分と宗助、自分とるり、そして宗助とるりの関係が崩れてしまうのは明白だった。


 だから、たてはは何も言えなかった。

 ぬるま湯から外気に身を晒すことも、悪者となり宗助を救うこともできない、そんな弱い自分が悲しかった。


「タバコ、ちょうだい」


「吸いましたっけ?」


「大学の頃に、前の彼氏の影響でちょっとだけ吸ってた」


「じゃあ、やめといた方がいいんじゃないっすか。わざわざ吸うもんじゃない」


「いいから」


「はあ」


 宗助はタバコ一本とライターを手渡す。たてはは慣れない手つきで口に咥えると、ライターを擦った。


「あれ、着かない」


「吸い込まないと、火はつかないっすよ」


「そうだった」


「焚き火と一緒っす」


「なるほど」


 火がついた。同時に流れ込む煙でたてはは軽く咳き込む。


「身体に悪いっすよ」


「だから、いいの」


 弱くて情けない自分を、自ら飲み込んだ毒で死滅させるように、たてはは無理やりに煙を吸い込んだ。


 自分だけは流されてはいけない。

 可愛い後輩を守るため、そしてるりが自分の意識しない別の『何か』に食い尽くされないため。

 この楽しい時間に流されてはいけない。



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