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第11話:初夏の日差しと暗雲②

 生垣の向こうでは青い海が揺れている。頭上から注がれる太陽光が波の隆起に反射して、モールス信号のような点滅を繰り返している。吹く風は海の匂いを程よく含み、設営で滲んだ額の汗を優しく乾かしてくれる。

 小高い丘の木陰に、三角形の小さな山が組み立てられる。

 小山の横で宗助がコーヒーを淹れ始めたため、たてははスマホを片手に宗助のテントへと向かった。


「るりちゃん、いる?」


「まだ眠そうですが、出てきました」


「入っていい」


「はあ」


 椅子に腰掛けて海を眺めながらコーヒーをすする宗助。そのそっけない反応から、彼にとってるりの存在がキャンプにおける『日常』への落とし込まれているのが感じられた。

 テントの中を覗き込む。

 コットの上に黒い影がのっている。

 一瞬背筋に冷たいものが走ったのは、たてはにとってるりの存在が、まだ非日常の枠から外れ切っていないからだろう。しかしスマホのカメラを起動し黒い影を映すと、そこには麦わらのハットを被り長い髪を後ろで一つに束ねた女の子が、申し訳なさそうな上目遣いでたてはを見ていた。


「すみません、驚かせちゃいました?」


「ううん、大丈夫」


 スマホの画面に向けてたてはは笑顔を作る。そしてその笑顔を画面の外の黒い影に移し、再びスマホ画面を見る。

 るりは今時の女の子が着ていそうな、お洒落なキャンプファッションを着こなしていた。素材のレベルが高いので女であるたてはですら目を奪われてしまう。しかし美しさの裏側にどこかアンバランスさを孕んでいるように感じるのは、おそらくアウトドアファッションとは相反して、るりの肌が余りにも白いからだろう。

 宗助が買って行ったキャンプファッションの雑誌がコットの片隅に置かれている。開かれたページにるりの着ている服が載っているので、この雑誌を参考にしたのだろう。初めて会った時は裸で突っ立っていたことを思い出し、たてはは小さく笑った。


「コーヒー飲みます?」


 宗助がテントの入り口から顔を出す。


 宗助がるりに対して特別な感情を持っている事を、たてはは感じていた。それがありきたりな男女の持つ感情なのか、友情のようなものなのか、それとも歪な何かなのかはわからない。ただ他人への興味が希薄だった宗助が、この不思議な少女を思いやる様子を見ていると、たてはの心にも温かい感情が芽生えていた。

 男女の間に生じる感情については、たてはも何度か心当たりがある。それは時に肉体的な繋がりを伴うものだったが、結局のところ心の繋がりが細く脆弱であれば簡単に千切れてしまう。肉体的に触れ合うことも出来ず、肉眼では黒い影に包まれ視認すらできない少女。しかし彼女はここに確かに存在している。その心は確かにここにある。

 ありきたりな繋がりでなくとも構わないと思う。大学時代から気にかけていた後輩が、自分自身の心に従って誰かのために何かをする。例えそれが不器用でも、時に間違えていたとしても。

 初めてるりの存在を知った時、宗助は「金がないからこのテントをこのまま使う」と言っていた。しかし次のテントを購入できるだけのお金が手に入ったとして、今の宗助は新しいテントを購入するだろうか。それは多分、いや絶対にないだろうと、たてはは感じていた。


 たてははスマホの画面を宗助に向ける。


「すけ君が買ってあげた雑誌を参考にしたんだね」


「はあ」 


「かわいいっしょ?」


 宗助は奥歯に何かが挟まったような顔をした後、こくりと頷く。スマホの画面を覗くと、るりも何処か頬を赤らめているような気がした。



   △



 初夏の夜は遅い。

 夕方の夜の境目が曖昧で、薄紫の世界が水平線の向こうまで広がっている。

 たてはがスペアリブのビール煮をお裾分けに行くと、テントの前でブイヤベースを煮込んでいる宗助を、テントの中のるりがぼんやりと眺めていた。彼女にとってはテントの出入り口から見るこの景色が唯一の世界なのだろう。


「ビール煮のお裾分けでーす!」


「うわー、ありがとう」


 るりがたてはの方を向いて笑う。表情は黒い影で見えないが、声の調子でその感情を伺い知る事が出来る。


「こっちも出来たんで、飯にしますか」


「私も一緒していい?」


 たてはが聞くと、宗助は「別にいっすけど」と言って皿と箸を差し出した。


「わー、たてはさんとご飯、嬉しいな♪」


「私もー♪」


 テントの出入り口にるり、すぐ外で向かい合うようにして宗助とたてはが座る。少し離れたところで、焚き火が小さく火の粉を上げている。

 まだまだ夜風は涼しく、テーブルに置かれたバーナーの青い火をオレンジに変える。ランタンの周りを羽虫が数匹飛び回っているが、テーブル下で森林香を焚いているおかげか、蚊などの刺す虫は寄ってこないようだった。

 るりは目の前に並んだブイヤベースとビール煮を眺め「うまーい」ととろけるような声で呟く。そんなるりにたてはがビールを勧めてみると、るり少し悩んでからそれを見つめて「苦い‥‥」と呟いた。


「こんなにマズイのに、こうやって料理に使うと美味しい‥‥不思議」


「かすかな苦味は、味のアクセントになるの。ビールも、何度も飲んでたらだんだんその苦味が病みつきになるかもよ」


「えー、絶対いらないです」


 大袈裟に首を振るるりの姿を見て、たてはは笑った。宗助はいつも通り無言でウイスキーを飲んでいたが、クーラーボックスからビンと500mlの牛乳パックを取り出した。


「あー、カクアミルク!」


 たてはは大きく頷く。


「これなら、甘いから飲めるかと思いまして」


 そう言いながら、宗助はカップにカルア原液と牛乳を入れスプーンでかき混ぜる。


「え、何これ?」


「甘いっすよ」


「ほんと? 嘘だったら呪っちゃうよ?」


 るりは宗助を睨みつける。


「大丈夫だよるりちゃん、これほんと甘いから、飲めると思う」


 半信半疑のるりは「えー」と唸りながら首を傾げていたが、意を決して目の前に置かれたカルアミルクを見つめる。


「あれ? 甘い!」


「どう?」


「美味しい! すっごく美味しい!」


 両手を振り回して感情を表現するるり。たてはがスマホのカメラを向けると、画面の中では天真爛漫な少女が満面の笑みを浮かべていた。



   △



 夜も更けてきた。

 星がくっきりと夜空に散らばる、そんな静かな夜だった。


 そろそろ寝ようと自分のテントに戻ったたてはだったが、久しぶりの他人とキャンプで興奮したからか、なかなか寝付くことが出来なかった。スマホで睡眠を誘うBGMを流してみたが、瞼は無意識のうちに開かれ、暗闇の中で浮かび上がる様々な思考に焦点を当てようと眼球がくるくると動き回る。


「だめだ、寝れない」


 そう呟いてテントから這い出し、椅子に座って星を眺めてみた。

 私は夜の間もずっと起きているの、そうるりが言っていたことを思い出す。寝れない夜も趣があって悪くはないが、日が昇るまでたった1人でテントの中で座り込んでいるのは、さぞかし退屈だろう。

 るりとおしゃべりしよう、そう思い立ってたてはは立ち上がった。宗助は早く寝てしまうため、おそらく今は完全に熟睡モードだろう。起こさないようにひそひそ声でおしゃべりをしていれば、多分迷惑にはならないだろう。

 中学生の頃、初めて友達の家にお泊まりした日の事を思い出した。非日常の経験が楽しすぎてはしゃぎ回りたい気分だったけれど、必死に息を潜めながら友達とのおしゃべりを楽しんでいた。

 あの日の幼い興奮が再び胸を駆け巡り、たては勢いよく椅子から立ち上がる。


 宗助のテントまで10mほど。テントの前に立つと、シート越しに小声でるりに呼びかける。


「るりちゃん、起きてる?」


 返事はなかった。るりはテントを畳んでいる時だけ睡眠し、テントが立っている間は常に覚醒状態だと聞いていたから、たてはは首を傾げた。

 もしかしたら、本当は寝ているのかもしれない。

 そう思い直して引き返しても良かったのだが、先程思い出した幼い興奮の残り火が、たてはの足をテントの前に留めさせていた。


「るりちゃーん、寝てるのー?」


 悪いと思いながらも、たてははテントの入り口のジッパーを少しだけ開けて中を覗き込んだ。るりの定位置であるコットの上に、黒い影はなかった。


 テントの中を見回す。


 たてはの目が、黒い影を捉える。


 それは、床で眠る宗助に覆いかぶさるようにして、微動だにせず、宗助の顔を見下ろしていた。


「るり、ちゃん‥‥?」


 たてはの声にも微動だにせず、るりという名の黒い影は宗助に跨り、その頭と思われる黒い塊を宗助の顔に近づけていた。

 異様だった。

 先ほどまで子供のようにはしゃいでいたるりという少女。しかし今目の前に存在する黒い影からは、そんな人間的な部分が欠如しているように感じられた。

 黒い影が、黒い影そのままの得体の知れない怪異として、たてはの前に存在している。

 るりの存在を知った時、胸の奥底に湧き起こった違和感があった。でもるりと宗助の関係を知っていくにつれて、考え過ぎだと頭の隅っこに追いやっていた想像があった。

 そんなはずはない。

 そんな事、あってはならない。

 正体不明の焦燥感がたてはを覆い尽くす。


「るりちゃん‥‥るりちゃんだよね!?」


 声を抑えてはいたが、それは絶叫だった。

 目の前の存在の正体を明らかにしようと、たてははカメラモードにしたスマホをかざした。

 コットの上にはまだ先ほどのファッション雑誌が転がっている。オシャレに着飾ってはにかんだ笑みを浮かべるるりが脳裏をよぎる。

 その姿のまま、寝相の悪いるりが宗助に覆いかぶさってるような、そんな微笑ましいシーンを願いながら、たてははスマホの画面を覗く。


 裸のるりが、宗助の唇に食らいついていた


 その目はたてはの事も、目の前の宗助ですらも見ておらず、だたガラス玉を嵌め込んだように空虚だった。




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